ルピア湖畔の巫女 ~ヴェレダの歌~

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●起

 そればかりか、ゲルマニアの者は、女には神聖で予言者的なあるものが内在すると考える。(中略)。我々は大ウェスパシアヌス帝の治世当時、ゲルマニアの多くの者たちから長い間、神のごとく崇められた【巫女】のことを知っている。

                                   タキトゥス『ゲルマニア』より



「ルピア川? そったら名前の川なんて無いぞ」
 訛りの強い声で地元の男に言われて、プブリウスは思わず息をのんだ。目的の場所はルピア川の畔にあると聞いていたので、まずは川を目指していたのだ。
「お、おかしいなあ。川の畔に塔があって、そこに住んでいると俺は聞いたんだけど」
「塔だと? おい兄ちゃん、聖なる巫女の塔のことか? 一年に一回の儀式を観に行くのか?」
 ゲルマニアの地が広いといえども、塔が幾つも存在するとは思えない。緩く縮れている短めの灰色の髪を軽く手で整えながらプブリウスは肯定した。
「なんだよリッペ川のことだったんか。ルピア川なんて言うから分からなかったぞ。リッペ川は真っ直ぐ北に行けばすぐだ。でも塔があるのはもっと東の上流にある湖沼地帯だぞ。ここからだったら、まだかなり距離がある」
 学の広いプブリウスではあるが、リッペ川という名前を聞いたことは無かった。リッペとルピア、この近辺の方言による差異か。
「それはそうと、一年に一回の儀式って何ですか? 民会じゃないんですか?」
 単純な疑問を口に出した。が、それを聞いて、地元の者がプブリウスを見る目が厳しい色を帯びた。
「あんた、儀式を見に来たんじゃないなら、この時期にわざわざ何をしに来たんだ? そもそもどこの部族の者だ? まさか、ローマ人じゃないだろうな?」
 ローマ人は辺境であるゲルマニアの民を蛮族と見下している。そのせいもあってであろう、対ローマ叛乱を起こしたゲルマニアの者たちは、ローマ人に対して強烈な敵愾心を抱いている。
「お、俺はバタウィー族のゲルマニア人ですよ。槍だって、ローマの折れ曲がり易い槍じゃなくて、ちゃんとしたフラメアです。コロニエ・アグリッピナから来たんですよ」
 プブリウスがバタウィー族の者というのは嘘だが、葡萄畑に囲まれたコロニエ・アグリッピナ出身であり幼少時はそこで育ったのは事実だった。
 槍と短剣を持ち、服装に関してはゲルマニア人が着るようなものを用いているが、短い髪の色は地毛の灰色のままだ。ゲルマニア人は長い金髪が多いので、その部分では怪しまれてしまう可能性は高い。だが、他の要素に関しては、プブリウスの高く筋の通った鼻梁、知性を宿した鈍い空色の目は、ローマ人といってもゲルマニア人といっても通じる容姿だ。まだ二〇代前半の若さの青年であるため、髭があまり伸びてこないが、今は少し無精髭がある。
「……コロニエ? ケョルンのことか?」
 ケョルンという言い方も、プブリウスにとっては初耳だった。しかも発音しにくそうな言い方だ。
「ケョルンっていうのは、元々ウビイー族の小村だったのを、ローマが勝手に名前を変更して植民市だとか属州だとか言い張って街を建設しているんじゃなかったか? それにバタウィー族は、ゲルマニアの中でもローマに服従している部族じゃないか」
「確かにかつてはバタウィー族はローマに服属していましたが、今は違うじゃないですか。ローマ帝国のネロ皇帝が亡くなって以降叛乱軍を率いているキウィリス将領だって、ゲルマニアで最も武勇に優れたバタウィー族出身だからこそ、ブルクテリ族とか多数の部族の協力を得ているんじゃないですか」
 建国以来八〇〇年の歴史を持つとされるローマは、この時期には地中海沿岸一帯を広く支配する史上空前の巨大帝国にまで育っていた。しかし絢爛たる繁栄は、成熟の果ての頽廃への序章でもあった。
 暴君として名高かったネロ皇帝が死んで、ローマ帝国は陰謀と野心が顕在化し、簒奪と権力闘争の内訌により麻のように乱れた。
