こよりちゃんのリコーダーが盗まれて |
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0 「このクラスの誰かが、こよりちゃんのリコーダーを盗んで隠し持っている」 クラス委員長、山崎吉雄(やまざきよしお)の一言に、葉名高(はなたか)小学校四年一組のクラスメイトの誰もが動揺し、困惑した。そして、次の言葉でさらに驚愕することになる。 「そして、僕はその『犯人』が誰かを知っている」 普段、先生が僕達に勉強を教えるために使われる教壇の前に吉雄が立ち、オールバックの黒髪を右手でかき上げながら、僕に対して切れ長の目を向けた。その瞬間、僕の背中に悪寒が走る。 「鉢風真(はちかぜまこと)、お前だ!」 こよりちゃんのリコーダーを盗んで隠し持っている『犯人』、その名は僕が良く知る人物の名前だった。それもそうだ。その名前は紛れもなく、誰と間違えようもない僕の名前だったからだ。 どよめきが木霊するクラスの中で、唯一冷静だったのは教壇の前に立ったままの吉雄。そしてその隣には、葉名高小学校四年生の中でトップクラスの可愛さを誇る、一組のマドンナこと、この事件の被害者。花崎こよりちゃんが立っていた。こよりちゃんはすすり泣きながらうつむき、その表情をうかがい知ることは出来ないが、クラスの誰もが彼女の身に起きた悲劇に心を痛めている。涙に濡れているだろうその雪のように美しい白い頬と、ダークブラウンの瞳は、漆の様に艶やかな黒髪ロングヘアーに隠れて今は見えない。 反面僕はと言うと、突如身に覚えのない事件の矢面に立たされることになり、どうしていいか分からず自分の席に座ったまま固まることしかできなかった。 クラスメイトのひそひそ声と、疑いのまなざしが僕の心に突き刺さる。しかし、僕は犯人じゃない。それは間違いない。何故なら僕はこよりちゃんのリコーダーを盗んでいないからだ。でも、この場で僕が犯人じゃないとみんなの前で証明してくれる人物は自分以外に、誰もいない。 僕にかけられた疑いを晴らすには、第三者からの弁護が必要だ。しかし、周りを見渡しても、クラスメイトなのに名前すら分からない奴が山ほどいるのが現状だ。というか、クラスで名前が分かるやつは、片手で数えられるくらいしかいない。 その内の一人は今まさに教壇の前に立ち、僕を糾弾しようとしているクラス委員長の、山崎吉雄。彼についてはクラスの委員長だから名前を知っているというだけで、しかも彼は僕を非難する側の人間だ。助けを求めることは出来ない。もう一人は吉雄の隣にいる一組のマドンナこと、リコーダーを盗まれてしまった花崎こよりちゃんだ。こよりちゃんは一組のみならず、葉名高小学校四年生の中では超有名人なので、その名を知らない人はいないと言えるだろう。でも、僕がこよりちゃんの名前を知っている理由はそれだけじゃない。彼女は、僕の初恋の女の子で、現在進行形で片思い中の相手だ。 しかし、内気で人見知りの僕は、彼女に一声かけることも出来ず、片思いは小学校三年生時に傘を忘れた時に傘を貸してくれたあの日からずっと続いたまま、進展は一切なし。このままでは、告白するどころか僕はこよりちゃんにとって、自分のリコーダーを盗んだ変態野郎になってしまう。 だからこそ、この状況を何とか切り抜けたい。好きな女の子に、こよりちゃんに嫌われたくない。だから、僕は四年一組のみんなに、僕が犯人じゃないと証明しなくちゃならないんだ。 「僕は……犯人じゃない」 静まり返る教室で、擦り切れそうなほどか細い僕の声が響く。硬直した体を、唇を深くかんで奮い立たせ、気合を入れながら意を決して何とか僕は自分の席から立ち上がった。 しかし、勢い余って膝が机の裏側の金属部分に当たってしまい、鈍い痛みと突然の衝撃に僕はびっくりして思わず声を上げてしまった。僕のその行動が、余計にクラスメイト達をざわつかせてしまっている。 なんとか体勢を持ち直そうと慌てて立ち上がった時、僕の机から中から勢い良く何かが転がり落ちた。 「ん……?」 机の中から僕の目の前に落ちてきた『それ』は、白くて硬い、手のひらくらいの大きさの固まりだったが、僕にはそれが何か一瞬で分かってしまった。なぜなら『それ』は僕がよく知っている物の一部だったからだ。正確には、取り外された一部分。僕の頭の中に、ふつふつと嫌な予感が湧いてきた。 右手で取り敢えず『それ』を持ってみる。そして、間近で観察してはっきりと認識した。『それ』は真っ白なリコーダーの先端だった。とっさに僕は自分の机の中を確認するために、しゃがみこんだ。そこには、無理やり机の中に入れるためだろうか、綺麗にバラされ、小分けになったリコーダーと、それを入れるケースが無造作に押し込められている。 額から大粒の汗が流れるのを感じた。無理やり、僕の机の中に押し込められたリコーダーのケースは、窮屈そうにグニャグニャと折り曲げられているのだけれど、辛うじてネームプレートが見えるような形になっている。そこには、『花崎こより』と可愛らしい字で書かれており、その瞬間、僕の頭の中はまるで爆弾か何かで吹き飛ばされるかの如く、真っ白になってしまった。 何故かは知らないけれど、僕の机の中に盗まれたはずのこよりちゃんのリコーダーが押し込められている。 僕は盗んでいない。でも、確実に目の前にある証拠が、間近にある物的証拠が犯人だと裏付けてしまっている。このままじゃ、本当に僕が犯人に仕立て上げられてしまう。こよりちゃんに嫌われたくない、絶対になんとかしなくちゃ、僕が……一人でもなんとかしなくちゃいけない。そして、こよりちゃんのリコーダーを盗んで、僕の机の中に入れた真犯人を突き止める。 十二月もついに中旬に差し掛かり、冬休みを目前に起きたこよりちゃんリコーダー窃盗事件。給食時間が終わり、四五分の昼休み時間にクラス委員長により集められ、突如始まった犯人探し。この昼休みの内に僕が犯人じゃないということを証明できなければ、クラスメイトたちの疑いを晴らすのは困難だ。