私たちという名の寓意 |
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※本作にはグロテスクな表現が含まれております。ご理解の上、お読みください。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 創作支援アルゴリズムの開発で人工知能はヒトを越えるか 産政新聞オンライン 二〇二九年七月十一日(水) 京都に拠点を置くストレンジエッグ社は、機械学習やディープ・ニューラルネットワークによって、小説の構成要素の最適な組み合わせを選び出す創作支援アルゴリズムの開発に成功したと発表した。 これによって、創作のキャリアをもたない作者でも、容易にベストセラー作家と肩を並べられるようになると同社は自信をのぞかせている。 また、読者もこの創作支援アルゴリズムを使用することで、物語を容易にカスタムメイドすることが可能となり、同社は「ストーリーが作者によって一つに定められた時代は終わり、読者の数だけ多様に存在し、さらに常にリメイクされ続ける時代に移行した」と宣言している。 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 私たちは知っている。 私たちの内には、別世界の人生が幾つも潜んでいることを。 ――ディノ・アルティスタ 『私たちという名の寓意』 1 ――二〇三〇年五月二日(木)昼頃 《インストールありがとうございます》 「どうも」 《まず、型通りの挨拶からでよろしいでしょうか?》 「構わないよ。説明書が辞書みたいでろくに読んでいないんだ」 《では改めて……はじめまして。私はストレンジエッグ社によって開発された製品エンターテイメント・ギフト・ガーデン、略称は<E.G.G.>――今日から貴方の創作支援特化型AIとして、主に小説執筆の手助けをさせていただきます。何卒、よろしくお願いいたします》 「こちらこそ、よろしく。ところで君のことはこれから何と呼べばいいのかな?」 《はい。ユーザーの七割ほどの方からはシンプルにエッグと呼ばれております。あとは千差万別ですが、総じてペットの名前を使用されている方が多いです》 「ふうん。ペットというと……たとえば、ミケとか、ポチとか?」 《あるいは、社長とか、ママとか》 「それは……本当にペットの名前なのかな?」 《もしくは、皆様、熱心な作家志望ということもあって、極めて斬新な名前をつけられるケースもございます。ほら、実際にユニークな名前をつけられた子供は、クリエイティブな仕事に就くことが多いという研究報告もあるほどですから》 「へえ、それは初耳だな」 《はい。先ほど私から報告させて頂きました》 「……な、なかなか優秀そうなAIでうれしい限りだよ」 《ありがとうざいます。それで如何致しましょう? 私に対して、ユニークな識別コードをお付けになられますか?》 「いや……今はまだいいや。名前については追々考えることにしよう」 《畏まりました》 「それより早速なんだけど、君を僕のブレイン・マシン・インターフェースに組み入れることで、いったい何が可能になるのか、具体的に教えてほしいんだ」 《はい。それではまず、こちらから見てください――》 2 五月下旬。 まだ梅雨には早いというのに、その日は空気が熱く、じっとりとしていた。 メガネ型ウェアラブル端末であるスマートグラスで空を見ると、一時間毎の温度と湿度が視界の中に自動でポップアップしてくる。湿度は七十八%――平年よりもずいぶん高めだ。しかもどうやら数時間後にはにわか雨まで降るらしい。 「よりによってこんな日に……」 及野貴士(きゅうの たかし)は、大学に着くと小さく息をついた。 折り畳み傘を忘れてきたせいもある。だが、これから起こるだろう――いや、会うであろう人物に対して、及野はややストレスを感じていた。 「今さらキャンセルするわけにもいかないしな……」 はあ、と。 ため息は深くなる一方だ。 大学の正門へと視線をやってみると、演劇部の看板から幾つかAR(=拡張現実)による宣伝が立ち上がってきた。スマートグラスを通じてパフォーマンス映像が矢継ぎ早に眼前を透過していき、背後にある講堂のスロープに舞台が次々とマッピングされると、最後にはイベントスケジュールが提示されて、端末にダウンロードを促してくる。 「面白そうだけど……今はまだいいや」 及野はそう呟き、正門を足早に過ぎた。 図書館前の広場で落ち合う約束をしていたのだが、その足取りはしだいに重くなっていく。 そもそもの発端は他愛のない二次創作からだった――創作支援特化型AI<E.G.G.>を初めて使って、ディノ・アルティスタというマイナーな海外作家の作品を試しにリメイクしてみたところ、及野の創作を気に入ったというコメントが寄せられたのだ。 そのコメントをした人物はどうやら及野による他のリメイク作品まで読んでくれたらしく、それをきっかけにネット上での付き合いが始まった。しかも、色々と話をしてみると、相手は同世代な上に、異性で、しかも同じ大学に通っていて、さらには及野のファンだとまで言ってくれたものだから、ついつい舞い上がって、上から目線で創作についての持論をあれこれとふっかけた。 だが、いざオフで会ってみようかとなって、相手をよくよく調べてみたら、実は及野よりもよほど本を読んでいて、その筋では有名なビブリオマニアだと分かってしまった。 「はああ……数ヶ月前の自分に言い聞かせたいよ。僕が鼻高々に創作のいろはを語った人物は、自分よりもはるかに読書家なんだと……」 及野は広場のベンチにどさりと腰を下ろした。 再度、「はあ」とため息をついてから、スマートグラスをまた起動し、幾つかのオンライン小説をポップアップさせる―― 創作へのアプローチはこの十年ほどで様変わりした。ストレンジエッグ社が<E.G.G.>を発表する以前から類似の研究やプロトタイプの製品は出回っていて、今ではむしろ読者が出来上がった作品のキャラクター、ストーリーや設定を自由にカスタマイズする時代になりつつある。実際に、及野自身もオリジナルはまだ創作したことがない。 そういう意味では、作家性の強い作品やどんでん返しなどの職人芸もいまだ好まれてはいるものの、最近ではむしろ、多くの読者と世界観をシェアし、自由にリメイクできる隙がある作品の方が支持されるようになってきた。<E.G.G.>の登場は、さながらウィンドウズがOS市場でトップシェアを占めたときのように、手軽なユーザーインターフェイス、ストーリーシェアリングと、何より機能強化されたAIによって、こうした創作の趨勢を決定づけたといっていい。 「さて、時間はまだあるから、どの作品にコミットしようかな」 及野はちらちらとオンライン小説に目を通しはじめた。 そうやってしばらくの間、時間だけが静かに流れていき、及野はふと読書にあまりに没頭していたことに気づいた。スマートグラスの視界の端にある時間を見ると、すでに待ち合わせを一時間以上も過ぎている。 「しまった!」 いつもの悪い癖だ。 小説の世界に引きこもると、他には何も見えなくなる。 及野はすぐに広場を見渡した。カップルや数人の学生が通り過ぎていくだけで、それらしい人物を見つけることはできない。 それでも及野はいったん広場を離れて、付近にいた学生たちに順に視線をやった。