『Vergiss mein nicht……』 |
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『プロローグ』 「――――手を伸ばせ、ベルタ!」 けれど彼女は、その声に応えることが出来ない。激しい川の流れに翻弄され、ただ必死に水をかいていた。 「ごほっ…………ルドルフ!」 口中に水が容赦なく流れ込んでくる。それを飲み込みながら、彼の名を呼んだ。 ベルタは岸に近づこうともがくも、激しい水流に抗えない。それに加えて、春半ばの川の水はまだ冷たく、急速に体力を奪っていく。 「ベルタ! 今そっちに行く! だからそれまで頑張れ!」 直後、激しい水音が鳴り響いた。 飛び込んだのだと気づいたのは、川面に彼の顔が浮かびあがってから。 「止めてルドルフ! それじゃ、あなたまで!」 「……ぶはっ、僕のことはいい! ……くっ、それより自分のことを心配しろ!」 「でもっ!」 「でもじゃない! 僕が絶対に助ける! 助けるから、だから君も頑張れ!」 「……ルドルフ」 彼の言葉は力強く、そこには確かな情熱が込められていた。その言葉に、ベルタは自身の心が打ち震えるのを感じる。 しかしそれでも現実は、容赦なく牙をむく。 飛び込んだ直後はゆっくりでもベルタに近づいていたルドルフだったが、今は距離が開き始めている。非情な水の暴力は、彼すらも押し流そうとしていた。 「ルドル…………フ」 彼の名を呼ぼうとして、止めた。 きっと、これが最後の言葉になる、そんな予感がして。 だから――――。 ○ 「あー、向いてねぇ。絶対向いてねぇよ、くそっ……」 ぼやいてはみたものの、それで状況が変わるはずもなく。 薄暗い酒場の中、ザビーネは酒樽に腰掛けていた。 まだ昼を少し過ぎたばかりで、店の中に他の客はいない。ザビーネ以外には、店主である初老の男がいるだけだ。その店主は黙々と杯の手入れをしている。 酒蔵の一角に手を加えただけのひどく狭い店内には、真ん中に大き目の卓が置かれ、それを囲むように椅子代わりの樽が並んでいる。 場所が場所だけに、漂う空気にはかすかな酒の臭いが混じっていた。酒場というより酒のある物置小屋といった風情だが、そんな雰囲気がザビーネは妙に気に入っていた。というかそれは、単に彼女が酒好きだからなのかもしれないが。 かすかに泡立つ麦酒で満たされた木杯のふちを指でなぞりながら、ザビーネは初老の男に声をかけた。 「なぁ、ヨーゼフ。この仕事、あたしに向いてると思うか?」 ヨーゼフ、と呼ばれた男は棚に並べられた杯を磨きながら、白いものの混じる片眉を持ち上げてみせた。 「仕事に向き不向きなんてありゃせんよ。ワシらはただ、天から与えられた仕事をこなすのみ、そういうものだと思うがな。……ま、畑仕事を息子夫婦に任せて、こんな商売をしとるワシが言えた義理じゃないが」 「はっ、そいつは違ぇねぇ。……けどな、どうにもしっくりこないんだよ、この修道女(シュヴェスター)様ってのはよぉ」 ザビーネが杯を覗き込めば、そこには修道服をまとった女が映りこんでいた。 年のころは二十歳そこそこの、茶色い髪の女だ。つり上がった眉と鋭い目つきから、気の強い性格をうかがわせる。 一見すると、シュヴェスターというよりはそれに扮した女盗賊。そういった方が通りが良さそうな、そんな顔立ちだった。 「やっぱさ、こういう仕事ってのはもっとこう……おっとりした感じの女が向いてんじゃねぇの?」 「ふむ。まあ、確かにの……」 「おい待て待て待て、しかめっ面でしみじみ言うんじゃねぇよ」 「聞かれたから答えたんだがの」 「言い方に気をつけろって言いてーんだよ、あたしは」 苦々しい顔をしながら、ザビーネは杯をあおった。 喉をかすかに焼いて、麦酒が臓腑に流れ込む。あとを追って、こくのある苦味とほんのりとした甘味が口の中に広がった。ザビーネは満足気なため息をついて、口元の泡をぬぐう。 「のう、ザビーネ。シュヴェスターマルガレーテはどうしとる?」 「ん? 婆さんなら今時分は昼寝の最中さ。最近腰が痛むんで立ち仕事はきついんだと」 「ふむ、シュヴェスターも歳だからな……」 磨いた杯を棚に戻し、ヨーゼフは次を手に取る。 「あの修道院には今、シュヴェスターマルガレーテとお前さんだけだ。ザビーネ、お前さんはどうしても続ける気はないのか?」 「……婆さんには礼があるからな、しばらくは手伝うさ。けど、それが終わってからのことまではわかんねぇ」 「そうか。まあ、こればっかりは無理強いしても仕方のないことだの……」 どこか残念そうに言いながら、ヨーゼフは棚に杯を片付けた。 「ザビーネ、ワシはちょっと奥に行ってくる……勝手に飲まんでくれよ?」 「ん? ああ、努力はするよ、努力は」 手を振って言うと、ヨーゼフは一瞬顔をしかめたものの、そのまま奥へと消えた。 途端に、しんと店の中が静まりかえる。所在無く、ザビーネは杯を満たす液体を眺めた。 「天に与えられた仕事ね……」 何気なくつぶやいてみる。もっとも、それで何かが変わるわけでもなかったが。 その時、開け放たれた戸口に人影が見えた。 (珍しいな、こんな時分に客か?) そう思いつつザビーネが顔を向けると、そこに一人の女が立っていた。 このあたりでは見ない顔だった。 店に入るわけではないのか、彼女は不安げに中を覗き込もうとしている。 歳はおそらくザビーネと同程度。軽く波打つ金色の髪に、整った顔立ちをしていた。特に澄んだ青い瞳が印象的で、それがどこか清楚な雰囲気を漂わせている。着ているものはといえば飾り気のない布の服だが、それが一層彼女の慎ましさを引き立てているようだった。 (そう、あんな感じだ。あんな女こそシュヴェスターに向いてるよな) そんなことを考えていると、目があった。 どこか怯えたような青い瞳が、確かにこちらを見ている。 「なんかようか? 酒場なら夕暮れからだぞ」 そう声をかけると、一瞬女は驚いたような顔をみせた。 「あ……丁度良かった、シュベスター様! 私今、教会を探していたところで」 「ふん、そりゃ良かったな。