こよりちゃんに嫌われないためにも、クラスメイト達の誤解を解く為にも、この昼休みの四五分に僕は絶対に疑いを晴らさなくちゃいけない。 僕には人と違う、少し変わった特徴……能力がある。 例えば僕が質問して、それを誰かが答えたとする。僕にはそれが嘘か本当か分かるんだ。僕は子供の頃から本能的に、相手が嘘をついているのか本当のことを言っているのか、分かってしまうということに気が付いていた。 だから僕は人見知りがちで、中々初対面の人とは仲良くなれず、形だけの友達は何人かいたけれど、心から信頼できる親友のような存在はいなかった。 小学校に入学してからは、父さんと母さんにはあれこれ理由をつけて家に引きこもり、父さんの書斎にある本を読んでずっと家に引きこもっていた。小学生の僕には難しい読み方や、読めない漢字がいっぱいあって、本を読むことにはとても苦労したけれど、信用出来ない人たちと遊ぶよりずっと心が落ち着く。それに、父さんの書斎には大きな国語辞典もあった。大抵の漢字や読みは、これで探せば分かるし、辞典を引くのは宝探しをしているような気分で楽しかった。 そう言えば、僕の母方のおばあさんが家に遊びに来た時、一緒に大きな人懐っこいゴールデンレトリバーも連れてきていて、僕が一緒に散歩させたこともあった。その時、道端で僕が連れている犬にびっくりして泣き叫んで、僕に向かって抱きつきながら顔を引っ掻いてきた女の子もいたっけ。あんまりいい思い出じゃないけど。あと、たまにイタズラなのか何なのか分からないけれど、僕の家の郵便ポストに差出人不明の僕宛ラブレターが入っていたこともあった。 そんな僕も、人生で初めて恋と言うものを経験することになる。たかが十歳の戯言と思うかもしれないが、僕が生まれて初めて家族以外を好きになったのは今からちょうど一年ほど前、小学三年生の時だ。 僕の通う葉名高小学校は、家から徒歩で十分ほどの距離にある。両親は二人とも共働きだから、家から学校も近いし、普段は一人で僕は登校していた。その日は四月の初旬で、天気予報では降水確率二十パーセントだったのに、季節外れの夕立で放課後は大雨が降っていて、傘を持っていない僕は小学校の玄関前で立ち尽くしていることしかできなかった。その時だ、初めて彼女に出会ったのは。 1 可愛らしい声で僕に向かって『どうしたの?』と声をかけてきたのは、花崎こよりちゃんだった。透き通った白い肌、ダークブラウンのクリクリとした大きな目、うっすらと赤い唇、そして艶々とした肩まで伸びている黒い髪。僕は彼女を知っている。何故なら、こよりちゃんは美人で有名だったから。噂では、雑誌のモデルかなんかもやっているという話だ。確かに、彼女は一般人とは違うオーラというか、まるでテレビや映画のスクリーンの中から飛び出してきたような、特別な存在に見えた。 そんな彼女に初めて声をかけてもらえて、僕は動揺した。顔が熱くなってきて、みるみる内に頬が赤くなっていくのが自分で分かる。声も出せないまま固まっていると、突然こよりちゃんは僕に向かって右手を突き出した。 「もしかして、傘もってないの? もう一本あるから貸してあげる」 こよりちゃんの言葉を頭の中で整理して、やっと彼女が僕に向かって自分のピンク色のフリルのついた可愛らしい傘を差し出している事に気がついた。 「あっ……ありがと……う」 僕がたどたどしい返事でありがとうと言うと、こよりちゃんは満面の笑みで『うん!』と言って、左手に持ったもう一本のピンクの傘を広げてそのまま、雨が降りしきる校庭を走って行ってしまった。 僕は右手にこよりちゃんの傘を持ち、左手で胸を押さえながらこよりちゃんの後姿を見送る。生まれて初めて、僕が恋をした瞬間だった。 いつか、こよりちゃんにちゃんとお礼が言いたい。ちゃんと話ができるようになりたい。あわよくば告白したい。そう思い続けて気が付くと、もうすでに一年以上の月日が流れていた。幸運なことに、四年生に学年が上がっても、こよりちゃんとは同じクラスのままだったのだけれど人見知りや、他人に対する不信感も、この嘘が分かる能力のせいでなかなか克服できない。いつの間にか、僕はモテるためにクラスメイトと仲良くすることも、こよりちゃんと仲良くなることも、こよりちゃんに告白することも諦めかけていた。 そんな時だ。よりにもよって思い通りにいかないこんな時に……最悪の修羅場は訪れた。 静まり返る四年一組の教室。僕は手の震えを必死に抑えながら、持ったままのリコーダーの先端部分を慌てて自分の机に入れると、勢いよく立ちあがった。 クラスメイト全員の視線が、僕の方一点に向いている。今まで、こんなに人から注目を集めたことがあっただろうか? そもそも、僕の存在さえ気付いていない奴だっていっぱいいた筈だ。 額から止め処なく汗が流れる。気がつけば、背中は汗でべっちょり濡れていて、湿った服が肌に張り付く度に、その冷たさと気持ち悪さで叫び声をあげたくなった。 「今、何か手に持って無かったか?」 誰かがそう言った。池に投げ入れられた小石が、波紋となって池全体に広がっていくように、教室全体にざわざわと、ささやき声が広がっていく。 「あいつ今何か、自分の机の中に入れたぞ」 そう言ったのは、クラスのお調子者で、人気者で、僕が苦手なタイプで丸刈り頭がトレードマークの川崎森尾(かわさきもりお)だ。僕が咄嗟に机の中に入れた、こよりちゃんのリコーダーを見られてしまっていたみたいだ。よりにもよって、一番絡まれたくない相手に見つかってしまった。思わず拳を握りしめると、すっかり手のひらが汗でべちょべちょになっていることに気がついた。 誤魔化さなくちゃ。今、僕の机の中にあるこよりちゃんのリコーダーが見つかったら何もかもお終いだ! 「な、なに言ってるんだよ! 僕は何も持っていないよ」 「嘘つくな! 俺、今見たぞ! お前、こよりちゃんのリコーダーを机の中に隠したんだろ!」 「そ、そんなこと……!」 「持ってないんだったら、お前の机の中見せてみろよ!」 森尾の言葉にクラスのみんなが賛同する。『そうだ!』『机の中見せろ!』と、クラスのみんなが僕に言ってくる。絶体絶命。