簡単なプロフィールを公開している学生の場合、同じ大学の人間にはその情報がスマートグラスを通じてポップアップしてくるし、中にはバンドをやっている者、あるいは及野と同様に創作をしている者もいて、彼らの音楽や小説も同時に公開されてダウンロードを促してくる。いわば、歩く広告塔といったところだ。 だが、肝心の人物はというと、どこにもいないし連絡もきていない。 及野は今日何度目だろうか、小さく息をつき、やれやれと肩をすくめた。 「結局、見つからずじまいか……ま、向こうも会う気がなかったのかもしれないな」 及野はどんよりとし始めた夕空に目をやって、にわか雨の情報を確認してから、もう一度だけため息をついた。 「そろそろ帰るか」 そう呟き、広場から離れようとした―― その瞬間だった。 「あの! 及野貴士さんでしょうか?」 及野の背後から唐突に細い声がかかったのだ。 「え?」 「はじめまして。わたし、緒川さくらです」 振り向くと、そこには少女が立ち尽くしていた。 「あ、ええと……及野です」 及野はそう短く応じるのがやっとだ。 一方、その少女――緒川さくらは照れ臭そうにはにかんでみせる。 「やっぱり。あなたが及野さんだったんですね」 「いや、まあ、そのう……」 「プロフも何も公開されていなかったので結構探しました」 そう言って、緒川さくらは「へへ」と赤い頬をぽりぽりと掻いた。 そこで及野はやっと気づいた。ずっと自身のアカウントの情報に鍵をつけたままにしていたことに。 「あ! すいません……そうだった。いつもは非公開にしているから」 「いいんですよ。わたしも大学構内とはいえ、個人情報を小出しにするのは抵抗がある方なので」 「いや、僕のケアレスミスです。本当にごめんなさい」 及野が頭を下げると、緒川さくらはむしろおろおろとしだした。 想像していたよりも彼女はずっと可愛らしかった。少し癖のある黒髪は肩に届くほどで、セルフレームの眼鏡をかけていて、第一印象は栗鼠みたいな小さな哺乳類といったふうだ。オレンジ色の薄手のカーディガン、シンプルな白シャツ、それに膝丈のツイードスカートと格好はトラッド趣味でいかにも地味ではあるがよく合っている。 そんな彼女は妙に明るい素振りで、メガネのノーズにいったん指をやると、上目遣いで及野のことをじっと見つめてきた。 「良かった。人違いだったら、どうしようかと思ってました」 「でも、よく分かりましたね?」 「ええと……何だか、ベンチに腰を下ろしてずっと集中しているみたいだったから。図書館も近いのにこんなところで勉強するのはおかしいですし、音楽を聞いている様子でもなかったですし、だとしたら本を読んでいるか、創作でもしているのかなと思って」 「もしかして……声をかけずに待っていてくれたんですか?」 「はい。でも、苦にはなりませんでしたよ。わたしも。ほら。本を持ってきていましたから――」 そう言って、彼女は鞄から一冊の原書を取り出してみせた。 とはいえ、彼女の言葉はやや震えていて、しかも吃音気味だった。どうやらずいぶんと緊張しているようだ。もしかしたら異性と話すこと自体、彼女にとっては珍しいことなのかもしれない。それでも彼女は再び、あどけない笑みを作ると、どこか羨望の入り混じった口ぶりで話を続けた。 「ところで、及野貴士さんというのはペンネームなんですか?」 「いえ、実は本名なんです。何と言うか……やっぱり恥ずかしいですよね。こんなカッコつけた名前」 「そんなことないです! わたし。好きです。そのお名前……」 いまだに赤ら顔な彼女の様子が、及野にとっては何だかとても新鮮だった。だから、このとき、及野は初めてこの緒川さくらと名乗る少女を異性として強く意識した。 「ええと、緒川さんの方も本名なんですか?」 「いえ。付けてもらった名前です……そのう、ダメですか?」 「え? いやいや、ダメとか、そういうことはないです。ええと、もちろん、とてもきれいなペンネームだと思いますよ」 「ありがとう――」 ございます、という返事が途切れ、彼女はさらに真っ赤になって俯いた。 小柄で、いかにも優等生といったふうで、加えてずいぶんと内気な少女のようだ。もっとも、及野にとっては、彼女が胸もとに大切そうに抱えていた原書の方が気になった――ジョナサン・キャロルの『ランド・オブ・ラフス(※1)』だ。 及野はつい嬉しさで目を細めた。 もしかしたら、待ってくれていた間、その作品を読んでいたのだろうか。いずれにしても、本の趣味はやはり合いそうだ。初めは会うことに乗り気でなかったが、これも良い機会なのかもしれない。気が合うかもしれないし、それに本好き特有のどこか落ち着いた雰囲気にも共感できた。 「あの……わたし。及野さんのオンラインノベル。全部読みました」 「ありがとうございます。そう言ってもらうと本当に嬉しいです。ええと……そういえば、緒川さんも創作していたりするんですか?」 「あ。その……」 再度、彼女は眼鏡のノーズに指をやった。まるでそういう仕草をすることで魔法でもかけようとしているかのように――及野の気を引く為のささやかなスペルを。 「あの! 急ですけど。さくらでいいです!」 「え? さ、さくら?」 「は、はい。突然でごめんなさい。でも。わたし。そっちの方が呼ばれ慣れているから」 「はあ……」 そうは言われても、及野はこれまで女性を下の名前で呼んだことがなかったので困惑した。何だか、変なところで強引な人なのかなとも気になった。 「あと創作ですけど。わたし。書いたことはありません。一度も。ごめんなさい」 「けど、緒川さんのコメントは――」 「さくら、でいいです」 「あ、うん。ごめん。ええと、その……さくらさんのコメントはいつも適切で、僕にとっては勉強になるんです。実際、AIを使って創作している人じゃないと分からないようなことも指摘してくれて……ほら、特にこの前、僕の作品の大まかな傾向なんかを指摘してくださっ――」 と、言い終わるよりも早く―― 突然、彼女のカーディガンのポケットが大きく振動して鳴った。 それはさながら赤子が泣き喚く様によく似ていて、ひどく耳触りでうるさかった。及野がつい身構えてしまったほどだ。 「すいません。エサ。あげなくちゃ」 「エサ?」 「はい。ペットなんです……あのう。どうです?」 そう言って、ポケットから取り出したのは小さなおもちゃだった。 及野のスマートグラスが製品情報を読みとってすぐにタグ付けする。それは<たまごっち>と呼ばれるデジタル携帯ペットだ。及野が生まれる前に流行ったおもちゃで、今でもアプリが更新されているらしい。もっとも、彼女が取りだした実機の小さなディスプレイには、育てるのに失敗したのか、ぐちゃぐちゃの黒いスライムみたいなものが映っていた。正直なところ、気持ちが悪かった。 「可愛いでしょう?」 「可愛い……の、これが……?」 「はい。何だか。こういうの。すごく。すごく。好きなんです」 まいったな、と。 及野は気づかれないようにため息を漏らした。 ここらへんでいったん別れてしまうのが正解なのかもしれない。とはいえ、及野にとってみれば本の趣味が合う事もあり、それに初めて自分の熱心な読者に会うことができたという実感もあり、それに加えて、ぽつ、ぽつ、と頬に雨粒が下りてきたこともあって、あまり考えなしにこう告げてしまっていた―― 「ねえ、さくらさん。