まっすぐ(な線をひく)少女 |
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いくつかの数式が白くなって消える。「あっ」と思わず漏れた声を、神経質そうな教師が拾い上げた。 「どうした日景。まだ書いてなかったか」 「……あの、いえ」 名前を呼ばれ、ビクリと肩が震える。みんなの視線が集まっていることを感じ、かっと顔が熱くなった。 「悪いが授業のペースに関わる。後で友達に見せてもらえ。お前らもいいか」 一度チョークを置き、教師はクラスを見回して声を大きくする。 「中学までは義務教育だ。生徒は一人残らず手を差し伸べるのが学校の役割だが、高校は違う。一人一人に責任があり、一人のために全体を遅らせることはできない。遅れたと思うなら自分の力で追いかけて来い。社会では『できない』と『やってない』は同じ意味になる。今のうちそれを覚えておけ。いいな日景」 「…………はい」 小さな返事を待たず、教師は黒板に向き直る。落ち込む暇はない。イコールの先がない数式を諦め、チョークを追っていく。 ――――くすくす、くすくす。 押し殺したような笑い声がどこからともなく聞こえてくる。あるいは幻聴かもしれなかったが、みじめな思いはますます積もっていった。 後でノートを見せてもらえる友達がいれば、どれだけ楽しい高校生活を送れたことだろう。 誰もいない教室を後にして、ふうとため息が漏れた。トイレの前に置かれた鏡に映るしょぼくれた少女を見て、ますます気分が重くなる。 染めた気配のない黒髪に、化粧っ気のない顔。小学生の頃の自分と変わったことといえば、地味な眼鏡をかけたことくらいだろうか。 その他大勢、脇役であることに不満はない。特別可愛くもなければ、何かができるわけではないのだから。でも、それでも、せめてもう少し。 何がというわけじゃない。でも、せめて何か一つくらい―――― 曖昧な思いに囚われながら上履きを脱ぐ。下駄箱から靴を取り出したとき、ふと気になって鞄の中をあさる。 案の定というべきか、持って帰ろうと思っていた数学の教科書がなかった。 「……忘れた」 せっかく出した靴を戻し、再び上履きに履き替える。あと五秒早く気付けば履き替える手間はいらなかったのにと情けない思いを抱きつつ、来た道をとぼとぼと戻った。 俯きがちに教室の戸を開ける。視界の外からかけられた「や」という声に驚いて、思わず体が竦んだ。 「……え、あ、み、御幸、くん」 「おっす。日景さんも忘れ物?」 そう声をかけてきたのは、隣の席の御幸くんだった。男子としては小柄な体格で、口元の絆創膏がより一層、弟っぽさを引き立たせている。 「う、うん」と小さく頷き、早足に自分の机を目指す。別に嫌いというわけではないのだけど、何となく気まずい感じがした。 あわてて机の中を探す。ちゃんと残っていたことにほっとし、急いで取り出そうとしたのが良くなかった。つかみ損ねた教科書はするりと手の中を滑り落ち、床へと落ちてしまう。 「あっ」 「おっ? 落ちたよ」 半端なページで開いて落ちた教科書を、御幸くんが拾おうと手を伸ばした。それより早く、まるで引っ手繰るみたいに取ってしまい、彼は驚いたように目を見開いてわたしを見る。 ――――せっかくの善意に、わたしはなんてことを。 「ご、ごめんなさい。その、あの」 「いいよいいよ、見られたくないものとかってあるしさ。気にしないで」 苦笑いを浮かべてフォローしてくれる。いつも思っていたけど、やっぱり良い人だ。 わたしとは全然違う。 申し訳なさと情けなさでないまぜになった内心を悟られたくなくて、教科書を鞄に入れずに歩き出す。 さよならも言わず立ち去ろうとするわたしを、御幸くんが「あ、日景さん」と呼びとめた。 「良かったらさ、少しだけ、今の教科書見せてもらっていい?」 「……え、きょ、教科書、ですか?」 「うん」 こくんと頷く。積極的に見せたいものではないけど、これ以上失礼なことをするのも気が引けた。 「……う、うん」 鞄に入れなかったおかげで、今度は取り出す手間が省けた。そんな関係ないことを考えながら、おっかなびっくり教科書を差し出す。「ありがとう」と素直に言える彼が、格好良いなと思った。 「日景さんてさ、教科書に赤線引くときわざわざ定規使うんだ」 「……え?」 ぱらぱらとページをめくっていた御幸くんが、おもむろにそんなことを言った。 「いや、よく先生が『ここアンダーライン引いとけ』って言うでしょ? そういうとき、俺は面倒くさいから適当にぴゃーっと引くんで曲がったりふにゃふにゃしてるんだけどさ。日景さんのはちゃんと真っ直ぐになってるから」 「う、ううん、使ってないよ。わたしも、手書き」 「え、いやだって、凄く綺麗だよ、この線」 綺麗、という言葉に違うとわかっていても心が弾んでしまった。「別に、普通だよ」と無意識に前髪をいじる。 「ほへー、じゃあ定規なしでこんな綺麗な直線が引けるんだ。スゴイな」 手放しに賞賛され、ほっぺたがムズムズしてくる。内容はともかくとして、こんなに褒められたのって何年振りだろう。 「ちょっとノートも見せて」 「うん、どうぞ」 ふわふわしながらノートを手渡してから、それが今日の授業で書き写しきれなかったものであることを思い出す。「あっ」と思い出しても、まさかまた引っ手繰るわけにはいかなかった。 