どうしようもない状況だ。僕は犯人じゃないのに……僕じゃないのに! 僕がリコーダーを盗んだ犯人になってしまう。男子も女子も、まるで僕のことを犯人扱いするかのごとく、軽蔑じみた目で見ている。 「僕はリコーダーを盗んじゃいない!」 教室内に僕の声が響く。内気で、人見知りで、人前で怒ったこともない僕が初めて、クラスのみんなの前で出した大声に、クラスのみんなが静まり返る。 「僕の机の中を調べるなら、森尾の机の中も見せろ!」 「はぁ!?」 「だって、そうだろ? 僕だけ机の中を調べられるなんて、不公平だよ! それに、僕が盗んだって証拠は無いのに、僕だけ犯人扱いされるのはおかしい!」 僕の気迫に、森尾は怖気づいた様子で口ごもる。それと同時に、さっきまで騒いでいた外野も押し黙った。けれど、僕にかけられた疑いはまだ残ったままだ。何とか、この嫌な流れを断ち切りたい。どうにかして、流れを変えるんだ。 「吉雄も、どうして僕が犯人だと決めつけるんだよ! 僕達のクラスは三十二人もいるのに、なんで僕が犯人だって分かるんだ?」 クラス委員長の吉雄は僕の質問に、一瞬動揺したような素振りを見せたけれど、すぐに冷静な表情に戻る。そして淡々とした口調で、僕の質問に返答した。 「僕が……見たからだ。お前がこよりちゃんのリコーダーを盗んでいるところを」 嘘だ。今、吉雄は嘘をついた。僕には分かる。僕には、どんなに無表情で自分の気持ちを押し隠して喋ろうがどうしようが、必ずその人が嘘をついているかどうか分かるという能力がある。 僕には『嘘の言葉』は歪んで聞こえる。普通とは少し違う、まるで声にエコーでもかかっているかのような、耳障りな高音が混じった気持ちの悪い音が聞こえるんだ。 「嘘だ……嘘だよ! 吉雄は嘘をついてる!」 「何を根拠にそんなこと言うんだよ!」 「そ、それは……」 何も言えなかった。僕は今までこの能力を誰かに話したことは一度もない。家族にもだ。そして、これからも話すことはないだろう。だって、話した所で誰が信じてくれるっていうんだ? それに、きっと信じてもらえた所で気持ち悪がられるだけだ。 だから、吉雄が嘘をついていると僕は証明ができない。 吉雄が嘘をついていると証明することさえ出来れば、疑われているこの状況を覆すことが出来るのに! 僕はもどかしさのあまり下唇を深く噛み締めた。 「真、お前がリコーダー盗んだところを僕は見たんだ。だからこそ、僕は君が犯人だとみんなの前で言った。お前は昨日の放課後、みんなが帰った後一人だけ教室に残って、こよりちゃんのリコーダーを盗んだ。証拠はきっとお前の机の中から出てくるはずだ」 「そんな馬鹿な! 僕は昨日まっすぐ家に――」 僕は吉雄に言い返そうとした。しかし、僕の言葉を遮るように森尾が僕に向かって言う。 「おい、真。見ろよ」 森尾は僕に向かって机の中身を見せつけるように、机の中にある物を出しては自分の机の上に無造作に置いている。そこには教科書と一緒に、小学生が見るようなものじゃない、えっちな如何わしい本も置いてあって、森尾は顔を真っ赤にしながら机の中身が見えるように、自分の机を僕の方に向けた。 「ほら、机の中見せたぞ。お前の机の中、見せろよ」 2 なんで、森尾は急に僕に向かって机の中身を見せてきたんだ? いや、僕が見せろってと言ったんじゃないか! 僕だけ、みんなに自分の机の中を見られるのが嫌だって言って。森尾の机の中身も見せろって。吉雄がついた嘘ばかりに気を取られて忘れていた。森尾は僕の方を真剣な、決意めいた表情でまっすぐ見ている。 僕は完全に追い詰められてしまった。 何も言えず、僕はただ森尾の方を固まったまま見ていることしか出来ない。森尾が自分の机の中身を見せたということは、僕もみんなに机の中身を見せなきゃいけないということだ。 吉雄のついた『嘘』に、僕の疑いを晴らすための必要な何かがあるはずなのに。吉雄がついた『嘘』を暴くことさえ出来れば……。 「俺は見せたぞ、お前も机の中見せろよ」 「……え?」 「言っただろ? 俺の机の中身見せろって。だから今見せたんだよ、今度はお前の番だな」 「ぼ、僕は……」 まるで砂漠のど真ん中に立たされたみたいに、口の中がカラカラに乾いていく。緊張して思わず自分の唇を右手の人差指で触ると、乾燥してザラザラしている事に気がついた。 「まさか、見せられないって言わないよな?」 吉雄が僕の目の前にまでやってきて、僕の机に手を載せながらそう言った。 逃げられないようにするつもりだ、直感的にそう思った。吉雄は僕を犯人として逃さずに捕まえる為に、目の前にまでやってきたんだと、そう思った。 「それじゃあ、見るぞ」 「や、やめろ!」 森尾が僕をどけて強引に机の中を見ようとする。思わず僕は声を荒げて、森尾の肩を掴み、強引に引っ張った。勢い余って、森尾はバランスを崩してその場で倒れ込んでしまう。同時に、周りの机や椅子がぶつかってガラガラと騒がしい音が鳴り響いた。 はっと我に返る。クラスのみんなが僕のことを冷たい目で見ていた。まるで、言い逃れ出来ないぞとでも言いたそうな、針のように鋭い視線が僕を突き刺すかのように、じっと見ていた。 「何すんだよ!」 森尾が僕を睨みつけながらそう言う。僕は、森尾に何と言っていいのか分からず、ただその場でうろたえることしか出来ない。いつの間にか僕は考えることさえ出来なくなっていた。今は、森尾に対して言い訳することも出来ない。心臓がバクバクと跳ねるように忙しなく動いて、それに合わせて僕の呼吸も早くなっていく。苦しくて、ここからすぐにでも逃げたくなる。 「なんだ、これは?」 吉雄の声が、僕の真後ろから聞こえた。思わず振り向いてみると、吉雄の手にはこよりちゃんのリコーダーが握られていた。吉雄は怒りの篭った目で僕の方を見ている。 「ち、違う……僕じゃない」 否定しようと、何とか声を絞り出した。けどそれも、クラスメイトの阿鼻叫喚に遮られる。男子の笑い声、女子の悲鳴、それらが混じり合って何を言っているのか聞き取れない。 咄嗟に胸元が引っ張られる。