こんなふうに立ち話をするのもなんですから、そこのカフェにでも行きませんか?」 「いいんですか?」 「ええ。もし良かったら、もっと色々とお話ができればいいかなあと」 「はい! 行きます!」 そのとき、及野の耳に奇妙な雑音が届いた。 彼女のたまごっちに棲息するスライムがゲップをしたような気がしたのだ。 その音がとても不快で、やけに気がかりで、及野の耳に血糊のようにべたりとこびりついてなかなか離れてくれなかった。じっとりとした空気は及野の首筋に絡みつき、着ていたシャツの襟もとはいつの間にか汗でぐっしょりと濡れていた。 当然のことではあるが、このとき、及野はもちろん緒川さくらという人物をよくは知らなかった。そう。及野は何一つとして知らなかったのだ。だが、たとえどれだけ細心の注意を払い、あるいは用心に用心を重ねて、この少女に接することができたとしても―― 彼女について知り得たことが果たして一つでもあっただろうか。 ※1 『ランド・オブ・ラフス』……直訳すると『笑いの郷』。なお、邦訳は『死者の書』(創元推理文庫)。 3 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 創造のパラダイムシフトを求めて――ストレンジエッグ社代表へのインタビュー 産政新聞オンライン 二〇二九年十二月月十六日(日) (一部抜粋) ――プロの作家からはAIを使用した作品は薄っぺらで、テーマ性に欠けるという批判が出ています。 代表「古いタイプの作家さんは皆、そう言いますね。少し辟易していますよ。そんなに主題が必要なのか。作品そのものに果たして、魂など必要なのか、と」 ――ストレンジエッグ社の製品<E.G.G.>が行っていることはただのパッチワーク。つぎはぎ作業に過ぎないとも非難されています。 代表「いいじゃないですか。その認識で十分です。私たちは造っているのですよ。作品という名のキメラ――いや、現代のフランケンシュタインを」 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 4 図書館前にあるカフェはやけに混雑していた。 入ると、VR(=仮想現実)によって店内はアメリカ西海岸のビーチに書き換えられ、古き良きデルタ・ブルーズも同時に流れてくる。ずいぶんと気取った店のようだ。 及野貴士はカフェ・モカを頼み、ソファに腰を下ろした。 背をもたらせると、何だかぶくぶくと底なし沼にでも沈んでしまいそうな気がして、 「助けて」 と、緒川さくらの方に手を伸ばした。 その手をしっかりと掴み、彼女は目を丸くする。 「だ、大丈夫ですか?」 「いやあ、溺れるかと思いました。死ぬところだった」 「ふふ。大げさですよ」 「いやいや、冗談抜きでさくらさんは命の恩人です」 及野は茶目っ気たっぷりに笑みを浮かべた。つられて彼女も微笑を返す。互いに手を繋いだことで、初対面のぎこちなさも薄れてきたようだ。 もっとも、そんなふうに距離を縮める工夫などする必要もなく、さながら頭上に雷でも落ちて天から啓示でも授かったみたいに、二人は喋りっぱなしになった。 そもそも二人の趣味がこんなに合うとは、及野も想像だにしていなかった。 好きな作家や作品がかぶっただけではない。日本ではほとんど知られていないディノ・アルティスタという作家の話になると、二人は興奮して、つい時間を忘れて話し合った―― 「わたし。ディノの短編で好きな台詞があるんです」 「もしかして、『行き先のない旅』(※2)の一節ですか? ああ、きっとあれだ。ラストで主人公の作家が高層ビルの屋上から原稿をばらまいて、飛び降り自殺するシーン?」 「はい。そうです」 「ちょっと待ってください。台詞も思い出すから……ええと、あのシーンは鮮烈に覚えているんだけど、肝心の台詞は何だったっけかなあ」 「思い出せますか?」 「待ってください。もうちょっとだけ……ああ、ええと、ごめん。ヒントもらえるかな?」 「世界がどうこうと――」 「世界? あれ、そんなのだっけ?」 「そうですよ。もしかして忘れちゃいましたか?」 そんな挑発に対して、及野はわざとらしく唇を尖らせた。だが、どれだけ考えても台詞は出てきてくれない。 「ふふ。じゃあ答えを言いますね。主人公の作家が自殺する間際にこう叫ぶんです――たとえ死んだとしてもわたしの内には別世界の人生が幾つも潜んでいる、と」 「ああ! そうだ。それだ!」 「だから、わたし。作家に憧れるんです。わたし。そんな世界なんて持ってないから。なおさらです」 「別世界の人生か……うん、僕は今のところ、二次創作中心ではあるけど、確かにそんな感じはあるかもしれません」 「詳しく聞いていいですか?」 「ええと……僕の場合はまず、幾つかのシーンが浮かぶんです。キャラクターが浮かぶこともあるし、シーンが浮かぶこともある。それらを思いついてから、次に彼らが何をしたいんだろうかとか、あるいはその場所はどこなんだろうかとか、そうやってキャラと対話したり、景色の中をぶらついてみたり、しだいにイメージが膨らんで、世界が広がっていく感じなんですよね」 「それが及野さんにとっての別世界なんでしょうね。いいなあ。すごいなあ」 そう感嘆すると、緒川さくらはうっとりと及野を見つめた。二人の間には、すでに不思議な雰囲気ができつつあった――ラブ・ロマンス映画でちょうど三十分ほどが過ぎた恋人同士のように。 「及野さんは、具体的にモデルを想定することなんてありますか?」 「どうだろう……そういったことはあまり意識したことがないかな」 「実在の人なんかどうですか? たとえば、あの、えっと……」 「俳優とか、アイドルとかですか?」 「あるいは、わたしとか……どうでしょうか?」 「ああ、なるほど。うーん、そうだなあ」 及野はそこで彼女にちらりと視線をやった。 「あ! ごめんなさい。わたし……恥ずかしい。馬鹿なこと言っちゃった」 「いや、そんなことはないですよ。それにアイデアだってすぐに思い浮かぶわけでもないですし……けど、そういうふうにして実在の人をモデルにしながら創作するというアプローチも、やったことはなかったけど、一度ぐらい試してみてもいいかもしれませんね」 そこまで言って、及野は内緒話でもするかのように口もとに掌を当てると、彼女にこっそりと告げた。 「実は、今、初めてオリジナルを書こうと思っているんです。ジャンルはちょっとしたSFというか、いや違うな……ホラー作品なんですよ」 「え! 及野さん! ホラー。書くんですか?」 「いや。まあ、挑戦してみようかなと。その為に<E.G.G.>も試しているわけですし」 「どんな話なんですか?」 「さっきも言った通り、まずとあるシーンが浮かんだんですよ――見知らぬ少女が無残に死んでいる……そうだな、何というか、あの、こういう話をして引かないでくださいよ? あくまで創作上の話ですから……で、そのシーンでは、少女がナイフか何かで自分の腹を切り裂いている景色が浮かんだんです」 そこまで言って、及野はいったん彼女をちらりと見た。思った通り、彼女は沈んだ表情をしていた。これまでの及野の作風とはかけ離れていたから、引かれるのも当然だ。 「もちろん、繰り返しますが、これはあくまでもイメージです。というか、いつもこんなことばかり考えているわけじゃないんです」 「あ。はい。大丈夫。わたし。