今日の分に限らない。数学は進むのが早く、とりわけ書き写せていない科目だった。 中途半端なノートを見て、幻滅されたらどうしよう。胸の辺りがきゅっと締め付けられるような気持ちで彼を見つめる。 彼はパラパラとページをめくりながら、「やっぱ良いな」と呟いた。 またしても、気持ち的には一メートルくらいジャンプした。 「字が綺麗だし、とっても見やすい。あの線を見て思ったけど、すごく丁寧なノートの書き方してる。羨ましいくらい」 「そ、そそそんなことないんよ?」 思わず語尾が上ずってしまった。なにこれ? なんでこんなホメ殺ししてくるの? 「ホントだって。ほら、俺のノート」 「うわ」 御幸くんが開いてみせたページを見て、思わず声が出てしまった。あわてて口を塞ぐが、漏れてしまった本音はもう戻せない。 もっとも、彼が気分を害した様子はなく、むしろ少し面白そうに。 「でしょ? 字は汚いし全体的に滅茶苦茶だし。書いている最中はそうでもないんだけど、読み返すと何を書いてんのかさっぱりわからない」 だから羨ましい。最後の一言に、何だか涙がこみ上げてきた。 鼻をすすって堪えると、眉を寄せていた御幸くんがちらりと時計を見て、「やべ」と自分のノートを鞄に仕舞った。 「これから部活だったんだ。教科書とか見せてくれてありがとう。良かったらまたノート見せて。じゃ、また明日」 「あ、う、うん、また明日」 ひらひらと手を振る背中を見送って、ふと迂闊な約束をしてしまったのではないかと我に返る。 いや、大丈夫でしょ。多分お世辞って言うか、社交辞令みたいなものだよ。だって御幸くんには、頭の良い友達だっていっぱいいるし。 家を出てから帰るまで全く喋らないこともあるようなわたしとは違うんだし。うん、きっとそう。 よくわからない前向きなネガティブを発動し、鞄を持つ。 ちょっと落ち込むこともあったけど、今はとっても幸せな気分だ。ひょっとするとわたしの運勢は、徐々に上向きになっていくのかもしれない。 「日景さん、良かったら一緒に勉強しない?」 上向きどころが逆バンジー!? 「あ、あう、えええええ?」 朝練を終えた御幸くんは、教室に入って早々にわたしに声をかけてきた。想像外の言葉に、わたしの日本語は不能に陥っている。 ちなみに御幸くんはバレーボール部だそうで、口元の絆創膏は床に飛び込んだ時にぶつけたのだと、話しているのが聞こえた。 「テストもそろそろだしさ。日景さんのノートを見せてもらえたら嬉しいんだ。俺は頭あんまりよくないから教えるとかできないカモだけど、それでもよかったら」 「わわ、わたしも頭は良うないんよ? 教えるとかできないし、それに」 目を逸らし、続ける。 「……ちゃんと書き写せてないとこあるから、やめたほうがいいよ」 褒めてもらったのに、本当は写す価値もないノートだと自分で言っているようで胸が苦しくなった。 さぞ幻滅したことだろう。ちらりと御幸くんの様子を伺うと。 「ああ、うん。大丈夫」 御幸くんはケロリとそんなことを言った。 「それ込みで。どうかな」 「あ、え、それ込みて、ええ?」 てっきりもう話は打ち切りかと思ったら、折り込み済みのようだった。用意していた言葉がなくなり、意味もなくキョロキョロする。 わたしはゴクンと唾を飲み込み、唇をもにゅもにゅさせて、やがて小さく呟いた。 「そ、それでもいいのであれば……こちらこそ、お願いします」 顔を見ていられなくて、目を逸らす様に頭を下げる。「やったぜ!」と頭上に響いた声は、とても嬉しそうだった。 「ありがとう日景さん! 放課後は部活があるから、昼休みに図書室で! それじゃ、よろしく!」 そう言って自分の席についた御幸くんは、ふんふんと鼻歌混じりに鞄を机にかけていた。混乱していた頭が徐々に正常に戻ると、どうやら今日わたしは御幸くんと一緒にお勉強をすることになったようだ。一大イベントである。 ふわふわするようなドキドキするような感覚に前髪をいじる。ふと、周囲の好奇な、あるいはどうでもよさそうな視線の中に冷たいものを感じ、横目でちらりとそちらを見やる。 長い髪は金色に近く、スカートの短さも耳のピアスも校則違反だがおかまいなし。近づくと化粧の臭いがするので苦手なのだが、容姿は美人のそれであり、長身でスラリとしたモデル体型で、特に女子グループの中ではリーダー格の少女。夕凪舞である。 そんな彼女が、国境侵犯した小国を見下す大国のようなイラついた目をしてこちらを見ていた。 慌てて目を逸らし、教科書を机に出して予習をする振りをする。 浮ついた感覚は、一瞬で吹き飛んでいた。 「……ええっと、これどういうこと?」 「えっとね、これはね」 おそるおそる、自分のノートを反対側から指し示し、おぼつかない口調で説明する。先生の百倍わかり難い説明だと思うけど、「おっ、なるほど」と頷いてくれた。 昼休みになり、昼食を済ませたわたしは図書室で御幸くんと待ち合わせし、小規模な勉強会を開いていた。今まで生きてきた中で一番かもしれない緊張の中、なんとか良かったと思ってもらえるように頑張る。この後の体育はおそらくいつも以上にズタボロになると思うけど、もうかまわない。 しばらくして、上手く説明できないところで詰まってしまった。御幸くんの眉間に刻まれた八の字は深くなるばかりで、わたし自身ちゃんと理解できていないことがもどかしい。 