教会なら、ここを出て右にまっすぐだ。道中気をつけな」 「いえ、シュヴェスター様。ちょっと私、あなたに相談したいことがあって……」 「待った。見てわかるだろ? 今休憩中なんだ。私がじゃないぞ、神がだ。だから告解ならあとにしてくれ」 「いえ、告解ではないんです。そうではなくて。なんと言いますか、その……」 彼女は胸元に手をやり、言いにくそうにして。 「私と付き合ってください」 「…………は?」 今度はザビーネが驚く番だった。 「――――あー、つまりこういうことか?」 一通り話を聞いてから、ザビーネは声をあげた。 「あんたは川で流されて、気がついたらこの近くの川辺に倒れていた。で、村に戻りたいから一緒についてきて欲しい、と」 そう問いかけると、ベルタというらしいその女は「はい。ええ、そういうことです」と笑みを浮かべた。 「あんたなぁ、最初からそう言えよ。いきなり付き合ってくれ、なんていうもんだからその手のやつかと思って一瞬、焦っちまったじゃねぇか」 ザビーネは苦笑気味に非難するも、ベルタは意味がわからなかったのかもしれない。はぁ、と気のない返事を一つしただけだった。 「しかし、川っつーとドナウか? 流されてよく生きてたな。男だって泳ぎきれずに溺死するような流れだってのに」 「ええ、これもきっと神の思し召しですね」 そう言って、ベルタは首からかけたロザリオを握り締めた。 その様はどこか神々しく、修道衣を着ていないのが不思議なくらいだ。その姿に少し気後れを感じつつ、ザビーネは棚から杯を一つ拝借する。それに酒を注いで彼女の前に。ただ、ベルタはそれを目で追ったものの、手を伸ばしはしなかった。 それを尻目に、ザビーネはぐびりと杯をあおる。 「で、村に戻りたいからあたしに付き合えって?」 訊くと、彼女は胸の前で手を組んでこくりと首肯した。 「いや、それは普通に帰れば良いじゃねぇのかよ。……道がわかんねーのか?」 「いえ、この村は以前にも何度か通ったことがありますからそれは大丈夫です」 「じゃあ、すごく遠いとか」 「そうでもありません。半日ほど歩く程度ですね」 にこやかに答えるベルタを横目に、ザビーネはこめかみに指をやった。 軽く頭痛を感じた、そんな気がして。 「わりぃ、ちょっといいか。それで、なんであたしがついて行く必要が?」 「あの、それが…………ちょっと複雑な事情がありまして」 苦笑いを浮かべながら、ベルタは頭に手をやる。 「その、ですね。ドナウ川で溺れた時、彼は必死になって私を助けようとしてくれました。ですけど、どうしても手が届かなくて……それで私、もう駄目だって思ったんですね。だから私、彼に言ったんです」 そこでベルタは少し迷ったようすで、髪をいじりながらささやいた。 「Vergiss mein nicht(私を、忘れないで)――――って」 小鳥が鳴いたような、そんな声で。 それが理由だ。とばかりにベルタはそこで言葉を切ったものの、ザビーネにはまだわからない。だからどうしたと言う代わり、ザビーネはベルタを睨みやったが。 「そ、その……恥ずかしくありませんか? てっきりこれで最後だと思ってたからそんなこと言ったのに、ひよっこり帰るとか」 肩の力が、抜けた。 ザビーネは頬に手をあてて、身悶えしている彼女に尋ねる。 「あー。つまり、恥ずかしくて一人では帰れない、と?」 「その、ええ、まあ……」 「はぁ。あのさ、別にそんなの気にする必要ないんじゃないかって、あたしは思うぞ。そのまま帰って、奇跡のご対面ってなもんで」 「……そう、ですね」 「まあな、一人で行くのがキツけりゃ、あたしが知り合いに連れて行ってくれるよう頼んでもいい。確か上の村と作物の交換をしてるやつがいてな……」 「あ、いえ! その方にご迷惑はかけられません。ありがとうございました、やっぱり私一人で行くことにします」 そう言って彼女は急に席を立つと、戸口に向かって歩き出した。 「は? おい、ちょっとあんた……」 その態度に、かすかに違和感を覚えたものの、どこか落ち込んだ彼女の背中を見ていると、ザビーネはなんとも言えない気持ちになる。 「はぁ…………ったく。おい、ちょっと待て」 呼び止めると、不思議そうな面持ちでベルタが振り返った。 「行くよ。ついて行ってやる」 「え。でも……」 「こういう時、素直に喜べって神も言ってるぞ」 どうせ気ままな居候だ。恩返し程度には働いているものの、仕事のほとんどは終わっている。そもそもが、困っている人を助けるのも修道者の役目だ。これも仕事と言っていいだろう、とザビーネは考える。 はっきり言って、気乗りはしない。 気乗りはしないが。 「神に祈りを捧げているよりか、あたし向きの仕事かもしれないからな」 そう言ってザビーネは酒を飲み干すと、革靴の紐を締め直した。 手でひさしを作って空を見上げる。 太陽は空の真ん中から少し傾いたところで輝いていた。 春の陽気はどこまでも穏やかで、吹き抜けていく風も心地良い。 「いい天気でなによりだ。雨が降る心配もなさそうだな。……なぁ、準備は良いか?」 「ええ、私はかまいませんが……」 ベルタは、少し言いにくそうに目を向けてきた。その先には、ザビーネが手にする鉈があった。さびの浮いた無骨な鉈だ。護身用にと考え、ヨーゼフのところから持ってきたものだった。 「女二人で行くんだからな。道中、何があるかわかんねぇし必要だろ?」 そう同意を求めたが、本来聖職者は刃物の類など持つことを許されてはいない。しかし、この鉈は刃が潰れているから大丈夫、とザビーネは勝手に解釈していた。 「あの……ザビーネさんって、本当にシュヴェスター様なんですか?」 「おお、奇遇だな、あたしもそれを疑ってるところだ」 そんな他愛のない会話しながら、ザビーネ達は歩き出した。 比較的平坦な土地ゆえに、見晴らしはいい。もっとも、見えるものといえば空と草原か畑、もしくは森ぐらいだったが。 それでも時折顔見知りの農夫にすれ違い、軽く手を振りつつ歩いていく。 「なぁ、一応訊くんだが、道、こっちであってるか?」 「ええ、この道をまっすぐです。