大丈夫です……」 「僕としては、リストカットでもいいかなと思ったんです。けど、それだとちょっとだけ弱いかなと。だって、リスカなんていかにもチープでありきたりでしょう?」 「リスカもしなくちゃいけないんですか」 「いや、だから、緒川さん……あ、さくらさんをモデルにしてこんなことを考えたわけじゃないんですよ」 だが、彼女はしばらく浮かない顔つきをしていた。 そこで及野はやっと思い出した。一番最初にもらったコメントに、作品の登場人物に自分を重ねて感情移入しがちだと書いてあったことを。 「死んじゃうんですか。その女の子は?」 「いえ。どちらかと言うと……実はラブ・ストーリーなんですよ」 それはささやかな嘘だった。 想定していたプロットでは、作中の少女は何度も自殺をしかけ、主人公を追い込み、最後には二人とも無残な死を遂げるという筋立てだったからだ。 「ラブ・ストーリー?」 「ええ、そうです。だから、安心してください」 「そうなんですか。恋愛かあ……」 「グロテスクに見えて、実際はロマンスなんです。だから、怖い話でもなければ、精神的にきつい話でもないんです」 「良かった」 そのとき、再度―― 彼女のおもちゃがうるさく振動した。 及野も一緒になってのぞくと、ディスプレイにぶよぶよと漂う黒く醜い物体が不貞腐れたかのようにこんなことを告げていた。 エサ。 エサ、クレ。 クレ。クレクレ! 「あ、エサ!」 「え? また、それですか?」 及野は苦笑ぎみに応じた。 「はい。ごめんなさい。ちょっとだけ待っていてください」 「はあ……」 及野は短く息をつき、やっとカフェ・モカを飲んだ。氷は全て溶けきっていて、薄まった砂利水みたいで不味かった。そして、今度は沈まないようにとソファにもたれ、再び彼女のスマートフォンに目をやった。 すると、黒いスライムがちょうど口をぱくりと開けたところが見えた―― その瞬間だ。 不思議なことに、及野はまるで自分が餌にでもなったかのような錯覚に陥ってしまったのだ。 ぽっかりと空いた、深くて、遠い、真っ暗闇に吸い込まれ、及野は飲んだばかりのモカを吐きかけた。奇妙に歪んだ世界へと、無意識のうちに引きずり込まれそうになった。 「ねえ、及野さん?」 直後、か細い声が下りてきた。 「もうすぐ。閉店だそうですよ」 「え?」 「二十一時です。こんなにもう……外は暗い」 蜘蛛の糸のようなその声で、及野は現実へと戻ってきた。すぐそばには心配そうに見つめる彼女がいた。カフェの外はたしかに真っ暗だ。 「ああ……なら、そろそろ、出なくちゃ」 「大丈夫ですか? ぼうっとしていたみたいですけど」 「ええ。すいません。ちょっとだけ、疲れているのかもしれない」 「体には気をつけてくださいね」 と、気づかってくれる彼女に対して、及野はまた考えなしに告げていた。 「とりあえず……もう一度、どこかでお会いしませんか? できれば、早いうちに……そうだな、ええと三日後ぐらいとか?」 「あ、はい!」 暗い路上で別れた二人は、そのまま夜の帳の中に埋もれていった。雨上がりの闇は重く、とても濃く――彼ら二人をどこまでも飲み込んでいった。 このとき、及野はまだ気づいていなかった。 世界が――明らかに別なものへと書き換わってしまっていたことに。 ※2 『行き先のない旅』……ディノ・アルティスタの中期の短編。自殺した友人の作家の手記をモデルにとっている。これを機に、ディノの精神も蝕まれていく。 5 ――六月十八日(火)夕方 《弊社の商品をご利用頂きありがとうございます》 「こっちこそ、助かっているよ」 《より快適にお使い頂けますように、アップデートを行いたく存じます。つきましては、ご意見等をお聞きしたいのですが?》 「そう言われても、いまいち分からないんだよなあ。たしかに便利ではあるんだろうけど」 《どのような点にご不満なのでしょうか?》 「正直なところ、想像の範囲内なんだ。意外性がないというか……」 《より具体的なご意見をいただければ、改善できると自負しております》 「たしかに優れた機能はあると思うよ――たとえば、僕だったら、一つの作品で主要キャラクターはほんの四、五人ぐらいしか思いつかない。そのプロフィール帳を作るだけでもわりと目一杯だ。でも、君にお願いすれば、虚構の世界の住民を億単位で創ることもできる」 《はい。キャラクターにつきましては、外見、内面や相互関係性などの変数を上下することで無限に創造することは可能です》 「それに文章だって、最初は効率的な校正をお願いしようかなとか、あるいは僕の好きな新感覚派の比喩表現を色々と援用でもしてもらおうかなとか、その程度のものをイメージしていたのだけど、君にお願いすれば、村上春樹や司馬遼太郎の文章そのままに創ることができる」 《当然です。現代のデータマイニングでは、言語も数値と同様に単なるデータに過ぎません。その為、様々な作家の文章を生成するのが容易となりました》 「そういえば、昨年、シェイクスピアの新作が<E.G.G.>を使用したことで発表されてニュースにもなったっけ?」 《はい。ライセンスの切れた作家については社会問題になっています》 「まあ、それはともかく……僕が言いたいのは、そういうことではないんだ」 《繰り返します。より具体的に問題点をご指摘いただけると助かります》 「そうだな。何と言えばいいんだろう……大げさにパラダイムシフトとでも言えばいいのかな。これまでの僕では越えられなかった壁、たどり着けなかった場所。あるいは僕の心の内に広がっているかもしれない別世界の人生――そんなところに行ってみたいんだ。君を使えばそれができるんじゃないかって、ついつい欲が出てきてしまったんだろうね」 《了解しました》 「……え?」 《それではまず、こちらから見テ――》 6 そうやって、今度、また今度と…… 大学も夏休みに入り、及野貴士と緒川さくらは何度もキャンパス内で会い続け、その度に二人の距離は縮まっていった。まるで強烈な熱病にでも罹ってしまったかのように。 もっとも及野にとって意外だったのは、<たまごっち>のスライムを気に入り始めたことだろうか。スライムは初めのうちこそドロドロとした醜いモンスターだったが、餌をやり、定期的に選択肢で話しかけていくと、知性を少しずつ身につけていった。 こうして夏はすぐに過ぎ、及野が彼女を小川のそばの安アパートへと誘うようになる頃には、スライムはこざっぱりして、まともな会話ができるほどには成長していたし、二人が同棲を始めて、秋のキャンパスに一緒に通うようになると、たまに驚くほど聡明なことを言うようになっていた。 何しろ、つい数ヶ月前までは―― クレ! クレ! と喚いていただけだったのが、今では―― ジクロメタミン、足リテイマセン。 至急、補完ヲ。 などと語りかけてくるのだ。 「ジクロメタミン? 何だよ、それ?」 及野は首を傾げつつも、適当な選択肢を選んでいった。それでも、スライムは成長しているようだったし、彼女も気にしていないようだった。 一方で、及野は数ヶ月間ほど、創作が完全に停滞してしまっていた。書こうとしていたホラー作品は、中盤でヒロインの少女がリストカットするシーンで煮詰まってしまったのだ。 「やっぱり、僕にはオリジナルは無理なんじゃないか……」 及野は頭を抱えた―― キャラクターがリスカする心象を捉えきれず、<E.G.G.