驚いて顔を正面に向き直すと、森尾が僕の胸ぐらを掴んで拳を振り上げ、今にも殴ろうとしている格好だった。ギリギリと歯ぎしりが聞こえそうなほど、奥歯を噛み締めて僕の目を真っ直ぐに睨みつけている。 「お前のことは……何もしゃべらないし、いつも一人でいるし、訳の分からない奴だと思ってたけど……すげぇ頭いいから、俺はお前のことすげぇって思ってたんだぞ! テストだっていつも百点で、勉強も教えてもらったこともあるし、俺はお前のこと良い奴だって思ってたのに。こんなことする奴だとは思わなかった!」 「ち、違う……! 僕じゃない、僕は盗んでないんだよ! 誰かが勝手に……」 「お前! いい加減にしろ!」 森尾の声が教室に響き渡った。森尾は右手でにぎり拳を作り、ゆっくり自分の方へ引いていく。殴られる! そう思って僕は思わず目をつぶった。 「やめて!」 誰かが叫ぶようにそう言った。それは女子の声だった。今の僕を庇ってくれるクラスメイトなんていないはずなのに、その声は僕の耳にやけに響いて、思わずつぶっていた目を開いて声のする方を向いてしまう。 次の瞬間、僕は顔を殴られた。完全に不意打ちで、訳が分からず目の前の景色がぐるぐる回転する。そのまま勢いのままに吹っ飛び、僕のすぐ後ろにあった机にもたれかかるように倒れ込んだ。 殴られた左頬がじんじんと痺れる。口の中が切れたのか、じわりじわりと鉄のまずい味が口に広がっていった。 思わず両腕で目元を隠した。殴られた痛みよりも、何よりも、犯人に仕立て上げられた悔しさと、信じてもらえない苦しさと、やり場のない怒りで涙が込み上げてくる。 せめて涙は流すものかと必死にした唇を噛んだ。痛みで涙が目の奥に引っ込んでいくのを感じる。口元を袖で拭くと、血が滲んだ。ようやく、顔を上げて眼の前にいる僕を殴った森尾の方に顔を向けようとしたのだけれど、僕の目の前にいたのは森尾じゃなくて吉雄の方だった。 吉雄は右手を握りしめて、眉間にしわを寄せながら僕を睨みつけている。吉雄の拳は小刻みに震えていた。どうやら、僕を殴ったのは森尾じゃなく、吉雄の方だったみたいだ。 「真……お前、こよりちゃんに謝れよ!」 吉雄の気迫に、さっきまで怒っていた森尾の方が気圧されてびっくりしている。僕は机にもたれかかったままゆっくりと立ち上がった。そして、殴られた左頬を手で抑えた。 吉雄は今まで見たことがないくらい怒っている。 一度堪えたはずの涙が、また目から溢れ出てきそうになった。僕はギリギリと奥歯を噛み締めて我慢する。でも、吉雄の方を見ることができない。多分、吉雄の後ろの方で僕を軽蔑したように睨んでいる、こよりちゃんと目があうのが怖いからだ。 吉雄の方を向いて、何か言い返したい。僕は無実だと胸を張って言いたい。 「謝れよ!」 吉雄が畳み掛けるように僕に向かって言った。僕もこれ以上、我慢するのは限界で堰を切ったように両目から大粒の涙が溢れ出す。目を伏せたまま腰をかがめ、頭を突き出し、吉雄とこよりちゃんがいる方へゆっくりと頭を下げる。そして、喉の奥から絞り出すように僕は謝罪の言葉を口にした。 「ごめんな……さい」 犯してもいない罪を認めた瞬間だった。僕の足掻きは……何だったんだろう。嘘が分かるという能力も、結局他人に信用してもらえない時点で意味のないものだったし。僕は自分が思っていたよりずっと、無力だった。 「みんな、もうやめてよ!」 唐突に聞こえた女子の声。また聞き覚えのある声に、僕はまさかと思いつつも少しだけ頭を上げて確認する。その女子は、きっと嫌われたはずの僕の初恋の女性。こよりちゃんだった。 こよりちゃんは、頭を下げたままの僕の方へ、吉雄や森尾、他のクラスメイトたちをかき分けてやってきた。そしておもむろに近づいてきたかと思いきや、何を思ったのかこよりちゃんは僕の頭を抱きしめる。 「え?」 突然のことに、訳が分からず変な声が出てしまった。こよりちゃんの突然の行動に、他のみんなもあっけにとられて固まってしまう。それこそ、さっきまであんなに怒っていた吉雄や森尾も、何が起きたか分からずに目をまん丸くして、その場で震えていることしか出来ないみたいだ。 僕はこよりちゃんにずっと頭を抱きしめ続けていた。こよりちゃんの体温が、心臓の鼓動が、柔らかい体が僕を包み込んで離さない。そのまま僕はどうすることも出来ずに固まったまま動けないでいると、ようやく我に返った吉雄がこよりちゃんに向かって言った。 「な、何をやってるんだよこよりちゃん! そいつは、こよりちゃんのリコーダーを盗んだ犯人なんだよ!?」 吉雄は僕を抱きしめたままのこよりちゃんの肩を掴み、それをやめさせようとした。けれども、こよりちゃんは一歩も動かず依然として僕の頭を抱きしめたままだ。 3 「ちょ、ちょっと! こよりちゃん!?」 吉雄がこよりちゃんの方を掴んだまま、動揺した様子で声をかける。すると、ようやくこよりちゃんは僕から離れた……かと思いきや吉雄の手を払い、まるで吉雄や森尾、その他のクラスメイトたちから庇うかのように、僕の前に立った。 一体何が起きているんだ? この状況は。僕はこよりちゃんに嫌われたはずだ。なのに何故、僕はこよりちゃんに頭を抱きしめられているんだ? でも、困惑しているのは僕だけじゃない。今さっき僕のことを殴った吉雄や、僕を犯人だと思って殴ろうとした森尾も、こよりちゃんの方を動揺した表情で見ているし、他のクラスメイトのみんなだって、さっきまで僕がこよりちゃんのリコーダーを盗んだと思って、犯罪者を見るような目で見ていたのに、今はこよりちゃんの方を、おかしな人を見るような目で見ている。 「確かに、リコーダーを盗まれたのはショックだったけど……でも、そんなにみんなでよってたかって真くんのことイジメるなんて酷いよ!」 「い、いじめてなんか無い! 俺はただ、こよりちゃんのリコーダーを盗んで机の中に入れて隠してた、こいつから、こよりちゃんを守りたかっただけで……!」 「真くんのこと、こいつって呼ばないで!」 「へっ……!?」 こよりちゃんからの思わぬ反撃に森尾は只々困惑して、どうしようもないといった感じで苦虫を潰したような顔をしている。 