……あ、もしかして、ザビーネさんって私の村に行くのは初めてなんですか?」 「ああ、あたしが今の村に来たのは最近のことだからな。この辺の地理はさっぱりだ」 「そうなんですか。では、以前は別の教会か修道院に?」 「ん、いや……」 ザビーネが言い淀むと、ベルタは気まずそうな顔をした。 「あ、すいません。言い難かったら別に……」 「いや、と言うかな。あたしがシュヴェスター始めたのはあの村に来てからだからな。だから、あたしはまだシュヴェスター見習い……いや、別にやりたくてやってるわけじゃないから見習いですらないんだろうな」 「はぁ、そう……ですか」 「ああ、まあ色々恩があってやってるだけで、ほとんど書を読むことも出来やしない出来損ないのシュヴェスターで、覚えた言葉は一個だけだ。……がっかりしたか?」 「まさか! その……ちょっと驚きましたが、私にはザビーネさんがシュヴェスター様であってもなくてもかまいません。ただ、一緒について来てもらえればそれで」 「へっ、あたしなんか何の役に立つんだか」 「…………いえ、ザビーネさんじゃないと駄目なんですよ、きっと」 それは意味がわからなかったが、とりあえずふぅん、と適当に相槌を打っておく。 「ところで、ルドルフってのはどんな男なんだ?」 「素敵な人です」 ベルタは夢見るように、空を見上げる。 「私の村で一番優しくて、強くて、澄んだ青い瞳が綺麗で。私にとって誰よりも、愛しい人です。きっと、ザビーネさんも会えばわかると思いますよ」 「へぇ、そりゃ楽しみだ」 半ば、社交辞令でそんなことを言ったが。 「あ、ザビーネさん。ルドは私の夫ですから、そこは忘れないようにお願いしますね」 人指し指を立てて、そんなことを言われた。それもやたらと迫力のある、真剣な表情で。 「へいへい、肝に銘じとくよ……」 苦笑いしつつそう答えておくと、ベルタはほっと安堵のため息をついていた。 何気なく、その様が少し大げさじゃないかと考えていると。 「あの、シュヴェスターザビーネ。一つ聞いていですか」 「ん? ああ、見習い以下で良かったらな」 ザビーネは頭の後ろで腕組みしつつ返答した。ベルタは「ありがとうございます」と小さく頭を下げ、歩きながら話を続ける。 「ルドはですね、素敵な人なんです……」 「さっき聞いたぞ、それ」 「私の村で一番優しくて、強くて、澄んだ青い瞳が綺麗で。私にとって誰よりも、愛しい人です」 「同じだな、一字一句」 いったい何が言いたいのか。そう思いつつ横目にベルタを見ると、彼女は伏し目がちになっていた。 「でも彼、誰にでも優しいんです。だから時々私、彼が他の女の人に優しくしているのを見ていると、不安になるんです。彼はいつも優しいけど、本当は他に好きな人がいるんじゃないかって……。本当に私のことが好きなのかな、って。シュヴェスター様、私は嫉妬深いんでしょうか? こんなにも嫉妬深い私は、やはり地獄に落ちるのでしょうか?」 真剣な面持ちで、彼女は意見を求めているようだった。 ザビーネは、しばし熟考してからその質問に答えた。 「んー、別にいいんじゃねぇの?」 「えっ……?」 「知ってるか? 神って、すげぇ嫉妬深いんだぜ? 他の神をあがめちゃいけないし、聖職者には結婚も許さない。戒律を破ったものには天罰が下る! ってな」 歩きながら、神がいるという空を見上げ、続ける。 「おまけにけちだ。身を粉にして信仰してもこれっぽっちも恩を返そうとしやがらねぇ。それどころか、もっと敬え、信仰しろの一点張りだ」 「けち、ですか?」 「ああ、ありゃけちだ。けちもけち、どけちだな」 「どけち…………」 どこか呆けた様子で繰り返したベルタに、「ああ」とうなずいてみせる。 「だからな。そんぐらいの嫉妬で地獄に落ちやしないって……シュヴェスター見習い以下のあたしは思うぞ」 そう告げると、ベルタはあきれたのか、意味がわからなかったのか、「はぁ」と気のない返事をひとつした。 そのまま、しばらく無言で歩き続けていたが。 唐突に、ベルタがしゃがみこんだ。しかも、腹を押さえてかすかに震えている。 「お、おい、どうした。気分でも悪くなったのか?」 「ふっ…………ふふっ、神様をけちって……どけちって…………」 どうやら、笑いをこらえているだけのようだった。 ややあってから、かすかに目じりに浮かんだ涙を拭い、ベルタが立ち上がった。お互いに特に何も言わずに、そのまま歩き出す。 大分たってから、ベルタがぽつりと言った。 「ザビーネさん。あなたは、やっぱりシュヴェスター様じゃありませんね」 同意見だった。 「ん? …………誰かいるな」 道も半ばまで来たころだった。 人が立っているのが見えた。 遠目ではっきりとはわからないが、背格好から察するに男だ。こちらには気づいていないようで、一人で川の方を向いて立ち尽くしていた。 用心のためザビーネは鉈に手をかけ、そのまま歩いていく。 「…………ルド?」 唐突に、ベルタが口を開いた。 「おい、ルドって……ルドルフのことか?」 ザビーネはそう尋ねたものの、ベルタは何も答えない。それどころか彼女は、慌てて手近な茂みに身を隠す。 「おいおいおい、なにやってんだよ? あんた会いに来たんだろ、あいつに!」 「す、すいません、ザビーネさん。いざ目の前にすると…………ちょっと気持ちの整理がついてなかったみたいで」 あはは、とベルタは引きつった笑みを浮かべる。しかもよく見れば、かすかに震えているようだった。 その様を一瞥して、ザビーネは頭に手をやる。ばさついた髪を、無造作に手で撫で付けて。 「どうもすっきりしねぇな…………。なぁ、あんたまだ、あたしに言ってないことがあるんじゃないか?」 そう尋ねると、彼女がはっと目を見開く。肯定、その仕草をそう受け取った。 「悪い、野暮なこと聞いちまったかもな」 「すいません…………」 うなだれて、消え入りそうな声で謝る彼女を見て、ザビーネは深々と嘆息する。 「で、どうする。このまま戻るか」 「いえ……ここまで来て戻るわけには……」 「じゃあ、行くんだな?」 問いかけたが、彼女はそれに応えない。 