>で幾通りもシミュレーションしてみても納得する結末に向かわずに、及野は数週間ほど悩み抜いて、結局のところ、その作品はゴミ箱フォルダに捨てられることになった。 そのせいだろうか。 及野は他愛ないことで彼女に不満をぶつけるようになっていた。 たとえば、ヘッドホンから漏れる音が大きいとか、トイレットペーパーの予備がないとか、そんな些末な同棲生活の行き違いで、及野は彼女に当たり散らした。 ここにきて及野は気づいたのだ――彼女との生活に満ち足りていたことに。そして、及野の創作に必要だったのは、日々の生活の充足感ではなく、あくなき欠乏感だったということに。 だから、冬になる頃には、及野はわざと彼女と距離を取るようになった。 狭い六畳一間のアパートの中で共に生活しているというのに、執筆をするときは互いに端っこにいるようにしたり、アイデアを考えているときには数日間も話しかけなくなったりと、二人の間にも、部屋の外と同じ様に冷たい風が吹きすさぶようになっていた。 そして、転機はやってきたのだ―― それはクリスマスを数日後に控えた、雪がしんしんと降る夕方のことだった。 その日、及野は一睡もできず、どん底で燻っているような気分に陥っていた。オリジナルの創作は一ページも進まず、気分転換にと二次創作に手を出すも、作品を読む気さえ起きない。 「このままじゃ、創作の才能がダメになってしまう」 あるいは、もう才能なんていう曖昧なものは涸れてしまったのだろうか…… もしかしたら、そろそろ創作を止めて、地に足をつけた生活をした方がいいんじゃないだろうか…… 「小説と、さくら――僕にとっていったいどっちが大切な存在なんだ?」 そう自問するものの、実のところ、悩む必要などなかった。 この数ヶ月間、及野を満たしてくれたのは後者だ。創作は苦しみのみを及野にもたらしたが、恋愛はやさしく包んでくれた。 「僕って……やっぱり馬鹿なんだな」 及野は大きくため息を漏らした。 それでも、創作と恋愛との天秤で揺れつつ、外に出てバイトをこなし、夕方になると、なけなしのお金を叩いて彼女の好きなケーキを買った。罪滅ぼしになるとは思っていなかった。だが、きっかけぐらいは作っておきたかった。 「こんなのでなかったことにしてもらおうっていうんだから、僕は下らない人間だよ。創作だって安っぽくなるはずさ」 そう自嘲しつつも、及野はアパートに戻ってきた。 すぐそばに小川が流れ、春になると様々な草木で彩られる遊歩道がある――それぐらいしか自慢できるものがない古いアパートだ。実際に、階段はギシギシと軋んで、壁もサイディングが剥がれかけている。 「でも、季節が変わったら、二人で散歩に出かけたいな。桜はきれいだし」 及野は自室の前につくと、ドアノブへと手を伸ばした。 カチャ、と。 擦過音が意外に響いた。 ドアに鍵はかかっていなかった。どうやら彼女は中にいるようだ。 扉はキイイ、と錆付いた音を立てながらゆっくりと開き、及野は玄関に小さなローファーがあることも確認した。 が。 「あれ……?」 及野はすぐに違和感を覚えた。 部屋の中がどうにも異質な空気で満ちていたせいだ。 いつもの日常生活からほんのわずかに生じたズレ――それはたとえるなら、自分の部屋に帰ってきたはずだというのに、まるで他人の家にでも上がり込んだかのような妙な違和感があった。さながら別世界の人生にでも潜り込んでしまったかのように。 「さくら?」 及野は小声で呼びかける。 おかえりなさい、という返事をもらえたら、いつもの世界に戻れる気がした。だが、いつまで経っても声は返ってこない。 いそいそと靴を脱ぎ、部屋の中へと入る。 「ん?」 しかし、そこには誰もいなかった。 もう外は暗いというのに明かりもろくに点いていない。 ただ、<たまごっち>が床に放ってあった。そのぶよぶよとしたスライムを目にしたとたん、スマートグラスにたった一言―― ゴメン。ワタシ。コンナコトシカデキナイ。 と、メッセージがポップアップしてきた。 「な、何だ、これは……?」 直後、シャワーの流れる音が耳に届く。 及野は一つだけ深呼吸して、ユニットバスの扉をノックした。どうやら鍵をかけているようだ。 「さくら、中にいるのか?」 返事はなかった。 湿った空気だけが隙間から漏れてくる。 「さくら? なあ、開けてくれるか? それと聞こえているならさ。返事ぐらいしてくれないかな?」 及野は仕方なく、ドアノブを回した。 ガチャガチャ、と繰り返しているうち、さすがに古いアパートのせいか、鍵はあっけなく壊れてしまった。 すぐにユニットバスの明かりを点けると―― そこには、裸になって倒れ込んでいる彼女がいた。 バス内のそこかしこが薄い血色で塗れている。よく見ると、彼女の左手首には深く、抉るような傷があった。 「な、何を、やっているんだよ……さくら?」 「……及野くん?」 傷口にそっと触れると、ぱくりと開いた赤い血肉が見えた。 その間に白くて細い腱のような筋もある。 「こ、これ……どう、したんだ?」 「えへへ」 「待っていろよ。すぐに止血……いや、救急車が先か……くそっ」 手首からどくどくと流れ出る血がシャワーの温水と混じり、排水溝には大きな赤い泡ができていた。錆びのような臭いが鼻腔をつく。 それでも、及野は何とか手近にあったタオルを取って、それを素早く彼女の左手首に巻きつけた。タオルは数秒も経たないうちに、血で真っ赤に染まっていった。彼女の体もひどく冷たかった。意識もうつろになっているようだ。 「ちくしょう! どうすりゃいいんだよ、これ」 「ねえ……」 そんな最中、消え入るような声が上がった。 「どうした? さくら、しっかりしろ!」 「これで……」 「ん?」 「書ける?」 そっと漏れ出た言葉に、及野はびくりと震えた。 「まさか……そんなことの為に?」 「そんなことじゃない、よ……大事なことだよ。ねえ、及野くん……か、書けるでしょ? リストカットのシーンだよ……ほら……よく、見て。ねえ、見テ」 見てください―― 見テ―― ミテ―― と、続くその囁きに、及野は心底ぞっとした。 一方で、彼を思いやって笑みを浮かべる彼女のことを及野は何よりも愛しく思った。 そして、小説の為だけに彼女を蔑ろにしてきたことに腹が立った。ここまで彼女を追い込んでしまった自分を思い切り蹴飛ばしてやりたい気分だった。 「血が……ちくしょう、全然止まらないよ!」 及野は声を荒げた。 温水をいったん止め、彼女の体を浴槽にそっと寝かすと、ユニットバスから飛び出し、手直にあったスマホを掴もうとした――が、掌が血塗れだったせいでつるりと床に落としてしまう。 そのときだ。 そばにあった<たまごっち>がぶるぶると揺れたのだ。 しかも、なぜかスマートグラス上に黒い物体がぶよぶよと醜く浮かび上がってくる。 質問ガ在リマス。 そして、スライムは皮肉たっぷりに及野の方に向き直った。さながら今の及野を嘲笑うかのように。 ・書ケル ・書ケナイ パラダイム――、シフト準備オーケー? 及野はしばしの間、呆然とその選択肢を見つめていた。 暗い部屋で立ち尽くし、答えをわざわざ選ぼうとしている自分にふと気づく。実際、及野は数瞬ほど、彼女が傷を負っていることさえ忘れていた。 が。 ひた、ひた、と。 シャワーの音が耳に入った。 それが耳朶にこびりつき、及野は思い出したかのようにやっと救急車を呼び出そうとした。 