でも、もっと酷い顔をしていたのは吉雄だ。 こよりちゃんを見つめている吉雄の目は大きく見開いていて、まるで目の前で起きていることが信じられないといった感じで、動揺しているようだった。 「ど、どうして……おかしいよ、こよりちゃん!」 たまらずといった感じで、吉雄がこよりちゃんに対して声を張り上げる。その言葉には、悲壮感さえ感じる。 「だって、こよりちゃんが言ったんじゃないか! だから僕は、君を助けるために――」 「今は関係ないでしょ! 私から見て、吉雄くんや森尾くんたちがやってることがやり過ぎだって、私は言ってるの!」 「そ、そんな……!」 こよりちゃんは吉雄の言葉を遮って反論する。こよりちゃんのその行動に、吉雄はさらにショックを受けて言葉を返すことが出来ない様子だ。 「こよりちゃん……なんで? 俺は、こよりちゃんの為に……」 森尾はこよりちゃんの方を見ながらブツブツと何か呟いている。僕にはそれが少し不気味に思えた。 この場にいるクラスメイトたちはみんな、こよりちゃんの行動に対して疑問に思ったり、驚いたり、困惑したりしているけど、特に吉雄と森尾の二人はひどくショックを受けている様子で、それに僕は何か違和感を抱かずにはいられなかった。 どうして、吉雄は嘘をついていたのか。どうして、リコーダーを盗まれたはずのこよりちゃんが、僕のことを庇っているのか、考えれば考えるほど余計にこんがらがってしまう。 吉雄が言っていた『だって、こよりちゃんが言ったんじゃないか!』の意味は? まさか、こよりちゃんが自分でリコーダーが盗まれたって吉雄に言ったのか? 「こよりちゃんどうしたの? そいつは、こよりちゃんのリコーダーを盗んだ変態野郎なんだよ?」 女子の一人が、こよりちゃんに向かってそう言った。そいつは、こよりちゃんの親友の一人で、よく一緒にいるところを見かけるやつだった。名前は確か、林原(はやしばら)だったはず。 「真くんは変態野郎なんかじゃないよ! そんなこと言うんだったら、林原さんとは絶交する」 「え、えぇ……!?」 こよりちゃんの暴挙と言っていいほどの言葉に、林原は困惑する。そりゃそうだ。リコーダーを盗まれたはずの被害者が、リコーダーを盗んだ犯人を庇っているのだ。しかも、盗まれた張本人が犯人を守ろうとしている。みんな、こよりちゃんの行動に動揺して、どうしていいか分からなくなってしまっていた。 場の空気は一気にリコーダーを盗んだ変態を吊るし上げる状況から、こよりちゃんどうしたんだ? という困惑する雰囲気に変わっていく。特に僕を殴った吉雄や、自分の机の中を見せてまで僕の机の中を見ようとした森尾は目も当てられないほど落ち込んでいた。 これは、喜んでいい状況なのだろうか? 僕の初恋の相手、こよりちゃんにピンチを救われて一転状況は僕に味方しているように思える。けど、何か引っかかって仕方がない。何か作為的なものを感じる。なんだ……この気持ち悪い感覚は。 でも、この展開は願ってもないチャンス。僕の疑問を解決する、またとない機会だ。吉雄の嘘を暴く、最後のタイミングじゃないか! 流れが変わった、そんな感じがする。吉雄の嘘を追求するチャンスは今しかない。 「吉雄、一つだけ……教えてくれないか?」 「え……?」 吉雄は僕の突拍子のない発言に、困惑した表情でこちらを見た。 「なんで、僕がこよりちゃんのリコーダーを盗んだところを見たって、嘘をついたんだ?」 「な、なんだよ……」 さっきまでとは違う、明らかに動揺した表情。吉雄が嘘をついた理由は分からないけれど、こよりちゃんの為に吉雄が僕に嘘をついたのなら、きっと今の僕の言葉は吉雄の嘘に綻びを作ることが出来る。何故なら、僕には……僕だけには間違いなく吉雄が嘘をついていると分かるから。 だからこそ確信を持って僕は吉雄に『嘘』をついていると言うことが出来る。動揺した吉雄の心の隙をついて、僕は絶対に『嘘』を暴いてやる。 「ぼ、僕は……嘘なんてついてない……」 「それは嘘だよ」 「なんで……そんなことが分かるんだ? お前には嘘が分かる超能力でも持っているっていうのか?」 実際そうなんだけどね。でも、そんな超能力なんて使わなくても、吉雄の『嘘』は絶対に暴いてみせる。 「さっき、言おうとして言えなかったんだけれど、僕は昨日まっすぐ家に帰ったんだよ」 「だから、なんだって言うんだ? 言い訳するのか!?」 吉雄は僕の言葉に感情任せに反論した。頭では考えていない、言わば躍起になって僕を頭ごなしに否定しようとしているだけだ。 「僕がこよりちゃんのリコーダーを盗む為には、みんなが教室から帰った後に、僕が一人教室に残っていないといけない。そして、吉雄は僕が教室に一人残ってリコーダーを盗んでいるところを『廊下から』見なくちゃいけないんだよ。でも、それはおかしいんだ」 「何がおかしいんだよ……」 吉雄は少し冷静になったのか、声のトーンを落とした。そこで、僕は吉雄の『嘘』を暴くための疑問をぶつけてみることにした。吉雄が僕に『嘘』をついた時から、僕がずっと疑問に思っていたことだ。 「僕の席は廊下側の一番後ろの席だ。廊下からは見えない。仮に僕の姿が見えたとしても、何をしているのかまでは分からないはずだ」 「そ……それは……!」 吉雄の顔色が変わったのがはっきり分かる。僕は畳み掛けるように、話を続けた。 「でも、吉雄ははっきり言っていたよね? 『お前は昨日の放課後、みんなが帰った後一人だけ教室に残って、こよりちゃんのリコーダーを盗んだ。証拠はきっとお前の机の中から出てくるはずだ』って。つまり、吉雄は僕が『こよりちゃんのリコーダーを盗んで、机の中に入れる所までずっと見ていた』ということになる。そうなると、おかしいんだよ」 「な……なにが……おかしいんだよ!」 「廊下側からは僕が何をしているのか、まではっきり見えない。つまり、僕がこよりちゃんのリコーダーを盗んで机の中に入れるところを吉雄が見るには、直接教室の中に入って確かめなきゃいけないんだよ!」 「うっ……!?」 