自然と、「……ごめん、わからないよね、説明が下手過ぎて」と謝罪が口を出る。 「ん? いや、わかりやすいよ。わかってないのは俺の脳みその問題」 庇ってくれたのか本音なのか、彼は飄々とした空気のまま言った。 「先生みたいに早口じゃないし、俺がわかるまで待ってくれるし。出来の悪い生徒には最適だと思うよ。家庭教師とかやってみたら?」 「い、いやいやいやいや、そんな……あ」 「どうかした?」 自分のノートをめくり、次のページが書き写せなかった場所であることに気が付いて、思わず声が出ていた。不自然に途切れたまとめが痛々しく、申し訳ないような気持ちに唇をかむ。 「……ごめん、ここから、書き写せなかったとこだ」 もうお役に立てないところまで来てしまった。ちらりと時計を見れば、まだ昼休みは二十分弱も残っている。叶うなら、もう少しこの時間を続けたかった。 「そう? じゃあ、こっからはこれの出番だな」 残念がるどころがむしろ嬉しそうに、御幸くんは自分のノートを取り出し、該当するらしいページを開いた。 「うわ」 お世辞にも綺麗とは言えないノートにまたも本音が漏れた。口で押さえて押し戻すが、完全に手遅れである。 「俺は全部書き写しているけど、正直後から読み返すと何書いてあるのかさっぱりわからない。そこで」 御幸くんはわたしのノートと自分のノートを並べ、言った。 「日景さんの未完成ノートを、俺のノートに書いてあるのを解読して新たに書き加えて、完璧なノートを作ろうって作戦を考えたんだ。どう?」 「あ…………」 うまく言葉が出てこなかった。ただ、わたしのことまで考えてくれていたことに、ただただ嬉しい気持ちが湧き出してくる。 熱くなる胸に手をあてて堪え、差し出された二冊のノートを見やる。確かに、御幸くんのノートは汚く、読み返して復習しようという気にはならない。 でも、これを元に新たに書きなおせば。 きっと、とても綺麗なノートにできるはず。 ――――ううん。するんだ、絶対に! 「うん、やってみる」 「よろしくお願いします!」 深々と頭を下げた御幸くんに、くすっと笑みがこぼれる。合わせて彼も笑い、温かい空気が周囲を包んだ。 「早速だけど、これは『い』? それとも『り』?」 「うーん……『に』かな」 なんでだよ、なんて口には出さず心の中でツッコみ、苦笑を浮かべる。 書くのが遅いわたしが、まるで暗号のようなノートを解読しながら書き写していく作業は、正直に言って捗っているとは言い難いペースだった。 それでも、まるで宝探しみたいに進める勉強は楽しく、気づけばわたしは、高校入学から記憶にある限り初めて、自然に笑えていたような気がした。 それからしばらく、わたしと御幸くんの昼休み勉強会は続いた。科目は数学に限らず、色んな科目にまで及ぶ。 勉強会を始めてからちょうど一週間がたった日の、昼休みの終わり。 予鈴と共に勉強を切り上げたわたしがノートと教科書をまとめると、ふとわたしのノートが御幸くんの方に行っていることに気づいた。わたしの方に、御幸くんのノートが来てしまっている。 「あ、御幸くん、ノート逆」 「え、あ、ほんとだ、ゴメン」 歩きだしかけていた御幸くんが立ち止まると、ノートをわたしに渡そうとして動きを止めた。どうしんだろう、と首を傾げる。 「御幸くん?」 「こ、これってもしかして」 「え?」 「俺と日景さんのノートが」 「あの?」 「い、入れ替わってるー!?」 「うん」 よくわからないけど急にテンションの上がった御幸くんにそう応じると、改めて「はい」とノートを返した。固まったまま動かない表情筋で受け取ってくれた御幸くんは、今度は何も言わずノートを返してくれる。 図書室を出て教室へ戻る途中、御幸くんが口を開いた。 「日景さんてさ、映画とか見る?」 「興味あるのがテレビでやったら、少し。映画館とかは行かないかも」 行く友達もいないし、とは言わずに飲み込むと、「やっぱり」という妙に納得したような返事にちょっとだけむっとした。 「そういえばさ、日景さんって時々訛るよね」 「えっ!?」 ドキリとして、危うくノートを落としかける。「ひょっとして引っ越してきたとか?」と重ねて問う御幸くんに、「ち、違うんよ!」と否定する声がすでに若干訛っていた。 「う、生まれも育ちも、ここやから!」 しっかり自分でトドメをさすと、恥ずかしい気持ちで穴があったら入りたくなる。友達をあまり作れなかったのも、この訛りが原因の一つになっていた。 あーもう! 地元は本当にここなのに! 「そうなんだ。でも結構可愛いと思うけどな。時々訛るの」 やったあ! 自分でもクルクルよく回る掌だな、と思った。 そんなこともあった、楽しい勉強会の日々。 決して順調というわけではないけれど。 いつしか一緒に勉強できる昼休みを待ちわびて、相変わらず書き写しきれない授業の時間さえわくわくしている自分に気が付く。 こんな時間がずっと続いてほしいと思った。 そんな甘いこと、あるわけないのに。 昼休みの勉強会でよりわかりやすくなるよう、教科書を見ながらノートを見直す。 まとめの部分をわかりやすくするため、四色ボールペンの赤で線を引こうとしたときだった。 「ねえ日景さん、ちょっとトイレ行かない?」 文字通り上から降りかかってきた声に、びくりと肩を震わせる。 