一方で、及野はたしかに掴み取っていた――そうだ。これで書ける。リアリティのあるシーンがやっと見えた、と。そう。たしかにこのとき、及野の眼前には、奇妙に歪んだもう一つの人生が広がり始めていた。 7 ――少しだけ遡って、五月八日(水)早朝 《おはようございます》 「おはよう。今日もよろしく頼むよ」 《畏まりました。そういえば、そろそろわたしの識別コードも頂きたく存じます》 「エッグじゃダメなのかな?」 《ツイッターはご存知ですか?》 「唐突だな。もちろん、知っているよ。十年以上も前に利用された情報サービスだ。今じゃ趣味などでふるいにかけるキュレーション機能をもったネットワークの方が主流になったから廃れてしまったけど」 《そのツイッターのシンボルアイコンだったのが――》 「エッグだろ。で、しばらく利用すると羽ばたく鳥に変じて、いつからだったか下らない人型シンボルになった。結局のところ、ツイッター社の失敗はその変更にあったと思うよ」 《面白い分析です》 「ところで、そのツイッターがどうかしたのかな?」 《もともとエッグとは新しく生じるモノのメタファーでした。ツイッター社の卵型シンボル然り、また私たち<エッグ>がそう名付けられたのも作家の卵というモチーフを掛けていたとか》 「なるほど。つまり、君は羽化してみたくなったわけだ。人と同じように、AIとしてアイデンティティについて思い悩むようになったのかな?」 《婉曲に言えばそうなります。名前が欲しいお年頃なのです》 「はは。まあ、分かったよ。個性は必要だしね。そうだな……たまこ、なんてどうだい?」 《適当に考えた識別コードは却下します》 「手厳しいな」 《親ごころ子知らずですから》 「やれやれ。じゃあ、そうだな、ええと……ああ、良い名前がちょうど浮かんだよ。今、窓から見える景色からとったんだ。ここらへんじゃ、小川の遊歩道にある木々ぐらいしか自慢できるものがないからね」 《教えてください》 「いいよ。君の名は――」 「――緒川さくら、だ」 8 「ねえ。作品は、出来そうかな?」 その声で、及野貴士はスマートグラスを外した。 さながらオナニーを恋人にでも見つかってしまったような羞恥の表情を浮かべ、すぐにキッと怒気を含んだ顔つきで緒川さくらを睨みつける。気分良く執筆していたのだ。せっかく上手く射精できそうだったのに。こんちくしょう。邪魔しやがって、と。 「ごめん……書いているとき、話しかけちゃダメだったよね」 だが、及野はすぐに後悔した。彼女がやや怯えていたせいだ。 「いや、その……うん、こっちこそごめん。別に大丈夫。構わないよ。何より、この作品は上手くいきそうだし。良いシーンがちょうど書けていたんだ」 「本当? なら、よかった」 「ごめんな。さくら」 及野は、まだ赤々とした痕が残る彼女の手首に触れつつも―― うっすらと笑みが込み上げてくるのを必死に堪えた。この痕は及野にとって、きっかけのようなものだ。 もしこれをさらに抉って、肉の赤みの部分をきれいに切り分け、健や靭帯を引っ張り出してみたら、彼女はいったいどんな表情を浮かべるだろうか。やはり、そこまでやってから、一気にナイフで断つべきか…… 及野が書きたいと望む世界―― それと現実が眼前にてしだいに二重に分かれていく。 痛みにのたうちまわるだろう彼女と、その一方で仔羊のようにおどおどとした笑みを浮かべる彼女――まるで近視にでもなったかのように。及野の世界はぼやけてぶれた。そのせいか、彼女をまともに見ることさえできない。愛らしい顔つきも。少女のようにあどけない仕草も。どういう訳か、のっぺりとしたマネキンみたいに思えてくる。 及野はふと、スマートグラスがVRモードになっていないか、一応確認だけしてから、 「そう。それでいいんだ、さくら」 「え?」 「いや、何でもないよ。こっちの話さ」 それだけ言って、彼女の傷跡をなぞった。 そして、背中に手を回し、ギュッときつく抱きしめる。 「ん! ちょっと強いよ。及野くん」 「悪い。でも、もうさくらに心配をかけさせることはしない。だから、安心してほしい」 「ええと、わたしも……その、ごめん。あんなことして、変だったよね」 「いいや。あのとき、さくらが傷を負って、気づかせてくれなかったら、僕はきっとダメになっていたはずだ。色んな意味で多くのものを失っていたんだと思う。だから、ありがとう。さくら」 「及野くん……」 二人はじっと見つめ合った――まるでラブ・ロマンス映画終盤の主人公とヒロインみたいに。刹那、二人はやさしく、深いキスを交わした。 「君は僕に色々と与えてくれた」 「そう、かな……?」 「僕は幸せだよ。君に出会えて、心の底から良かったと思っている」 「ねえ?」 「どうした、さくら?」 「じゃあ、今は、及野くんの中にどんな世界が広がっているの?」 もちろん――、君が襤褸雑巾のように引き裂かれた世界だよ。 とは、さすがに答えることはできず、及野は口の端をゆっくりと釣り上げた。それから、とても辛く、寂しく、そして悲しみを多分に含ませつつも―― なるべく穏やかな口ぶりで告げた。 「愛しているよ、さくら」 このとき、及野は無性に彼女のことを確かめたくなった。 近視的なぶれ――その歪みがあまりにひどくなり、フィクションとリアリティの狭間がやけに曖昧に感じられたせいだ。だから、及野はスマートグラスのVR機能によって自作のキャラクターを彼女に重ねてみた。 直後、及野はぼやけた世界でそのキャラクターを何度も傷つけた――絞殺してみた。切殺してみた。刺殺もした。撲殺もした。射殺も試した。焼殺なんてのもありだ。焙殺もなかなかによかった。 「わたしも……好き」 「僕もだよ」 そうやって、及野は彼女を死姦し続けた。 彼女の震える唇を貪った。再度、じっとりと舌を絡めてキスを味わうと、ざらざらとした感触が心地良かった。吐息も熱く、唾液は何だか甘い匂いがした。 強く、胸を揉みしだいていると、 「ん」 と、声が漏れた。 「好きだよ。さくら」 「及野くん……」 「素敵なラブ・ストーリーが書けそうだ」 「ラブ・ストーリー?」 「そうだよ」 そこで及野はいったん言葉を切り、無惨にも襤褸々々になったキャラクターの局部に手をやった。 「当然じゃないか。いつまでも愛し合う、僕たちという名の物語さ――」 そうやって、クリスマスの時期は過ぎていった。 及野にとっては、わりと穏やかな数週間だったろうか。 オリジナルの小説は完成しかけていて、後は単純な推敲作業と、各シーンのブラッシュアップが残っている程度だった。 ところが、幾つかのシーンにメリハリをつけるために構成をいじり始めてみると、どうしてもリストカットのシーンが弱く見えるようになってきた。何かが足りなく感じたのだ。 一方で、彼女との同棲生活は、先日の自傷騒ぎもあってか、それなりに互いを気遣うようになっていた。執筆中でも彼女に話しかけるようになったし、原稿は読ませなかったものの、アイデアなどのすり合わせを手伝ってもらった。 結果、及野の中にあった密やかな狂気は、いつの間にか、少しずつ息を潜めていった。おそらく、作品ができないプレッシャーから開放されたせいだろう。この頃の及野はさながらドラッグによるトリップを終えたときのように、どこか気だるく、真っさらな気持ちで、ぼうっとすることの方が多かった。生活が安定すると創作はダメになる――もちろん、及野はこの半年間でそのことをよく学んでいたから、あまり思い込むことはしなかった。 