はっきりと分かる。息の詰まったような吉雄の表情、『嘘』を隠し通せなくなった人の顔だ。ついさっきまで、冷静に僕のことを追い詰めていった吉雄が、今は額に汗を浮かべて今にも泣きそうな顔をしている。 「もし、吉雄が直接教室の中に入って何をしているのか確かめようとすれば、僕が気付いてリコーダーは盗まれなかったかもしれない。でもそれはおかしいよね? だって、こよりちゃんのリコーダーは僕の机の中から出てきたんだ」 「ぼ……僕は……」 吉雄は完全に気の抜けたような顔をしていた。もうちょっとだ、もうちょっとで吉雄の『嘘』を完全に暴くことが出来る。僕は無実だって、潔白だって、みんなに証明することが出来る! 「それとも、吉雄は一人だけ教室のロッカーに入って隠れて、僕が来るのを待ち伏せしていたのかい?」 「違う……違う! ただ僕は、こよりちゃんから相談されて――」 「吉雄くん!」 急に、こよりちゃんが吉雄の言葉を静止するように声を張り上げた。吉雄の言葉がピタリと止まる。その時の吉雄の表情は、なんとも言えない物悲しそうな、まるで飼い主に怒られたラブラドールレトリバーみたいな顔だった。 違和感だ。何だろう、この気持ち悪い感覚は。僕は咄嗟にこよりちゃんの顔を見ようと体を少し前に出した。 こよりちゃんはまるで般若のような顔をしている。僕の背中に戦慄が走った。急に体中の血の気が引いて、貧血になったみたいに足元がふらつく。僕が見ているのは、本当にこよりちゃんなのだろうか? 目を瞑り、思い出の中のこよりちゃんの笑顔を思い出そうと躍起になる。でも今の僕には、こよりちゃんの笑顔どころか普段の表情さえ上手く思い出すことが出来なくなっていた。 4 「真くん。世界中の人が真君の的になっても、私だけは真くんの味方だよ」 氷で背筋をなぞられたかのような悪寒が走った。気が付くと、こよりちゃんは僕の正面の方へ向き直り、両手で僕の手を握りしめている。そして僕の目をじっと見つめながら笑顔でそう言った。 本来なら有頂天になって喜んでいいはずの状況なのに、僕はなぜだかちっとも喜べない。僕は、こよりちゃんの笑顔の裏にある底知れぬ何かに怯えていた。ギュッと握りしめてくるこよりちゃんの指は白くて柔らかくて暖かかったけれど、強く締め付けてくるので少し痛い。 「こよりちゃんは……リコーダーを盗まれたんだよね?」 こよりちゃんのおかしな態度に、こよりちゃんの親友林原は何か引っかかるところを感じたのか、こよりちゃんに向かって確かめるようにそう言った。 「うん、そうだよ?」 こよりちゃんは、それが何か? という雰囲気で林原に言葉を返す。その場にいた誰もが、多少の違和感を覚えながらも、こよりちゃんの言葉に疑いを持つ人は誰ひとりとしていないはずだった。僕を除いて。 こよりちゃんの声が歪む。今まで何千何万と経験してきた、あの嫌な感覚だ。間違えようがない。頭では否定しようとも、僕の本能がこよりちゃんは『嘘』をついていると告げる。この場で、僕だけがこよりちゃんが嘘をついていると知っている。 つまり、こよりちゃんは最初から……リコーダーを盗まれてはいなかったんだ。 どうして、こよりちゃんはリコーダーを盗まれたなんて、『嘘』をついたんだ? 僕のことが嫌いだから、陥れようとしたのか? それとも、こよりちゃんに傘を返す時に、面と向かってありがとうと言って直接返さなかったから、それに怒ってこんなことを? 僕の机の中にこよりちゃんのリコーダーを隠したのは……誰だ? 頭の中では次々と疑問が浮かぶ。ふと、僕の手を握りしめるこよりちゃんと目があった。こよりちゃんはニッコリと満面の笑みで微笑んで、その白い頬をほんのり桜色に染めている。ただ、僕の目に映る彼女の瞳の色はダークブラウンのはずなのに、今の僕には吸い込まれそうなほどに深い漆黒に見えた。 「おかしいよ、こよりちゃん……だって、こよりちゃんは俺に言ったじゃないか……助けてほしいって。『私を救ってくれるのは森尾くんだけ』だって、言ったじゃないか!」 森尾がフラフラになりながら、まるでゾンビのようにゆっくりと体を左右に揺らしながら、こよりちゃんの方へ近づいていく。 「だから、俺に『私のリコーダーを盗んだ犯人を見つけて欲しい』って言ったんだろ? だから、俺にハグしてくれたんだろ? 俺……俺…こよりちゃんのことがずっと好きだったんだ……だから!」 森尾は、もはや焦点の合わない目で、彷徨う。目の前で起きている現実が信じられない様子で、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだ。 それに対してこよりちゃんは、さっきまでの笑顔とはうって変わってまるで能面のように感情のない表情で森尾の方へ振り返る。 「森尾くん何の話? 私、森尾くんの言ってる意味、分からないよ?」 こよりちゃんの、とぼけた感情のない返事に、森尾は完全に心を折られたようでその場でがっくりと膝をついて項垂れてしまった。 「僕と森尾はまんまと利用されたって訳か……」 吉雄は何かを察したかのような表情で立ち尽くしている。一体何が起きているんだと、クラスのみんな混乱した様子でお互いを見合わせた。そんな状況にも意に返さず、こよりちゃんは僕の方へ向き直り、急に抱きついてくる。 「こ、こよりちゃん……?」 「大丈夫だからね? 真くん。みんなが真くんの事、こよりのリコーダーを盗んだ変態野郎って言っても、私だけは真くんの味方だからね。これからは、何でもこよりに頼ってね?」 こよりちゃんは自分の顔を僕の耳元に近づけて小声でそう言った。僕の中で一つの予感が、確証を持った瞬間だった。まるで鎖でがんじがらめにされたみたいに身動きできなくて、怖くて体の震えが止まらない。 「こ、こよりちゃん……僕は……」 「大丈夫だよ、真くん。私が、守ってあげるから。真くんは、何も考えなくていいんだよ?」 このまま流されていいのだろうか? きっと僕はこれからずっと、こよりちゃんのリコーダーを盗んだ変態野郎というレッテルを張られたまま生きていくことになる。