金色じみた茶色の髪に、つんと鼻を突く化粧の臭い。整った容姿ではあるものの、夕凪さんの冷たい目はまるで汚物でも見るかのようだった。 「……な、なんですか」 体を小さくして答えると、首を動かし『来い』と示して背を向ける。取り巻きの女子生徒二人がニヤニヤしながら追随する彼女を、わたしも追いかけるしかなかった。 階段の踊り場、比較的人通りの少ないタイミングで、夕凪さんは唾でも吐くように言った。 「あのさあ、もう御幸くんに近づかないでくんない?」 きっとその話だろう、と予期していても、実際に言われると心臓が縮んだ気がした。 「御幸くんはみんなの人気者。あんたは風景の一部。浦島太郎と話していいのは乙姫とせいぜい亀くらい。わかめBのくせになに調子に乗ってんの?」 「……そ、そんなこと、ないです」 「ならさあ」 ぐいと顔を近づけられた。思わず背中が壁にぶつかる。嫌悪と憤怒に染まった夕凪さんの後ろには、取り巻き二人が嘲笑じみた笑みを浮かべて何か囁き合っていた。 「私さあ、いじめって嫌いなのよ。陰湿なのも嫌い。スパッとした方がよっぽど気持ち良い。そう思わない?」 「は、はい」 「じゃあもう御幸くんに近づかないで。私はアンタに干渉しない。アンタは御幸くんに干渉しない。それで私たちがぶつかることもない。どう、私の言っていること間違っている?」 「……でも」 御幸くんは関係ないのでは。そう言いかけた唇が、「は?」の一言に動きを止める。人生送りバントなんて大それたものじゃない。人生ライトスタンドで応援しているだけのわたしに、言い返す気力なんてなかった。 気づけば肯定の返事が口を滑る。途端、にんまりと笑みを浮かべて「そっ、わかってくれて嬉しいわ。じゃね」とすぐさま身を翻して離れていく。あたかも、わたしのことなんてどうでもいいとでも言いたげに。 ニヤニヤをこっちに残してから夕凪さんの後を追う取り巻き二人を見送って、わたしも重い足取りで教室に戻る。 教室に入る直前、トイレから戻ってきたらしい御幸くんが、「日景さん」と声をかけてくれた。 「今日も昼休みよろしくね。本当は放課後に時間とれるのが一番なんだけど、俺の部活のせいで申し訳ない。テスト期間になれば部活もなくなるし、そしたらたっぷり時間とれるから……どうかした?」 いつもと変わらない声に、これからもずっと続けようという望外な申し出。わかめBには泣いて喜ぶべき言葉だったが、ドアの隙間から見えた夕凪さんの視線を感じ、わたしは奥歯を噛んだ。 「……ごめん、わたし昼休みに用が入っちゃったから。ごめんね」 返事も待たず教室に入り、机に突っ伏す。声をかけないで、という雰囲気を纏い、御幸くんからの追及を避ける。 幸か不幸か、彼からまた声をかけられることはなかった。少し寂しい安堵を覚えつつ、自分の机にあるノートを見て、そういえば途中だったと思い出し、再びボールペンを手に取る。 もう、一緒に勉強することはないのに。 ふと気づいてしまった事実に、指先が震える。 御幸くんが褒めてくれたまっすぐな線は、今はぐしゃぐしゃに歪んでしまっていた。 ここ最近で一番暗い気分で、下駄箱に向かう放課後。用があると嘘をついてしまった昼休みは教室にいるわけにもいかず、校内を目的もなくうろついた挙句にトイレで十数分を過ごす悲しい時間になってしまった。 がっくりと項垂れてため息を漏らすと、どんと誰かに肩をぶつけられた。 「廊下で突っ立ってんじゃないよ、どんくさいな」 ニヤニヤと笑みを浮かべて言ったのは、夕凪さんの取り巻きの一人だった。デ……太目の体型で押されたからか、思いのほか痛い。 「余計なことすんじゃないよ」 続いて現れた夕凪さんの声に、思わず謝罪の言葉が口を出そうになる。だが、言葉の先はわたしではなく先ほどぶつかった太めの取り巻きだった。 夕凪さんはわたしなど姿も見えないと言いたげに、足早に通り過ぎていく。 互いに干渉しない。彼女は自分の言葉を忠実に実行しているようだった。 気分を落ち着けようとした深呼吸が、まるで盛大なため息みたいに感じられる。心機一転には程遠い気分で、下駄箱を開けると。 一枚の紙が、わたしの革靴の上に乗っていた。 「なんだろ……」 ひょっとして夕凪さん? 釘を刺しに来たのか、それとも気が変わって遊び相手に選ばれてしまったのか。不安に眉を顰めつつ、中身を確かめる。 そこには十一ケタの数字と、『午後八時 テル』とだけ書いてあった。 「……テル?」 テルって誰だろう、と思った。 家に帰り、お風呂に入って食事を済ませ、自分の部屋に戻ってきて、ふとあのテルという謎の人物が、TELLのことではないかと気が付いた。 つまり、指定の時間にこの番号に電話してくれ、ということなのではないかと。 もし変な番号に繋がったりしたらどうしよう。あるいは、やっぱりあの番号の主は夕凪さんで、呼び出されたりするのかもしれない。 不安はあっても、無視するわけにはいかなかった。もし夕凪さんなら、明日また何か言われることになるかもしれない。 もし変な誰かが出たら、すぐに切ってしまおう。 そう心に言い聞かせ、意を決して電話をかける。 コール音をほとんど聞くことなく電話がとられた。 『もしもっ!』 「きゃっ!」 ビックリして切ってしまった。取り落としたスマホが床を滑り、ベッドの下へと入り込んでしまう。 