まるでいたずらが見つかった子供のように、何かに怯えていた。 「はぁ、わかった。じゃああたしが一人で行ってくる。あんたはそこにいろ。これでいいか?」 「ザビーネさん……」 「で。あたしはどうすればいい、お嬢さん」 「その…………彼の、様子を見てきてもらえたら、それで……」 「よし、わかった。……あんたのことはどう言えば?」 「わ、私のことは何もっ…………言わないで、ください」 「…………ああ、それじゃ行って来る」 立ち上がり、ザビーネは歩き出す。 (何も言うな、ね……) ザビーネは胸中でつぶやいた。 生き別れた夫の様子を伺う、ここまではいい。だが自分のことは何も言うなというのは、どう考えてもおかしい。ここは普通、駆け寄り滂沱と涙を流しての再会じゃないのか、とザビーネは疑念を抱く。 「まずいな……。もしかすっと、思った以上に面倒なことに巻き込まれたのかもな」 ため息まじりに独りごちて、ザビーネは歩みを進める。 ルドルフは物思いにふけっていたのか、こちらに気づいたのはかなり近づいてからだった。 「シュヴェスター…………様…………?」 地の底からうめくような声、だった。 ザビーネの背筋を、怖気が走る。いつかどこかで、似た声を聞いた。そんな気がして。 こちらを向いたルドルフの表情は、疲労困憊といった様子だった。頬は痩せ、かすかに髭が伸び、着ている服も薄汚れた、くたびれたようすだった。 その痛々しい容姿は、ベルタの話とは著しく違って見えた。 「シュヴェスター様! 妻を…………ベルタを見かけませんでしたか? 川に……川に流されて…………」 消え入りそうな語尾と共に、ルドルフがすがり付いてきた。 「あ、いや……あたしは……」 シュヴェスター見習いだ、と言いかけて。今それを言ってなんになるのかと思い直す。 「いや、悪い。それらしい女には会わなかった」 そう答えると、ルドルフは言葉なく地面に座り込んだ。そのままうなだれて、嗚咽をあげはじめる。ほとんど聞き取れない呻き声の下に、時折彼女の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。その様はまるで、世界の終わりを嘆いているかのようだった。 それを見ているとザビーネは思わず、口を滑らせそうになる。 ベルタはまだ、生きている、と。 けれど彼女との約束の手前、それを言い出すことも出来ず、ただ立ち尽くすしかない。どうしようもない罪悪感が胸に広がり、ザビーネは今すぐそのことを打ち明けたい衝動に駆られた。 (……ほんと、なんで隠しておく必要があるんだかな) ザビーネはしばし瞑目してから、ルドルフに声をかけた。 「あー、えっと……なぁ、あんた。そう気を落とすなって。きっと奥さんは無事だ。だからとりあえず、家に帰ってゆっくり休めよ。な?」 「そう、でしょうか……」 「ああそうさ。一晩ぐっすり休んで目を開けたら、今までのは全部悪い夢だった、ってことになってるさ。だから一旦家に戻れって。今のまんまじゃ、もし奥さんが無事でもあんたの方が天に召されちまう。そうなったら、意味がない。……そうだろ?」 そう諭すと、ルドルフは明らかに納得していないようすだったが、 「そう、ですね。そうかもしれません……」 しぶしぶといった体でうなずくと、緩慢な動作で立ち上がり村の方向へと歩き始めた。 と。 「あの、シュヴェスター……?」 ルドルフはまだ何歩も歩かないうちに振り返ると、空ろな表情で問いかけてきた。 「神は何故、こんな仕打ちをするのでしょうか。僕はなにか神の怒りに触れるようなことをしたのでしょうか」 「…………神が、怒り?」 その問いに、ザビーネが睨みつけるようにして問い返すと、ルドルフは正気を取り戻したのか気まずそうに顔を逸らした。 「……すいません、シュヴェスター。おかしなことを聞いてしまって」 「いや、かまわない……。けど、あんたの奥さん、見つけたら必ず連れて行くよ」 ザビーネがそう言うと、ルドルフは表情薄く、頭を下げた。それからゆっくりとした足取りで、去っていった。 寂寥感の漂う空気の中、ザビーネは空を見上げる。丁度、日がかすかに傾き始めたところだった。 空の上、雲の上、太陽の上を見るようにして。 「なぁ。お前ってさ…………怒ったり、泣いたりとかすんのか? 誰かのために。そんな感情とか、あるのか?」 その声は、空に溶け込んで消えた。 それに対する返答は、もちろん聞こえはしなかったが。 「彼のようす、どうでした?」 唐突に背後から声をかけられて、ザビーネは、はっと振り返る。するとそこに、いつの間にかベルタが立っていた。 「あ、すいません……。驚かせてしまったみたいで……」 「ははっ、いけねぇな。どうもあたしは、まだあいつに期待してたらしい」 頭に手をやりながら言うと、ベルタは意味がわからない、と言いたげに首をかしげていた。 「ああ、悪い。今の話は忘れてくれ。……それよりあいつ、あんたが見つからなくてすげぇ落ち込んでたぞ」 「そう…………なんですか?」 「ああ、そうだ。だから早く戻ってやれよ。あのままだとあいつ、今にも死にそうだったぞ」 「私がいなくて、死にそう……」 そうつぶやくベルタの表情はどこか、嬉しそうに見えた。そんな彼女を目の当たりにして、ザビーネは思わず苦笑してしまう。 「ああ、間違いないね。あいつはこのままあんたが見つからなかったら死ぬね。絶対に。神もそう言ってる。……だから、戻ってやれ。あいつのことが大切ならな」 「…………はい、そうですね」 「じゃあな、ベルタ。しっかりやれよ」 ザビーネはそう別れを告げて、そのまま自分の村へと歩き出す。 「ありがとうございました、ザビーネさん。あなたにも、神のご加護があらんことを」 そんな声が聞こえて、ザビーネは背中越しに手を振った。 (神のご加護……? そんなもん、あるのか。このあたしに。こんなあたしに?) 空に問いかけたものの、やはり答えはなかった。 ○ 朝、目が覚めた。 まず目に入ってきたのは、石造りの天井だった。当然といえば当然の、当たり前の一日の始まり。 縄でまとめた干草に、布切れをかけただけの簡素なベッドから体を起こして、ザビーネは独りごちた。 