でも、その代わりにこよりちゃんが僕のことを守ってくれるのだろう。きっと、そのまま僕らは自然に恋人同士になっていくような気がする。 でも、僕にはそれがとてつもなく怖くて仕方がない。僕はこよりちゃんを強引に引き離して、一歩後ろに下がった。 「どうしたの? 真くん」 こよりちゃんは可愛らしく小首をかしげる。僕は勇気を振り絞って、こよりちゃんに訪ねてみることにした。こよりちゃんがついた『嘘』のことについて。 「こよりちゃん……リコーダーを盗まれたって嘘……だよね?」 「ん?」 僕の言葉に、こよりちゃんは顔色も変えずにじっと僕の目を覗き込んでくる。 「なんで、そう思ったの?」 こよりちゃんは表情を変えず、じっと僕の目を見つめながらそう言った。でも、こよりちゃんの嘘を裏付ける証拠なんて、僕は持ってない。僕にはただ、人の『嘘』が分かる能力がある。それだけだ。だから、理由なんて無いんだ、ただこよりちゃんがリコーダーを盗まれたと『嘘』をついたということだけ、分かった。ただ、それだけなんだ。 なんと理由をつけて言えばいいのか、必死に頭の中で考える。その間も僕はこよりちゃんに見つめられたまま、まるで蛇に睨まれた蛙のような状態のまま、言葉にならない唸りをあげることしか出来ない。 よく考えて、僕は一つの結論にたどり着いた。こよりちゃんの嘘を暴く方法がない以上、考えるのは無駄だ。だから、もうこれ以上考えずに僕は『本当』のことを正直に言ってやろう。そう決心した。 「僕は……人の『嘘』が分かるんだよ。どんなにこよりちゃんが、隠しても僕には『嘘』が分かる。そういう能力があるんだ」 僕がそう言うと、こよりちゃんは嬉しそうに僕の方を見つめて一言『そうなんだ』と言った。僕の予想とは真逆の行動に余計に、頭の中がこんがらがってしまう。 「やっぱり、真くんはすごいよ。私の事何でも分かっちゃうんだね」 こよりちゃんは満面の笑みでそう言った。つまり、こよりちゃんは認めたわけだ。『嘘』をついたと。 「まさか……こよりちゃんが、僕の机の中に入れたのか……? 自分のリコーダーを! どうして、そんなことをしたんだ!?」 「ん? 何のこと?」 さっきとはうって変わってこよりちゃんはきょとんとした、とぼけた表情をする。 「それより、もうそろそろ休み時間終わっちゃうよ? 次は、理科の授業で移動しないといけないんだよ? 机とか椅子とか、片付けないと先生に怒られちゃうよ?」 とっさに、黒板の上にある教室の時計を見た。もうあれから、三十分ほど時間が過ぎていて休み時間はあと十分ほどしかない。 クラスメイトは、まるで熱が冷めたみたいに冷静になって時計を確認し、散らかった机や椅子を片付け始めた。 これで終わり? 本当にそれでいいのか? 僕は、こよりちゃんのリコーダーを盗んだ犯人に仕立て上げられた僕の事件は、これで本当に終わりなのか? それで、本当にいいのか? ふと、項垂れたままの吉雄と森尾の姿が目に入った。そうだ、これで終わりじゃない。決着をつけなくちゃならないんだ。僕にはこよりちゃんの『嘘』を暴く義務がある。 「みんな! 僕の話を聞いてくれ!」 僕が声を張り上げると、さっきまで理科の授業の準備をしていたみんなの手が止まる。みんなが僕を見る目はさっきからずっと、こよりちゃんのリコーダーを盗んだ変態を見るような冷たい目で、そんな目で見られるのは酷く辛いけれど、なりふり構っていられない。 この昼休みを逃せば、永遠に決着が付かないそんなきがするから、僕は残りの十分に全てをかけてやると決意した。もう、人見知りだとか人と関わるのが苦手だとか、言っている場合じゃない。だって、このままじゃ、僕はリコーダーを盗んだ変態のままだし、どう見てもこよりちゃんに利用されたみたいな吉雄と森尾が可愛そうだ。僕が、何とかしなくちゃいけないんだ! 「こよりちゃんは嘘をついているんだ!」 僕の一言に、先程の熱が冷めてテンションが下がっていたクラスメイトたちの怒りのボルテージが上がる。僕は一度、みんなの前で謝った。それはつまり、僕が犯人だと認めたということだ。それなのに、今更蒸し返すような真似をするなんて、こいつは馬鹿か? とみんなが僕に対して怒りの感情を向ける。 それでいい。もう、なりふり構っていられない! 「こよりちゃんは、最初からリコーダーなんて盗まれてなんかいなかったんだよ! 全部、自作自演なんだ!」 「ふざけるなよ!」 そう言ったのは、さっきまで項垂れて放心していた森尾だった。森尾は顔を真っ赤にして怒り、立ち上がって僕の服の襟首を掴んだ。もうすでに、僕の襟首は掴まれすぎて、ヨレヨレになっているしさっき吉雄に殴られた時にシャツの第一ボタンが取れてしまっている。だから、もう何回襟首を掴まれたって同じだ。むしろ、僕は自分のシャツの襟首を犠牲にしてもやらなきゃならないことがある。 「お前……さっき謝っただろ! だのに今度は自分じゃないっていうのか!? こよりちゃんに……こよりちゃんに抱きつかれて、手を握られて……調子に乗ってるんじゃねぇぞ!」 「違うんだよ、森尾! 僕も、お前も利用されてるんだ!」 「なに……言ってるんだよ!?」 「森尾!」 その時、同じく放心していたはずの吉雄が、森尾の横に立って名前を叫ぶ。そして、襟首を掴んだままの森尾の手を無理やり離した。 「僕は、確かに嘘をついた。でも、それは正義のための『嘘』だと思っていたんだ。だから、真がこよりちゃんのリコーダーを盗んだところを見たって、嘘をついたんだよ」 「なに言ってるんだよ……吉雄!」 「僕は、こよりちゃんに……相談されたんだよ、真がリコーダーを盗んだんだって。でも、見たのは私だけで、誰にも信じてもらえない。僕にしか……僕だけにしか相談できないって言われたんだ。僕に……私の代わりに見たって言って欲しいってお願いされたんだよ」 吉雄は僕に向かって頭を下げた。本当に、申し訳無さそうな顔をして僕に向かって深々と頭を下げたんだ。それは、以前と変わらないあの僕が嫌いだった、誠実な吉雄の姿だった。 「真、ごめん。