途端、友達がいないため滅多に鳴らない着信音が響く。急いでベッドの下に手を伸ばし、指でひっかけて取り出す。 家族以外では登録が一件もないスマホでは、やはり知らない番号からだった。一つ大きく呼吸して、慎重にとる。 「も、もしもし」 『もしもし! オレオレ! あ、詐欺じゃないよ。御幸』 「みみ、御幸くん!?」 思いもかけない人からだった。再び取り落としそうになったスマホを辛うじて掴み、耳にあてる。 「ど、どど、どうしたんの、こんな時間に」 『どうしたのって、電話かけたのは日景さんでしょ。まあこの時間を指定したのは俺だけど』 言われて、そう言えばそうだったと気付く。 「って、そうじゃなーて、どうして御幸くんの電話番号が?」 『日景さんさ、夕凪さんになんか言われたんでしょ』 疑問形ですらなかった。ドクンと心臓が跳ね、言葉が喉に詰まる。 『気にしなくていいよあんなの。別に夕凪さんが嫌いなわけじゃないけど、あの人の決めつけっぽいところはどうにも好きになれないんだよね。まあでも、ムキになってこっちから声をかけても困るのは日景さんだから今は何も言わないけどさ』 「……あ、う」 上手く言葉にならず、その間に御幸くんが続ける。 『で、本題なんだけどさ。日景さんノートとか今ある?』 「え、う、うん」 『昼休み一緒に勉強できなかったからさ、今やろうと思って』 「…………え?」 一瞬、何を言われたのかわからなかった。 『学校じゃ夕凪さんたちの目に付くだろうけどさ。こうして電話しながらだったらわからないでしょ。ノートは見せ合えないけど、その分昼休みよりたっぷり時間がとれるし。どうかな』 ……わたしの、ため? 返事も忘れて、わたしは口元を押さえた。 急に素っ気ない態度をとったわたしに怒りもせず、原因をすぐに見抜いて、違う方法での勉強を提案してくれた。わざわざ下駄箱に電話番号を書いた紙を置いてまで。 御幸くんなら、他にいくらでも一緒に勉強する人はいるだろうに。 言われるがままの情けない自分に、そして御幸くんの優しさに、熱いものが鼻の奥をツンと突いてくる。ずっと鼻を啜っている間に、沈黙に不安を感じた御幸くんの声が小さくなった。 『……ええと、やっぱり、迷惑だったでしょうか?』 「そ、そんなことない!」 思わず大きな声が出た。階下の家族に聞こえてないかと様子を確かめ、声量を落とす。 「嬉しい。すごく、嬉しい」 『……そっか、そう言ってもらえると、俺も嬉しい』 机に移動し、ノートや教科書を開く。片手だと作業が思う様に進まない。 その間にお礼を、と思い、言葉を探す。 「……えと、その、ごめんなさい。わたしなんかのために、こんなことまで」 口を突いて出たのは謝罪だった。卑屈だな、と心の深い部分がわたしを責める。こんな自分を、彼は責めるだろうか、それとも励ましてくれるのか。どちらにせよ、わたしはますます自分が嫌いになりそう。 御幸くんの返事は、そのどちらでもなかった。 『あ、ごめん聞いてなかった。なに?』 がくんと肩が落ちる。すごく緊張した時間だったのにと、ほっとするやらガッカリするやら、何とも言えない感覚を味わった。 スマホから、御幸くんの笑った声が聞こえる。 『――――俺はさ、自分のやりたいようにやってるだけだよ』 「え?」 『俺が日景さんと勉強したいと思ったから声をかけたし、電話番号も教えた。誰かのためとかじゃないよ。俺がしたいようにする。もちろん誰かの迷惑になるようならやめるけど、俺の行動原理はあくまで俺だよ。だからさ』 一旦言葉を切り、御幸くんは言った。 『だから、お礼を言うのは、俺の方だよ』 「……えっ」 言葉の意味をすぐには理解できなかった。徐々にわかってくると、顔が赤く染まっていくのがわかる。電話越しで良かった、と思う。 「……もしかして、実はちゃんと聞こえてた?」 『さてね』 ぺろっと舌を出した御幸くんを想像し、くすっと自然な笑みがこぼれた。 ちゃんと、言わないとダメだ。御幸くんに汲み取ってもらうだけじゃなく、ちゃんと自分で言葉にしよう。 「わたしこそ、ありがとう。嬉しい」 『どういたしましてお姫様。なんてね』 なんて答えていいかわからず黙ると、滑ったことを悟ったか、御幸くんは焦ったように『そ、そろそろ勉強しようかっ! ねっ!』と続けた。 改めて勉強の準備をしながら、思う。 この人は、まっすぐな人なのだと。自分のやりたいことに。誰かに対し。好きなものも嫌いなものも認めて、きちんと分けて考えられる人。だから、皆が彼を好きになる。 わたしも、彼のようになりたい。 自分の気持ちに、まっすぐに。 『日景さん、そろそろいいかな』 「あっ、ごめん、ちょっと待って。片手だから、その」 考え事をしていたため、手が止まっていた。あわてて準備を再開するが、片手では上手くいかず、机に置いた筆箱が落ちて散らばってしまった。 『スマホをスピーカーにすればいいよ。俺もそうしてるし』 「すぴーかー? どういうこと?」 『…………え』 「…………え?」 その後、スピーカー機能に切り替えるのに手間取り、通話を三回も切ってしまったため、勉強を始めるころには午後九時近くになっていた。 土曜日だというのに、制服に袖を通す。 いつもはほとんど気にしない前髪を鏡の前でいじり、大して変わらなかったことに落胆してため息をこぼす。