「ああ、やっぱそうだよな……あたしにゃ、やっぱさ……」 また訪れた朝を呪うように、気だるげにつぶやく。そうしてまた、どうしようもない一日が始まった。 川での水汲みと、畑仕事と朝食と掃除、それに洗濯。やりなれた仕事を早々に切り上げて、ザビーネが足を運んだのはヨーゼフの店だった。 入り口をくぐると、床掃除をしていたらしいヨーゼフがいた。 軽く手をあげ挨拶を済ませて、いつもの席に座る。ここに座るのは、これで何度目になるのか。そんなことを考えたものの、かぶりをふって打ち消した。 それよりも、と。 「ヨーゼフ、悪い。一杯頼むわ。代金は、ここにおいとくよ」 今朝とれた大根を持ち上げて見せ、卓上におく。 「おいおい、またかザビーネ。シュヴェスターが昼間っから……」 「良いんだ」 「……どうした、ザビーネ」 「もう良いんだよ、シュヴェスターをやめるから」 言い切ったところで、それまで胸の奥に蓋をしてきたものが、一気に噴出してきた。 (ああ、どうしようもないな、あたし……) 自身に対して毒づいていると、ヨーゼフは無言で杯を出してきた。 それを受け取ってから、ザビーネは話し始めた。 「なぁヨーゼフ。やっぱさ、あたしはシュヴェスター様なんかにゃ向いてないのさ。あたしは、神を信じちゃいない。信じられない。昨日それを痛感したっていうか……」 頬杖をつきながら、ザビーネは杯のふちを指で軽くなぞる。いつもなら間を空けずあおるところだが、今日はそんな気分にならない。 「マルガレーテのばあさんへの恩があるからよ。そのへん、割り切ってやってたけど…………ははっ、やっぱ無理だわ」 自嘲気味に笑い、杯を覗き込む。するとそこには、暗い表情をした女が映り込んでいた。 「だって駄目なんだ、どうしたってあたしは神なんて信じられない。そんなもんいやしない。いたとしても、クソ食らえ。そういう人間なんだよ。この世で一番、神から遠い人間なんだよ。だから……」 やめる、そう続けてからようやく杯に口をつけたものの、いつもなら爽快な一口目が、どうしようもなく不味い。それでも半ばまで一気に胃に流し込み、ザビーネは深々とため息をついた。 「……このあと、マルガレーテばあさんに挨拶に行ってくる。ヨーゼフ、あんたにも世話になったな」 「そうか、まあ人には向き不向きってもんがあるしの……」 「ああ、ばあさんには悪いけどな……」 かすかな罪悪感を抱きつつも、もう決めたことだ。そう考えて、ザビーネは自分を納得させようとする。 「ただなぁザビーネ、お前さんシュヴェスターをやめたら、この村を出ていこう、なんて考えとりゃせんか?」 「ん? まあ……」 言われて、ザビーネは小さくうなずいた。 するとヨーゼフは、これみよがしに鼻で笑った。 「……なにがおかしい?」 「お前さんにも意外に律儀なところがあるんだと思ってな」 「どういう意味だよ、そりゃ」 「シュヴェスターマルガレーテは心の広い人だ。お前さんがシュヴェスターをやめても、教会から出て行けなどと言わんだろう。それぐらいお前さんにもわかっとるはずだ。なのにお前さんは出て行こうとしとる。……シュヴェスターの恩か、期待を裏切ったとでも思っとるのか?」 「ちっ、これだからイヤなんだよな。説教くせぇジジイってのは」 「ほう? ワシは嫌いじゃないぞ。片意地張った若い女ってのは」 「っるせぇよ」 睨み付けてやったものの、ヨーゼフは片眉を持ち上げて肩をすくめだけだった。 「もし。……もし、だがな。シュヴェスターに遠慮してのことならウチの店で働かんか。どうにもこの店には、女っ気がなくての。それで、昼間はシュヴェスターのところで下働きでもすればいい。そういうのもありなんじゃないか」 「けどよ…………」 「他に行くあてはあるのか?」 その問いかけに、ザビーネは言葉を詰まらせた。 「この村の人間は、もうお前さんのことを家族だと思っとる。自分のことをまだよそ者だと思っとるのは、お前さんだけさ」 「はっ、おめでたいやつらなこって」 「……ま、すぐにとは言わんよ。ゆっくり考えればいいさ」 そう言ってヨーゼフは背中を向けると、再び床掃除をはじめた。 ザビーネは椅子の背もたれに体を預け、何気なく天井を見上げる。それで見えたものといえば、煤けた天板ぐらいだったが。 「…………悪ぃな、ヨーゼフ」 口から漏れた言葉で、ヨーゼフの手が一瞬だけ止まった。 (ま、そういうのも悪くないのかもな……) 杯の残りを飲み干して、ザビーネはテーブルに置く。空の器が立てる小気味のいい音が、店の中に響いた。 「……そういえばザビーネ、知っとるか?」 「なにがだよ」 「今朝、ドナウで死体が見つかったらしい。女の死体だったそうだ」 「ふぅん、そりゃまた大変だな」 ベルタといい春になって気持ちが緩んでいるやつが多いのか、とザビーネは考え適当に聞き流そうとしたが。 「多分、川で溺れたんだろうな。まだ歳若い、金髪の女だそうだ、可哀相にな」 それは聞き流せなかった。 何か、どうしようもなく嫌な予感がして。 「なあヨーゼフ、その死体……今どこにある?」 ザビーネは走っていた。 村の共同墓地を出て、ベルタの村へと続く道をひた走っていた。 「…………くそっ! くそっ! なんなんだよ! どういうことなんだよっ、これは!」 駆けながら毒づく。 呼吸が乱れた。靴が地面を打ち鳴らす音が、規則正しく響き渡る。墓地で見たもののことを思い出すと、何かが喉元にせり上がってきそうだった。しかしザビーネは、なんとかそれをこらえて走っていた。 が。 進行方向に人影を見つけて、ザビーネは立ち止まった。見覚えのある風体だった。ザビーネはゆっくりとした足取りで、その人影に近づいていく。 やがてザビーネの姿を見つけると、その人物の方から声をかけてきた。 「どうしたんですか? ザビーネさん。そんなに急いで」 「ベル、タ……」 「ああ、すいませんザビーネさん、驚かせてしまいましたか? 実は昨日、途中までルドルフを追いかけたんですが、どうしても決心がつかなくて……」 ベルタは自嘲気味に微笑んで、頬に手を当てた。 