僕は……こよりちゃんのことがずっと好きだったんだ。本当に、『嘘』をついてごめんなさい」 「吉雄……」 僕は、吉雄に対して何も言うことが出来ない。さっき吉雄にぶん殴られたことも、一方的に犯人扱いされたことも、今のことで全てチャラになったとは言わないけれど、吉雄はいつもの吉雄のままで何も変わっていないという事がわかって、内心ホッとしている。 「吉雄くん。一体、何を言ってるの?」 こよりちゃんが吉雄に向かって詰め寄った。その顔はまるで仮面でも被っているかのように無表情で、目には光が反射しないほど黒く染まっている。 「ど、どういうことだよ、こよりちゃん。俺だけが頼りだって……そう言ったじゃないか! 真がリコーダーを盗んで机の中に隠しているって……。昼休みに吉雄が、犯人の名前を言ったら真の机の中から、私のリコーダーを取って欲しいって……言っただろ!」 森尾は血相を変えてこよりちゃんに詰め寄る。それをこよりちゃんは、鬱陶しそうに手で払い、一言『近寄らないで』と言った。森尾はその場で石像になったみたいに固まり、再び放心したようにうずくまってしまう。 「こよりちゃん……本当のことを言ってくれ、頼む。本当に、真は君のリコーダーを盗んだのか?」 吉雄は懇願するようにこよりちゃんに向かって言った。しかし、こよりちゃんは動揺する素振りも見せず、平然と『嘘』をつく。 「本当だよ」 「それはいつ?」 吉雄は冷静にこよりちゃんに質問する。それに、こよりちゃんも顔色人使えずに平然と返答していった。 「……昨日よ。だから、放課後吉雄くんに相談したんでしょ?」 「そうか。でも、君は僕だけじゃなく森尾にも相談したみたいだね。ちなみに森尾は昨日、サッカー部の模擬試合で放課後すぐにサッカー部に行ったはずだけど、こよりちゃんはいつ相談したのかな?」 こよりちゃんの表情が曇った。痛いところを突かれたという感じで、明らかにこよちちゃんの声にも同様が現れている。 「そ、それは……吉雄くんに相談したあとに……」 「それはおかしいよ。だって、こよりちゃんは昨日の放課後、僕と一緒に帰ったじゃないか」 「……」 「リコーダーを盗まれたのは、嘘だったんだね。こよりちゃん」 終わった。ついに、僕の潔白が証明されたんだ。最後は、吉雄が僕のことを助けてくれた。僕の中で、吉雄の評価を見直さなくちゃならないと思った。 四年一組のクラスメイトは、目の前で起きている状況を整理しようと隣同士で話し合ったり『どういうことだよ』と野次を飛ばしたりしている。でも、これだけははっきり言える。僕の身の潔白は証明されたと。 ただ、一つだけ僕の中にはまだ解決していない疑問がある。授業が始まるまで後数分、こよりちゃんに聞くのは今しかないだろう。僕はさっきから沈黙を保ったまま動かないこよりちゃんに向かって、質問する。 「どうして……こよりちゃんは、盗まれたなんて言って僕の机の中にリコーダーを入れたの?」 「それは……」 こよりちゃんは僕の方へ向き直り、今にも泣きそうな顔でこう言った。 「真くんのことが……好きだから、独り占めしたかったの」 授業開始、五分前のベルが鳴る。 結局、僕の初恋は失恋に終わった。 僕の中にある、可愛くて親切なこよりちゃんは幻想で、現実は目的の為には手段を選ばない狡猾な女の子だということが分かってショックだった。 実は、一年前に僕がこよりちゃんに傘を貸してもらう前から、こよりちゃんは僕に近寄ろうとして必死だったらしい。小学一年生のころからずっと僕の郵便ポストに入れられていた、差出人不明のラブレターはイタズラではなく、こよりちゃんからの物だったらしい。こよりちゃんがどうして僕のことをそこまでするほど、好きになっていたのかというと、ラブレターを入れられる三ヶ月ほど前に犬に追いかけられていたこよりちゃんを、僕が助けてくれたからだとか。 たしかにそんなこともあったな、と懐かしく思うが、僕は別にこよりちゃんを助けるつもりはなく、しかもこよりちゃんを追いかけていたっていう犬は僕の家の犬で、道でばったり会った時に、勝手にこよりちゃんがびっくりして僕にしがみついてきただけの話だ。むしろ僕はこよりちゃんに顔を思い引っかかれて最悪だった記憶しかない。あの時の女の子がこよりちゃんだったとは……夢にも思わなかった。 今思えば一年前のあの日、何であの時こよりちゃんは傘を二つ持っていたんだという話で、いくらなんでもタイミングが良すぎだよな。 でも、あれから僕には親友が出来たんだ。しかも二人。そう、あの時僕を殴った吉雄と、僕のシャツの襟首を掴んでヨレヨレにしてくれた森尾の二人だ。お互いに失恋同盟を組んで、慰めあっていたら自然と仲良くなったし、まだ僕の人とは違う力については話せていないけれど、いつかは必ず離したいと思っている。 僕の、リコーダーを盗んだ変態という冤罪はめでたく晴れたし、親友も出来たし、問題は全て解決した! といいたいところだけれど……。 実は、僕の郵便受けには未だにこよりちゃんからのラブレターが入れられている。 月曜日の午前七時。胸騒ぎがして、僕は玄関の外側にある郵便ポストを開けてみた。 「うわ……また手紙が入ってるよ……」 「真くん」 突然、後ろから声が聞こえた。びっくりして振り向くと、そこにはこよりちゃんが立っていた。 「えっ……!? こ、こよりちゃん!?」 「あの時は……ごめんなさい。ちゃんと真くんに謝りたくて。それとあの……お願いがあるんだけど」 「お、お願いって?」 「こ、恋人にしてとは言わないから、私とお友達になってください!」 僕の未来はまだまだ前途多難らしい。ちなみに、今回こよりちゃんは嘘をついていなかったので、僕はこよりちゃんとお友達になることにした。 |
キーゼルバッハ 2016年12月31日 22時48分24秒 公開 ■この作品の著作権は キーゼルバッハ さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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