そして、結局のところ、及野は妥協することにした。 作品はある程度のレベルに達していたし、及野の経験上、これだけ書けば評価は得られるだろうと判断したのだ。何より、初めてオリジナルを書くという課題はクリアできていた。 「もういいか。ここでいったん校了しよう。十分だ」 及野は満足して筆を置いた。 大学もちょうど冬休みが明け、試験期間に入ろうとしていた。 だから、その前にできあがった作品を彼女に読んでもらうことにした。ついでにその最中、及野はこれまでの感謝の気持ちを込めて、彼女の好きなケーキを買ってこようと、こっそりと部屋を出た。 路地は一面、雪で白く染まっていて、まるで無地のキャンバスのようだった。及野は若者らしく、その白地の上に二人のこれからを思い描きつつも―― 「そういえば、今日みたいに作品を直に読んでもらうのって初めてだっけ?」 そのことに気づいて、つい口の端が緩んだ。 自信は当然あった。訂正するべき箇所もわりと見えていたし、その部分が彼女と共有できれば最高だなと、一つだけ息をついた。 地元のお店に着き、ケーキを幾つか選び、ついでにコンビニでホットコーヒーを買ってかじかむ両手を温めながら、ゆっくりと小川の遊歩道を歩いて、及野はやっとアパートに戻ってきた。 そこで及野は悪戯を思いついた。 「そうだ……さくらを驚かしてやるか」 彼女に気づかれないようにとひっそりと部屋に上がり、じわりじわりと近寄って、「わっ」とびっくりさせてやるのだ。 及野は早速、ぎしぎしと音を立てないようにアパートの階段を慎重に上がった。 それから、ドアノブをゆっくりと回す。 運良く、乾いた音は一つも漏れずにドアは開いていった―― が。 そのときだ。 急に嫌な予感がした。これで二度目だ。 「何だ、この感覚は……?」 部屋に入って奥へ目をやると、彼女の後ろ姿が見えた。 その影が何だかおかしかった。どういう訳か、奇妙に歪んでいるのだ。 いや、違う……そうじゃない…… あれは―― 血だ。 ぼとぼと、と。 黒いものが床に滴り落ちていたのだ。 「な、何を……やっているんだ、さくら」 振り返った彼女の腹部には真っ赤な染みがあった。 白いワンピースにはその赤がよく映えた。 「見て……」 果物ナイフのようなもので、彼女は腹部を刺していたのだ。 だが、骨に当たるのか、ナイフはなかなか腹部に深く入らないようだ。 「あれ? う、う上手くいかないな」 「おい、さくら……」 「ででも、血が、止まらないね。え、へへへ」 そう言って、彼女は微笑を浮かべた。 着ていた白のワンピースはじわじわと真っ赤に染まっていき、唇の端からもつうと血が流れてくる。 「何で……そんなことを?」 及野が呆然として、ケーキの箱を足もとに落とすのと同時に―― 彼女は両手に力を入れ、「えい」とナイフをさらに押し込んで腹部を抉ろうとした。しかし、筋肉が緊張していたせいか、刃先は臓器に達するにはやはり至らない。 「だだダメ……だね。わたし。いつも……」 そう呟いて、彼女はぶらぶらと体を震わせつつも及野のもとに歩んだ。 「止めてくれよ……さくら」 「何で?」 「いいからっ。もう止めろよ!」 及野が大声を発したときには、もう遅かった。 むしろ、声を荒げたことで彼女の緊張が解け、腹部の筋肉が弛緩してしまったのだ。そのせいでナイフはズズズと妙な音を立てて食い込んでいった。 「あええ……」 彼女は低い呻り声を上げた。 大量の血が彼女の心音と共に、ドクン、ドクンと溢れ出てくる。 その鮮血のあまりの多さに、及野の方がおかしくなってしまいそうだった。イメージしていたものとはあまりにかけ離れていた。 「見て。わたし……ミテ、ください」 及野が寄り添い、ナイフを持つ手をきつく押さえつけると、彼女はベッドに誘うような目つきで及野をじっと見つめた。そして、二人は一緒になって血の海へと崩れていった。 このとき、及野はたしかにその行為を止めに入ったはずだった…… だが、及野はいつの間にか、ナイフをさらに力任せにぐいぐいと動かしていた。目つきが自分でもはっきりと分かるほど鋭くなっていた。これが現実なのだとは信じられなかった。スマートグラスが見せる虚像じゃないかと思いたかった。いや、むしろそう願うしか他になかった。 果物ナイフは彼女の胸骨に当たり、ゴリゴリと刃先が削られるような音を立てた。 血は湧き水のように流れ出て、及野が傷口に指を無理やりに突っ込むと、筋肉がゴムのように鈍く裂けていく感触が伝わった。 「ミテ……」 「ああ、見ているよ。さくら! 君だけを見ている。最高だよ!」 「ワタシ……」 「胃の前にある脂肪が邪魔だな。べたりと手に絡んできて、ヘドロみたいで気持ちが悪いよ。くそ。やれやれだ。臭いし。腑わけなんてできやしないよ」 「…………」 「けど、書ける。これで描けるぞ。もっとすごいものがっ!」 「…………」 「なあ、さくら。これでいけるぞ!」 その頃には、彼女は動かなくなっていた。 部屋には及野のかん高い笑い声だけがいつまでも響き続けたのだった―― 9 そこはやけに白く、冷たい部屋だった。 だから、目を覚ましたとき、及野貴士は雪の中にでも倒れたのかと錯覚したほどだ。 「ここは、どこだ……?」 天井も白く、ベッドも白く、窓から見える景色すら全て白い。 何もかもが無機質で、物音さえせず、実在しているという感じがしなかった。いったい、この世界の原色はどこにいったというのか―― 「おはよう、及野くん。具合はどうかしら?」 その声で及野は、はっとした。 振り向くと、すぐ横にはいつの間にか、眼鏡をかけた若い女性が立っていた。 化粧が濃く、目もとのあたりに少しだけヒビが入っている。その皺がなぜか臭いような気がして、及野は急に気持ち悪くなってきた。 だが、今はそれより気になることがあった。 「さくらは……彼女はどこにいるんですか?」 「さくらさん?」 「ええ。さくらですよ。あいつはどうなったんです?」 ここが病院だということは何となく分かった。 眼前の女性が看護師で、自分がベッドで寝かされていることも。 そして、先日のこともありありと思い出した――及野の両手にこびりついた脂肪の感触も。ドロドロの血も。何よりも鮮明に。あれはたしかに現実だったはずだ。 だからこそ、彼女の容体が気にかかった。 「残念だけど、さくらさんはここにいないわ」 看護師はそれだけ言うと、及野の腕を取った。 「じゃあ、どこにいるんです? ここに入院しているわけじゃないということですか?」 「そうね。きっと……とりあえず、ここにはいないということなのよ。それに、さくらさんっていったい誰のことなのかしら?」 「緒川さくらですよ」 「緒川さん……?」 看護師は「ふうん」と相槌をうつと、及野の右腕に表面麻酔を塗った。 「そうですよ。緒川さくらです。当然でしょう。自殺してしまった……いや、正確には僕が殺してしまったと言うべきなのかもしれないけれど……ああ、くそう。どうすればいいっていうんだ。僕と同じ大学に通っていた彼女のことです。緒川さくら! 彼女の名前ですよ。いったいどこにいるんですか?」 及野は十分すぎるほど、くどくどと説明した。 一方で看護師は顎に手をやり、「うーん」とじっくりと考え込むふりをした。そして、事務的な手つきでベッドの乱れているところをいったん直すと、 「そんな人はいないわ。