「あの、ザビーネさん。もし良かったらで良いんですけど。やっぱり、一緒に来てくれますか?」 「…………ああ」 首肯すると、彼女は「ありがとうございます」と、嬉しそうに微笑んだ。 歩き出したベルタに、ザビーネは無言でついて行く。 「それにしても助かりました。私一人だと、ルドにこれまでのことをうまく説明出来るかどうか心配でしたから」 「ああ……」 「彼、きっとびっくりするわ」 「そうだな……」 「心配かけたから私、家に帰ったら彼の好きな料理をたくさん作ってあげようって思ってるんですよ」 「……そうか」 適当な相槌を打ちながら、ザビーネはベルタについて行く。しかしその最中見ていたものは、すぐ脇を流れる、激しいドナウの流れだった。 「なぁ、ベルタ……」 ザビーネが呼びかけるも、ベルタは返事をしない。背中を向けたまま、先へ先へと進んでいく。 ザビーネはかまわず話を続けた。 「……あんたさっき聞いたよな。なんであたしがここにいるのかって。ならあたしからも質問だ。あんたは、どうしてこんなところにいたんだ。こんな何もないところで、どうやって一人で夜をすごしたんだ?」 あたりには、ひと気は全くない。あるものと言えば、ドナウの流れと、見通しの悪い森が広がるばかりだ。女一人で野宿するには、あまりに危険が多すぎる。 問いかけに、ベルタは答えなかった。 やはり彼女は振り返ることなく、まっすぐに歩いていく。 「なぁ、ベルタ……」 沈黙に耐えかねて、声を荒らげようとしたザビーネだったが。 「あ、ちょっとすいません」 ベルタは急に駆け出すと、道の脇にしゃがみ込んだ。 歩み寄り、彼女の背中越しに覗き込んでみると、そこに一輪の花が咲いていた。 「……この花なんです。私、この花をとろうとしてドナウに落ちたんですよ」 花を見つめたまま、ぽつりとベルタは語りだした。 その花の色は、空のように青く。それでいて、優しい色をしていた。このあたりでは時折見かける花だ。かと言って特に名前も無く、単に青い花とか呼ばれている。 「馬鹿ですよね、私。でも、この花が彼の瞳の色とあんまりそっくりだったから……」 ベルタが、低く呻く。 うつむいているために、表情は見えない。 しばらくそのまま、お互いに沈黙を続ける。 激しい雨のような、ドナウの音だけが聞こえていた。 やがて痺れを切らし、最初に口を開いたのはザビーネだった。 「さっき、川岸に打ち上げられた死体を見てきたよ」 その言葉にベルタの背中がびくりと跳ねるのが見えた。 かまわず、ザビーネは続ける。 「あんただった。その死体は、あんただったんだよ、ベルタ」 不意に、ざあっと風が吹き抜けていった。 風で修道衣のフードが揺れ、ザビーネはそれを手で押さえた。 その最中、ザビーネは見た。 ベルタの着ている服も、髪も、まるで風に揺らされていない。それを目にした瞬間、ザビーネは歯噛みした。 「なにをおっしゃるんですザビーネさん? 私は死んでいませんよ。だったら、ここにいる私は誰なんですか?」 ベルタが立ち上がり、かすかに引きつった笑みで振り返った。 「死体を見たあと、村のやつらに話したんだ。あんたのことをな。……ところがな、誰もあんたのことを見たやつはいなかった。おかしな話だよな? 小さな村で、よそ者が来ればすぐにわかるはずなのに! まして、あんたほどの器量だ。目立たないはずがない。けどな、村の中を歩いているところも、あたしと一緒にいるところも見たやつはいない! 途中で挨拶をしたやつすら知らないって言ってたんだ! つまりあんたは、あたし以外に見えちゃいなかった! 誰にも見えてなかったんだよ!」 ザビーネはそこまで一気にまくし立てたが、ベルタは何も言わない。 「なぁ…………あんたあたしのところに来たとき、とっくに気づいてたんだろ? だから、すぐに戻らなかった。いや、戻れなかったんだ。あんたは、ルドルフが自分に気づかないことを恐れたんだ。だから……だからあんたは、あたしと一緒に会いに行こうとしていた。…………そうじゃないのか?」 そう尋ねると、ベルタは小さくため息をついてから、どこか悲しそうに、微笑んだ。 「……馬鹿ですよね、私。花なんて、とろうとしなければこんなことにならなかったのに」 「ああ、馬鹿だ。あんたは大馬鹿だ」 「…………ザビーネさん。私もう行きます。ルドが待ってますから……」 「待て、ベルタ」 「ルドが待ってるんです」 背を向け、ベルタは歩き出した。 「待てよっ!」 手を伸ばし、彼女の肩に手をかけようとした。だが指先は朝もやをつかんだかのように、手ごたえ無く通り抜けた。 「……っ」 「…………シュヴェスターザビーネ。あなたに出会えたことを、神に感謝します」 背を向けたまま、ベルタがそう言った。 まるで、これが最後の別れとでもいうように。 しかしその言葉が、ザビーネの心を激しく打ち鳴らした。 「…………神? 神だと? ふっっっっざけんなっ!」 突然の叫びに、ベルタはびくりと体を震わせ、立ち止まった。 「いねぇよ! ……いねぇ、そんなもんいねぇんだよ、神なんて! どこにも!」 その言葉に、ベルタは何も答えない。それでもザビーネはかまわず続ける。 「ははっ、あたしがシュヴェスターだ? 悪い冗談だ! あたしはな、今まで生きるために盗みもやった! 体も売った! ははっ……あたしがシュヴェスターやる前になにやってたか、知りたがってたよな? …………教えてやる、娼館で働いてたんだよ! 夜盗に親を殺されて、さらわれて売り飛ばされてな! けど、それに耐えられなくなって逃げ出して、あの村の前で行き倒れたんだ!」 「ザビーネさん……」 「……親が殺されてから、あたしはずっと祈ってたよ。神ってやつに。けどよ、結果はなにも変わりゃしなかった。なんにもだ! あんただって、死んじまったんだろ!」 「やめて……」 「見ろよ! どこにいるんだ神は! Ubi est Deus(神は今どこにいる)! Ubi est Deusだ!」 「もうやめて!」 「見せてみろよベルタ、神を! お前が信じる神を! お前が感謝する神を!」 「……………………ベルタ?」 