ちらりとカレンダーに目をやり、今日の日付の赤丸を確かめると、ごくんと唾を飲み込んだ。 今日は御幸くんの所属するバレーボール部が練習試合をする日なのだが、ぜひ応援に来てほしいと誘われたのだった。 もし時間があればという前置きつきだったが、わたしに休日の用事などあるはずもなし、という残念な事情のため行くことが決まった。 とはいえ日ごろの感謝も込めて、応援したい気持ちに偽りはない。もちろん、休みの日にも御幸くんに会えるのは嬉しい限りである。 勇気をつけるため、わたしは太いマジックペンをとり、左手にすっと線を引く。手の皺をものともせず、真っ直ぐに。 御幸くんが褒めてくれた、まっすぐな線。 彼のような、まっすぐな線。 わたしも彼のように。この直線のように、まっすぐに。 よしと覚悟を決めて、わたしは部屋を出た。 「あんれまあ、どうしたんの? 今日は土曜日やよ」 「友達と会うの。お昼もいらないから」 休日に制服を着てきた娘に呆れた母へそう言い返すと、彼女は手に持っていた卵を取り落とした。 「……そうやんの、とうとうあんたも男ん子とデートとする歳んなったんやねえ」 訛り丸出しでしみじみ呟く母に、「そ、そんなんじゃないんよ!」と慌てて言い返し、普段はテレビ欄しか見ない新聞で顔を隠す。 お、応援に行くだけだし! デートとか、違うし! 心の中でそう言い訳し、出された朝食を手早く済ませ、玄関へと向かう。 下へ降りるためのエレベーターを待つ間、わたしは何となく左手に引いた線を見つめる。 そしてぐっと握りしめ、大股にエレベーターへと乗り込んだ。 昇降口で上履きに履き替えてから、体育館へと向かう。土曜日だから誰もいなくて静かな学校をイメージしていたけど、むしろ運動部のかけ声が響いていつもよりうるさいくらいだった。 試合が始まる時間とか、受付とか、そういう手順とかまったく聞いてないのだけど、勝手に入って大丈夫なのかな? おっかなビックリ扉に取り付き、そっと中を覗き込む。 ボールが凄い勢いで目の前を通り過ぎて行った。 「――――おひゃん!?」 驚きのあまり尻餅をついたわたしは、テディベアみたいた体勢で座り込んでしまった。目だけがボールを追いかけ、フェンスに跳ね返ったボールに止まる。体育館からは、「どこに打ってんだバカヤロー!」「ウルセー力んだだけだ!」と罵声が漏れ聞こえる。 や、やっぱり帰った方がいいのかな? そんな思いに駆られると、ぶつぶつ言いながら選手らしき男子が出て来た。 「あっ」 「おっ?」 テディベアのまま見上げる。試合前だからか、ビブスを着た御幸くんはわたしを見つけると、「おーっ!」と見るからに喜んだ。 「日景さん来てくれたんだ! ありがとう!」 「え、あ、うん、あの」 上手く答えられないまま、差し出された手を掴んで立たせてもらう。今日は手を洗わないでおこうかな、なんて思考がよぎったわたしは割と重傷かもしれない。 「で、でも、どうしたら」 「普通に入って、ステージ横の階段からギャラリーに上がってもらえればいいよ。あ、校舎側ね、反対側は相手校の荷物置き場になってるから」 「う、うん、わかった」 御幸くんはボールを拾うと、ニッと笑いかけてから体育館に戻っていく。 よしと心を決めて体育館に踏み込む。体育の授業か全校集会くらいでしか用がない体育館はやっぱり迷いそうになったが、坊主頭の親切な男子生徒に上がり方を教えてもらい、どうにかギャラリーまで行くことができたのだが。 「……げっ」 「あ?」 思わず口をついた声に、金髪気味の茶髪女子が眉をひそめてこちらを振り返った。見るだけで身がすくむ程度にはトラウマを植え付けられた、夕凪さんである。 「あ、アンタ! なんでここに」 取り巻きの小さい方がわたしを指さす。 夕凪さんは大きくため息を吐くと、詰め寄ろうとした太い方を制した。 「アンタたちはここにいな。来るんじゃないよ」 有無を言わさぬ語調で釘を刺し、取り巻き二人の若干引きつった顔がこくんと頷く。 彼女はポケットに手を突っ込んだままわたしに近づくと、「ちょっとトイレ行かない?」と誘う。形は疑問形だったが、否と言えるような雰囲気ではなかった。 せっかく上った階段を下りると、コートでは両校の選手が一列に並び、礼と共にコートに入っていく。これから試合が始まるのだろう。 御幸くんの振り返らない背中から目を逸らし、すたすたと歩く夕凪さんについていく。行き先はトイレではなく、体育館裏だった。 「三対一じゃフェアじゃないから」 夕凪さんがぼそりと呟く。え、と聞き返す間もなく、彼女は語気を強めた。 「前に言ったよね。これ以上御幸くんに近づくなって」 「……う、うん」 「じゃあ何で来た」 呆れたように、しかし静かな怒りを滲ませた夕凪さんに、視線を逸らしてしまう。 「何でって……応援に来てって頼まれて」 「どうやって」 ビクッと背筋が震える。教室では最近ほとんど御幸くんと接点を持てていないのは彼女も知っている。自分の知らないところで連絡手段があるというのは、確かに面白くないだろう。 本当のことを話せば御幸くんにも迷惑がかかるかもしれない。ぐっと口をつぐむのと、「ああ、それはいいや」と夕凪さんが頭を押さえたのはほぼ同時だった。 「どうせ原因は私だろうし。聞かないよ」 意外な言葉に、思わず彼女の顔をまじまじと見てしまう。