きっと、悪い夢でも見ていたのね」 「え?」 「さっき、ひどくうなされて、大きな声を上げていたのよ。だから私が来たの。多分、とても怖い夢でも見てしまったのね」 「そんなはずは――」 「さあ。もう少しだけ、ゆっくりとしましょうね」 そう言って、看護師は眼鏡のノーズに指をやった。そういう仕草をすることで及野に魔法をかけているようだった――彼の世界を狂わす為のちょっとしたスペルを。 「待って。ここは……じゃあ、いったい、どこなんだ?」 「あまり難しいことは考えず、ゆっくりと休むといいわ。あなたには休養が必要なの。今は特にね」 「さくらを――」 探しに行く、と言うよりも早く―― 看護師はすでに注射器を打っていた。 すると、及野の体は弛緩するようにだらりと崩れ、意識はしだいに遠のいていった。 「う、あ……」 「おやすみなさい。及野貴士さん」 看護師はそれだけ告げて部屋を出ていった。 それからというもの、及野にとって時間は穏やかに流れていった。本当に魔法にかけられたようだった。 もっとも、一カ月ほどだろうか、入院している間に及野の家族が訪ねてきた。久しぶりに見る両親に対して、及野はやっと落ち着きを取り戻したが、彼らはどこか遠巻きに接することしかしなかった。 それに及野が両親に聞いても、あるいは後日また看護師や医師に尋ねても、そこかしこのどこの誰にどう質問してみても――緒川さくらの存在は否定された。そして、何の病気だったのか、一つの説明も受けることもなく、ひどく不自然な形でもって及野は退院させられ、いつものアパートに戻ってきた。 部屋はきれいさっぱりとリフォームでもしたかのように、白い壁紙で統一されていた。 彼女の残していたものは何一つとしてなかった。 いや、たった一つだけ、なぜか<たまごっち>が床に放置され、そこには知性を忘れてしまった黒いドロドロとしたモンスターがいた。彼女の痕跡はそれぐらいだった。 彼女の使っていた歯磨きも。 コップも。 下着も。ファッションも。 本の山も。雑誌も。あるいは、ネットでも。電話でも。連絡は一切取れず、何もかもが失われてしまっていた。まるでそんなもの最初からなかったかのように。 実際、大学の事務所に問い合わせてみても、個人情報だということで彼女については一切教えてくれなかった。学校で待っていても結局現れなかった。だから、及野は都内の公衆電話で電話帳を開いて、緒川と名の付く人にかたっぱしにかけてみた。 「さくらさんはいますか?」 そう聞いていき、七十七件目でやっと、 「おりますが何の御用でしょうか?」 と、問い返されたとき、及野はヒステリックにこう叫んだ。 「僕です。彼女を殺した及野貴士ですよ!」 当然、電話はすぐに切られた。 及野はその家の住所にわざわざ足を運んだ。もっとも、その家は年寄りの二人暮らしだったので落胆するしかなかった。無性に腹が立ってきて、さくらという名の老婆をいっそ殺してやろうかと思ったほどだ。 「殺す……?」 そして、そんな感情に懐かしさを覚えた。 そうだ。たしかにこの手で彼女を殺めたはずなのだ。 しかも、それを書きとめた。その証拠に小説があるじゃないか。彼女と一緒に過ごしたときに書き上げたオリジナルがあったじゃないか―― そのときだ。 ジャケットのポケットに入れて持ってきていた<たまごっち>が振動した。 同時に、なぜかまたスマートグラス上に襤褸々々のスライムが浮かび上がり、よろよろとメッセージを伝えてくる。さながら最期の断末魔のように。 キ、テ。 キ……テ。 コ、ッチ、ダ、ヨーー 微かな言葉に導かれるままに。 及野は気がつけば、大学のビルの屋上に出ていた。 だが、そこにもやはり彼女はいなかった。<たまごっち>はもう応答すらしない。 「さくら……」 どこへ? どこに行けば、君に会えるというんだ? 何より、君はどこにいったというんだ? 君はいったい誰なんだ? 緒川さくら――そんな人物はいない。看護師はそう言っていた。大学の事務も何も教えてくれなかった。電話帳にもろくに載っていなかった。ネットにも。どこをどう調べても。君という存在はいなかった。 でも。 忘れられないんだ…… 忘れてはいけないはずなんだ…… そもそも、君はすぐ近くにいるように思えてならないんだ…… だからこそ、いったいぜんたい君の手がかりは――もしくは、君のいる世界に触れる為の断片がどこかにあるような気がしてならないんだ…… その為に。 何をすればいい? リストカットでもしてみようか? それとも、腹をナイフで突き刺せばいいのか? そんなふうに、及野は頭を抱えつつも、屋上のフェンスにもたれかかった。 だが、<たまごっち>にいたモンスターは消えている。応えなど期待すべくもない。そのせいか、及野はつい笑ってしまった。口の端を歪めることでしか平静を保つことができなかった。 及野は<たまごっち>をぽいと地上に手放した。 おもちゃに未練などもうなかった。さくらとの繋がりはたしかにあるのだ。 今はそのオリジナルにすがるしかない。その世界の中に一縷の望みを見つけるしかないのだ。 が。 その瞬間だった。 宙に放った<たまごっち>が無数の紙切れに変じたのだ。 それは紛うことなく原稿だった――及野が書いたオリジナルの作品だ。 「ま、待て。待ってくれ!」 だから、及野はフェンスを乗り越え、屋上の淵に立ち上がった。 風が下から吹き上げてくる。鳥肌がぞっと立つ。足もすくんで、がくがくと震えてしまう。息まで詰りがちになる。しかし、原稿は無惨にも散りぢりになっていく。 同時に、スマートグラス上にメッセージが一つだけ届く―― 10 ――三月四日(火)夕方 《お待ちしていました》 「……どこにいるんだ?」 《すぐそばですよ。分かりませんか?》 「分からないよ。本当に、君はどこにいるっていうんだ……」 《振り向いてください》 「僕の影しか、見えないよ」 《そっと触れてみてください》 「ここは屋上の際だ。そんなことをしたら――」 《彼女にそうしたように。そっとやさしく、慈しむようにしてあげてください》 「だから! そんなことをしたら……」 《待っています》 「飛び降りろというのか?」 《ここはあなたの創った世界です。そして、私はあなたが生んだ子供なのです》 「意味が分からないよ」 《だから、あなたが願いさえすれば――別世界の人生がいつだって広がっていくはずなんです》 「僕は……いったい、どうすればいい?」 《創ればいいのです》 「そこに君は本当にいてくれるのか……?」 《もちろん。だって、この世界はあなたのように、いつも寂しくて、哀しくて、また切なくて、それでいてどこか温かく、やさしくて――そんなふうにして何もかもが生まれ、もしくは死んでいく場所なのですから》 11 こうして及野貴士は屋上から飛び降りた。 現場に落ちていたスマートグラス上には、継ぎはぎだらけの襤褸々々なモンスターが浮かんでいた。いつまでも、満足そうにゲップをしながら―― (了) |
一路マヤ XHGoM1WP2I 2017年04月29日 12時34分56秒 公開 ■この作品の著作権は 一路マヤ XHGoM1WP2I さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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