唐突に、声がした。 見れば、そこにルドルフが立っていた。 またベルタを探していたのか。昨日よりは幾分ましなものの、覇気のない声だった。 「……ルド!」 すぐさまベルタが、ルドルフの名を呼ぶが。 「シュヴェスター! ベルタが、いるんですか!? どこにいるんですか? 教えてください、シュヴェスター!」 ルドルフは彼女に気づくことなく、ザビーネに詰め寄ってきた。 「ルドルフ! 私はここよ! ここにいるの!」 「ベルタは……僕のベルタはどこに!」 「ここよ! ルド! お願い…………私に気づいて!」 ベルタは声をあげながらルドルフに触れようとするが、その手は無情に突き抜けてしまう。 「お願いします! シュヴェスター!」 「お願いよ、ルド! 私は…………ここよ…………ここにいるの…………」 ベルタは、泣いていた。 涙こそこぼれないものの、泣いていた。 目の前の光景に堪えきれず、ザビーネは思わず顔を逸らす。もし目を合わせてしまったら、決心が鈍るかもしれない、そう考えて。 ザビーネは、ゆっくりとルドルフに告げる。 「なぁ、ルドルフ。あんたには見えないし、聞こえないかもしれない。けどな、ベルタは今あんたの横にいる」 「…………は? すいません、シュヴェスター…………おっしゃる意味がよく……」 「あんたの横にいるんだよ!」 「はは……シュヴェスター…………いったい、何を…………」 そこで言葉をつまらせ、ルドルフはゆっくりと両目を見開いた。その顔からは次第に血の気が失せ、表情も失われていく。 「そんな…………まさか…………」 呻くように言い、ルドルフは地面に膝をつく。そのままうなだれて、両手すら地面についた。まるでその背にのしかかってきた絶望の重みに、耐え切れなくなったかのように。 そんな彼に、ザビーネはかける言葉が見つからない。ベルタがそのすぐそばに寄り添っていると言うのに、おそらくルドルフはそのぬくもりを感じることさえ出来ない。 ただ呆然とその光景を目にして、ザビーネは唇を噛んだ。 「…………シュヴェスターザビーネ。お願いします、私の言葉をどうか彼に」 ルドルフに寄り添ったまま、ベルタが顔もあげずにそう言った。 「けど、あたしには……」 「お願いです、ザビーネさん。これは……あなたにしか頼めないんです」 しばし逡巡するも、とても断り切れそうになかった。 「わかったよ」 小さく返事をして、ザビーネは名もなき青い花を道端から摘み取った。 なんとなくそうしたほうがいい、そんな気がして、それをルドルフに差し出す。 「ルドルフ、ベルタからの伝言だ」 ザビーネの声にゆっくりと顔をあげたルドルフは、最初不思議そうにその花を見つめていた。しかしすぐさまはっとした表情で、震える手でその花を受け取った。 それを見届けてから、ザビーネはベルタの言葉を伝える。 「ごめんなさい」 ベルタが囁くまま、ザビーネは続ける。 どんなに口にするのが辛くとも。 「あなたのそばに、いてあげられない」 たとえ、胸が痛みを訴えても。 「あなたと一緒に、笑うことが出来ない」 彼女に代わって、ザビーネは伝えた。 「手をつなげない。抱きしめることも、キスすることだって出来ない。だから、ごめんなさい。でも、今もまだあなたのことを愛してます」 伝えきれないぐらい、想いのこもった言葉を。出来る限りの気持ちを込めて、どうか伝われと、ザビーネはベルタの言葉を繰り返した。 いつしか、ルドルフが嗚咽をあげていた。 「ごめ、ん……ベルタ…………くっ、僕は…………絶対助け……そう言っ……なのに、僕は何も…………出来なくて…………ごめん……ベルタ……」 ザビーネもルドルフの悲痛な声につられ、泣きそうになる。歯噛みしてなんとかそれを堪えているが、もうどれほど耐えられるかわからない。 歪む視界に翻弄されながら、ザビーネは次に伝える言葉を求めてベルタに視線を送る。 が。 「ザビーネさん。次は……ルドルフに私のことを忘れて、誰か他の人と幸せになるようにと……。そう、伝えてください」 「…………お前、それでいいのか?」 問いかけると、彼女はしばし逡巡する。ややあってから、彼女は首肯した。その返答にザビーネは、何も言うことが出来なかった。 やむを得ず、ザビーネは彼女の言葉を伝えるべく口を開く。 「……ベルタが言ってる。自分のことは忘れ」 「いや! やっぱり忘れて欲しくないっ!」 言いかけたところで、ベルタの声が耳朶を打った。 「まだ、一緒にいたい! 離れたくない! 彼のそばにいたい! ずっと! ずっといたい! 教会で、永遠の愛を誓ったのに! 彼と、幸せな家庭を作ろうって約束したのに!」 肩を震わせて、ベルタは叫ぶ。 「まだ、何も…………何も! なのにどうして…………どうして、ですか? 神様……」 自らの顔を覆うベルタを目の当たりにして、ザビーネの胸の中の何かがはじけた。 「…………くそっ。くそっ! くそっ! ふざけんなよ! なんで見えるのがあたしだけなんだよ! なんで、ルドルフじゃないんだよ!」 気づけば、涙があふれ出てきていた。 拭っても拭っても、それはとまらない。 天を指差して、ザビーネは叫んだ。 「おい! そこにいるんじゃねぇのかよ! それとも、やっぱりいないのかよ! こんだけこいつらが苦しんでるんだぞ! 生き返らせろとまではいわねぇよ。けどな…………せめて、悔いが残らない別れにしてやれよ! 奇跡のひとつも起こして見せろよ! じゃなきゃ、こんなの…………あんまりだ……。あまりにも救いがないだろ……」 一陣の、寂寞とした風が吹き抜けていった。 けれど、どれほど待っても奇跡が起きる気配はない。何一つとして、欠片ほども。 (くそっ! くそっ! くそっ! 何が神だ! 何がシュヴェスターだ! 結局何も救えやしないじゃないか!) ザビーネは服の袖で涙を拭い、地面を睨みつける。顔をあげたらベルタにつられ、また泣いてしまいそうで。 「……シュヴェスター」 ルドルフの声がした。 顔を上げると、ルドルフがこちらを見ていた。その表情は、なぜか少し落ち着いたように見えた。 「彼女は、今どこに?」 