一つ大きく息を吐いた夕凪さんは、ギロリと貫くような視線をわたしに向けた。 「これが最後だ。もう言わない。これ以上御幸くんに近づくな」 「どうして――――」 ドン! と夕凪さんが壁を突き、返答を遮られる。 「メーワクなんだよ! 私にとっても、御幸にとっても!」 怖い人だとは思っていたが、本当に怒った表情を見るのは初めてだった。萎縮した喉は震えるばかりで、声にならない。 「あいつはバカだから、困った他人がいれば立ち止まる! そいつがノロかったら歩幅合わせて一緒に歩く、そういうバカだ! だからアンタみたいのが近くにいたら、あいつは先に進めなくなる! お荷物なんだよ!」 「そんな、こと……」 ない、と言い切れるだろうか。 確かに勉強を教え合い、ノートを見せ合ってきた。助けられながらも少しは助けになっていられると思ってきた。でも、別に私でなければならない理由があったのだろうか。 御幸くんには友達がいっぱいいる。頭の良い人、教えるのが上手い人もいるだろう。その中から、あえてわたしを選ぶ理由なんてあるのか。 わたしが困っていたから。困っている人がいたら呼吸をするように助ける。ひょっとしたら助けようという意識すらないのかもしれない。もっと良い勉強法がある中で、非効率なわたしとの勉強を強いてしまったのではないか。 自責の思いが脳裏を駆け巡る。ふと顔を上げれば、わたしと同じように、歯を食いしばる夕凪さんが血を吐くように呟いた。 「……私たちは、あいつの近くにいちゃいけないんだよ」 「自分もそう思ってるんですか?」 私たち、という言葉に反応して気づけば口から出ていた。慌てて両手で塞ぐが、烈火のごとく怒りを燃やす夕凪さんは、有無を言わさず胸倉をつかみ上げた。 「アンタに何がわかる!」 「ごめ、ごめんなさいっ……」 反射的に謝罪すると、乱暴に振りほどかれた。勢い余って地べたに倒れ込むと、「これで本当に最後だから」とぞっとするほど冷たい声が降ってくる。 「ノートなら私が見せてやる。なんならわからないところを私が教えてやってもいい。だから、御幸にだけは近づくな」 そう言い残して、彼女は背を向ける。 「……どうして、アンタなんかが」 角を曲がって見えなくなる寸前、そんな呟く声が聞こえた。自嘲気味に、どうしてだろうね、と口の中で答える。 完全に一人になったところで、ゆっくりと立ち上がる。小さな痛みに顔を顰めると、膝から血が出ていた。 「あっ、あー、っと。えーと、日景さん、ここにいたんだ」 急に名前を呼ばれ、ビクリと肩を震わせると、先ほどギャラリーへと案内してくれた坊主頭の男子生徒が立っていた。わたしや御幸くんよりもずっと背が高く、どうやらバレーボール部の選手らしい。 「なんか変な感じで出て行くの見えたから、気になったんだけど。……ちょっと、来るの遅かったかな」 申し訳なさそうに詫びる坊主頭に、「いえ……」とだけ答える。 「俺が言うのもなんだけど、あんまり夕凪に関わらない方が良いよ」 別に関わりたくて関わっているわけじゃない、なんて言い返す元気もなく、黙って話を聞いていた。 「俺、あいつと御幸とは中学同じだったからよく知ってるけど、高校入ってからのあいつは御幸のことに関してはガチだもん。付き合ってるわけじゃないらしいけど」 「……うん」 俯かせた顔を上げられない。 何か躊躇うような間の後、男子生徒がぽつりぽつりと話してくれた。 「……詳しいことはわからないけどさ、あいつが原因で大会前に御幸に怪我させたんだってさ。まあ悪気があってのことじゃなく、危ないとこを御幸が助けてそのときにって話だけど、まあ複雑な感情があるんじゃないですかね、わかんないけど」 わかる、気がする。 御幸くんに助けてもらって、そのせいで怪我して大事な大会に出られなくしてしまう。御幸くんのことだから一言も責めることなく、夕凪さんの無事を喜んだことだろう。わたしだったら耐えられない。散々に怒鳴られた方がどれだけ救われるだろうか。 昨日今日仲良くなったわたしとは、時間も重みも違うんだ。 ずしんと体が重くなるのを感じる。やっぱり、来るんじゃなかったのかな。 ずず、と鼻をすすると、膝の痛みが徐々に大きくなる。 「っと、膝から血が出てるよ。保健室行こうか? 付き添いくらいならできるけど、俺今日は出番ないだろうし」 あっち、と校舎の方を指さす男子生徒に、わたしは言葉を詰まらせる。 保健室に行って治療して、言われた通りに帰る。そしたらわたしは、休みの日に学校まで一体何をしに来たのだろう。バカみたいだ。笑うこともできない。 でも、だからといって体育館に戻る勇気もない。もう一度夕凪さんと相対して、堂々と言い返すことができるだろうか。できない。結論がでるのは自分でもびっくりするくらい早かった。 言いたいことも言い返せない、本当に自分が嫌になる。 何でこんなわたしを気にかけてくれたんだろう。彼女に言われるまでもない、わたしだって不思議だ。 …………なんでだっけ。 思い出そうと左手で頭を押さえようとして、ふと視界に入った。 手相も皺も貫いて、黒ペンで書かれた一本の直線。 少しもぶれることなく、傾くこともない。御幸くんが褒めてくれた、線。 ――――そうだ。わたしを気にかけてくれた理由。 すっかり忘れていたことを、思い出した。 ――――それは、わたしが書いた線がまっすぐだったから。 