「…………いるよ。今も、あんたの隣に」 そう告げると、ルドルフはためらいなくベルタの方を向いた。 それからまるで、彼女のことが見えているかのようにその視線をかすかに下げる。 「……ごめん、ベルタ。僕の妻は、生涯君だけだ。永遠に、君を忘れない。死が僕らを分かつとも、死が、僕らを再び引き合わせるその日まで。僕は君を絶対に忘れない。……そのことを、この花に誓う」 青い花を手に、ルドルフが宣誓した。 その言葉を聞いて、ベルタが微笑む、 姿は見えないはずなのに、ルドルフもその瞬間笑った。彼が両手を広げ、ベルタがその胸に飛び込んでいくのが見えた。 それを見ているとまた泣いてしまいそうで、ザビーネは背を向けた。 目を細めて、空を見やる。雲の先、空の上の上を見上げて。 「ちっ、結局高みの見物かよ……」 毒づいてみたものの、それに答える声はない。そう、思ったが。 「いいえ、やっぱり神はいましたよ」 そんな声が背後から聞こえてきた。ベルタの声だった。 「は? んなもん、どこにいたんだよ」 振り向かずに反論すると、ベルタは続けた。 「あなたが、いました」 「あたしが?」 「神があなたと出会わせてくれました。それが、私にとっての奇跡です」 「…………馬鹿言え。んなしけた奇跡があるかってんだ」 「かも、しれませんね」 ふふっ、とベルタの笑い声が聞こえてきた。 「けどザビーネさん、ご存知ですか。神様って、とってもけちなんだそうですよ?」 「………………あ?」 言われた瞬間、肩から力が抜けた。 それどころか、体中から力が抜けていくのを感じる。 その次に湧き上がってきたのは、胸の奥からの笑いだった。 「くくくっ…………はははっ! ああー、そうだった。そうだったな。悪い、あたしとしたことが、すっかり忘れちまってたみたいだ」 「ええ。だからきっと、神様は見ていますよ。ザビーネさん、あなたのことも」 「……へっ、そりゃぞっとしねぇな」 肩をすくめると、いつの間にかベルタが正面に立っていた。その姿は薄く、向こう側の景色が透けて見えていた。 「……もう、お別れか?」 「ええ、そうみたいですね。……それじゃあさようなら、ザビーネさん。色々とお世話になりました」 「さよなら? いや、そりゃ違うだろ」 ザビーネはかぶりをふり、それを否定した。 「…………またな、ベルタ」 「はい、それじゃあまた」 かすかに頭を下げ、ベルタが笑う。 ザビーネもそれに笑顔で答えた。 彼女の姿は徐々に薄くなり、やがて夕焼けの下、まるで雪が溶けるように消えていった。 それが彼女の姿を見た、最後だった。 『エピローグ』 「…………あっちぃ」 ぼやきながら、農具を片手に額の汗を拭う。 頭上では太陽が輝いていた。 日差しは強く、じりじりと照り付けてくる。夏が近いせいか、日増しに暑くなっている気がした。 ザビーネは頭衣を脱ぎ、そでを捲り上げた。それで多少はましになった気がする。 「あーくそっ! だいたいなんで修道服ってのはこう黒い上に暑苦しく出来てんだよ! 別にちょっと白くったってかまわねぇだろったく」 ぼやきつつ、修道院の片隅にある花壇を見やる。ザビーネが作った花壇だ。その花壇に、小さな青い花が一杯に咲いていた。 彼女が言うには、ルドルフの目の色にそっくりな。しかしそれと同時に、彼女の瞳とも同じ色をしたその花が、咲いていた。 ――――私を忘れないで。 どこか悲しそうな笑顔で彼女がそう言っている、そんな風に見えた。 「誰が忘れるかよ、あんたみたいなうっかり屋。誰も忘れないように、言い伝えてやるさ。あたしの一生をかけて、神を利用してでもな…………って、おいコラガキども! そこでなにやってる! 花壇荒らすんじゃねぇよ!」 花壇の隅、そこに入り込んでいる子供らを見つけてザビーネは怒鳴りつけた。 「わー! ざびーねだ! みつかった!」 「ご、ごめんなさい! とかげがいたから……しっぽあげるからゆるして!」 「いるかそんなもん! なんでもいいからとっとと花壇から出ろ!」 三人組の子供達を花壇から引き摺り下ろし、整列させる。どれも見知った顔だった。 逃げ出すかと思ったが、気弱な一人が逃げなかったせいで他二人も逃げられなかったらしい。 「ったく、とんでもねぇガキどもだな……今度やったら神に言いつけて天罰下すぞ?」 「うう、ごめんなさい……」 「ふんっ、かみさまなんているもんか!」 「そーだそーだ! そんなのいちどもみたことないぞー!」 気弱な一人は素直に頭を下げたものの、小生意気な二人は反論してきた。 (……かみさまなんているもんか、か) その言葉に思わず苦笑して、ザビーネは花壇の縁石に腰掛けた。口を押さえて笑いを堪えていると、子供らが心配そうに集まってきた。 「どうしたのーざびーね? きもちわるいのー?」 「おなかいたいの? おいしゃさま、よぶ?」 「いや、大丈夫さ。それより聞きな、ガキども。神は――――いる」 そう言ってザビーネがにぃっと笑うと、子供達は互いに顔を見合わせた。 「まあな、引っ込み思案な上に、けちくせぇ野郎さ」 「…………ほんとに?」 「信じる信じないは勝手だ。なんせあいつときたらすんげぇ人見知りだからな。そこのクヌートみてぇにびくびくして、いっつも十字架の影にこそこそ隠れてんのさ」 「うっそだぁ! おれいつもかくれんぼしてるけど、そこにかみさまなんてかくれてなかった!」 「おっ、まだ信じねーか。……よし、それじゃとっておきの話をしてやろう」 「おはなし? どんなおはなし?」 興味深げな目をしている子供達に囲まれて、ザビーネは思わずふっと笑った。 軽く目を閉じてから、空を見上げる。はるか彼方、太陽の果てまで。 「……そう、あれはある日のことだった。ベルタっつー女がやって来て――――」 |
ハイ 2016年12月31日 23時38分06秒 公開 ■この作品の著作権は ハイ さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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