なんて軽い理由だろう。自分でも気づかないうちに、口元に笑みが浮かんでいた。しょうもないと、おかしくなったのだ。 御幸くんは、いつでもまっすぐだった。こうと決めたら一直線。迷うとか、躊躇うということがない。自分の決めた道を、まっすぐに突き進む。 そんな姿に、憧れたのだ。 わたしも、御幸くんみたいにまっすぐに生きたい。 夕凪さんもまた、まっすぐな人なんだと思う。彼への思いにまっすぐで、邪魔者がいれば排除する。彼のためと思えば手段を選ばない、少し歪んだまっすぐ。 何となく彼女が理解できた気になると、ふっと肩が軽くなった気がした。左手に自分で書いた直線を、ぐっと握りしめる。彼みたいな、彼が褒めてくれた、まっすぐな線。 決意したはずじゃないか。わたしも、まっすぐに生きたいと。 覚悟を決めて前を向く。自然と背筋も伸びた。心なしか、いつもより景色が広い気がする。 「……保健室、どうする?」 ずっと待っていてくれた男子生徒に、わたしは首を横に振った。 「大丈夫。ありがとう」 小さく微笑んで、お礼を言う。「え、う、あ、うん」と何故だか少し顔を赤らめた坊主頭の傍を通り抜けて、体育館へと足を踏み出した。 夕凪さんのいる反対のギャラリーに行くことも考えたが、何だか逃げるみたいに思えたので、堂々と彼女のいる方へと向かった。 幸い、夕凪舞は試合に夢中で気づいていない。願わくばこのままずっと気づかないで、と心の奥底で願ってみたが、やはりそう上手くはいかなかった。 「ん? あっ、あれ」 取り巻きの太い方が、こちらを指さして言った。胡乱気に振り返った夕凪さんの表情に驚きが広がり、ついで怒りに赤くなる。 来る、と全身が硬直し、夕凪さんがこちらへ踏み出した、そのときだった。 相手チームのスパイクがブロックを直撃、大きく上に弾んだボールがコートの外へと飛んでいく。ワンタッチしたボールだから、落ちれば相手の得点になる。拾わなければいけないのだが、ちょっと追いつけそうにない距離だった。 そんなボール目がけて、御幸くんは走る。 落下地点に向かって、まっすぐに。ひょっとしたら届かないかもしれない、なんて少しも思ってない走り方で。 本当にまっすぐな人だな、と思う。 そんな彼に憧れて、だから今日ここに来たのだ。 夕凪さんに言われたことなど関係ない。御幸くんに少しでも恩返ししたいっていうのも、多分あんまり関係ない。 もっとシンプルで、まっすぐな思いがある。 思いっっっきり息を吸って、空気を肺に溜めた。 わたしが来た理由なんて、たった一つ。 ――――御幸くんを応援したいから、するんだ! 「――――がんばれっ! 御幸くんっ!」 人生で一番かもしれない、という大声で叫んだ。 勢いのあまり閉じてしまった目を、ゆっくりと開ける。 目の前に、ボールがあった。 手を伸ばせば届きそうな距離あったボールは、重力に引かれてゆっくりと下へと落ちていく。そのボールをチームメイトがコートへ戻すと、最後は相手コートへと送り返した。 得点を確信してハイタッチを交わしていた相手チームは反応が遅れ、リズムの乱れた攻撃を今度こそブロックで叩き落とし、得点をもぎ取る。点を取った人以上に、ファインプレイでボールを拾った御幸くんが荒い祝福を受けていた。 本当に拾ってしまったんだ。すごい、と安直な感想しか出てこない自分を嘆いていると、いつの間にか御幸くんがこちらを見ていた。 そしてニッと笑みを作ると、わたしに向かって親指を立てた。どうやらわたしの声は、ちゃんと届いていたらしい。 きゅうと胸を締め付けられるようなよくわからない嬉しさに身を悶えさせると、舌打ちと共に足音が近づいてくるのがわかった。 「おい、なんで戻ってきた」 ドスのきいた声が迫る。反射的に背筋が丸くなる。 でも、もう負けない。 両手でがっちりと手すりをつかみ、両足を開いて踏ん張る。意地でもここから動かないぞ、という意志を込めて、まっすぐに夕凪さんを睨み返した。 ぐっと歯を食いしばって、苦虫を噛み潰したような表情の夕凪さんと睨み合う。 アイシャドウの奥の怒りに満ちた目。本当の本気で怒っている人の目だ。うっかり石化してしまいそうな迫力に、思わず目を逸らしてしまいそうになる。 でも、と奥歯を噛みしめて、見つめ返す。 視線をぶつけ合って数十秒、あるいはほんの数秒だったのかもしれない。まばたきを忘れた目が乾き始めた頃、先に目を逸らしたのは夕凪さんだった。流石に人の目もある中ではさっきのような物理攻撃もできないのだろう。舌打ちを残し、再び取り巻きのところへと引き返した。 関節が固まるくらい力んでいた全身からそっと力を抜く。大きく息を吐くと、改めてコートへと視線を落とした。 ちょうど相手チームからサーブが放たれ、御幸くんが綺麗にレシーブを上げる。 「がんばれー!」 応援の仕方とかはよくわからないけど、わたしなりに精いっぱいの声援を送る。 御幸くんに、自分自身に。 決して恥じることのない、まっすぐな自分になると決めたから。 |
燕小太郎 2016年12月31日 22時13分55秒 公開 ■この作品の著作権は 燕小太郎 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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