 その隙を利用する形で、ローマに反感を抱いていたゲルマニアの諸部族が糾合して叛乱を起こした。
 今、諸部族を纏め上げて対ローマ叛乱を主導しているのは、バタウィー族出身のキウィリス将領と、ブルクテリ族出身の巫女であると言われている。
「しかし、あんたの言葉は訛りがきついじゃないか。ローマ人が使うラテン語混じりなんじゃないのか?」
 訛っているのは蛮族のそっちだろう、と言いたいところだったが、プブリウスは賢明にその発言を控えた。
「ローマの属州出身なので、訛りがあるのは仕方ないんですよ。ゲルマニアの言葉とラテン語が変な風に混ざっちゃって」
 この言い訳は嘘ではないが、これ以上会話を続けていては綻びが出てしまいそうで危険だ。プブリウスは地元民に軽くお礼を言って、逃げ込むようにして森を北へ向かった。
 この辺一帯に広がっている森は、かの名高きトイトブルクの森であるはずだ。約七〇年前にゲルマニア諸部族相手にローマが大敗してしまった戦いがあった。ローマは昔から、ゲルマニア相手にはなかなか手を焼いている。
 ローマは最近、ゲルマニアのキウィリス将領に手痛い敗北を喫した。キウィリスはかつて、二〇年以上、ローマ軍に従属していたことがあるので、ローマ軍の長所も短所も知悉している。だがその後はローマ軍が地力の差で盛り返していて、キウィリスを追い詰めつつある。
 ローマ軍勝利の栄光を確実にするには、ゲルマニア諸部族のもう一つの求心力となっている巫女と交渉し、和平への道を作らなければならない。それが不可能な最悪の場合は……巫女を排除しなければならない。
 ローマ帝国第十四軍団ケリアリス司令官からの伝言を、プブリウスは心の中だけで復唱して前進を再開した。
 ほぼ獣道に近い草の深い道を虫刺されに苦労しながら進み、ほどなく川には到達できたが。
「なんなんだこの小舟の数は?」
 辺境のトイトブルクの森の中である。往来する者は多くない。せいぜいたまにアエスティーの琥珀を取引する北方の行商人やヒスパニアの吝嗇な冒険商人が行き交ったり狩人を見かけたりするくらいだろうと思っていた。
 ルピア川では、何艘もの小舟が流れを遡って東に向かっていた。
 一時の驚きから落ち着いて思考整理すると、これらの小舟は、一年に一度の儀式を見るために聖なる巫女の塔に向かっていると容易に想像がついた。トイトブルクの森の南寄りはブルクテリ族の勢力範囲だと事前に調査してある。ということは、かなり多数が集結する大規模な集会だ。
「なるほど。ブルクテリ族にとっては指導者である巫女の影響力は多大ということか。だから帝国は、というかケリアリス司令官やアグリコラ補佐は巫女を怖れて、和平か排除かの必要性を感じたわけか」
 大雑把に考えれば、諸々の役割には差があるようだがガリアにおけるドルイドの巫女と似たようなものかもしれない。
 大きな力を持った巫女の出現が、キウィリス将領の叛乱と同時期に発生したというのが、ローマにとっては問題の厄介度を高くしていた。
 森を抜けるのは苦労した。人の気配を感じることもあった。大抵は巫女の塔を目指しているゲルマニア人のようだった。プブリウスは身を潜めてやり過ごし、可能な限り接触を避けながら進んだ。
 いつしか木が疎らになって、小さな水溜まりや沼が幾つもある湿地帯に入ってきた。背の高い草が生い茂っているので人目につくことはないが、足下がぬかるんで不快だった。そしてようやく、ひときわ大きく水が居座っている場所に到達した。
「これがルピア湖か」
 幾つもある沼を大きくしたような感じで、特に景色を見ても感慨は無かった。現在プブリウスが立つ南岸から眺めると、湖面には幾つも小舟が浮かんでいるのが見える。
 塔は周囲には見あたらない。湖岸を移動して探すしかない。
 背の高い草が茂った湿地帯であり、湖だけではなく、池や沼のようなものや小さな水溜まりにいたるまで諸所に存在し、歩き難い場所だ。岩場や浅瀬を伝いながら数本の川を渡り前進を続けたが、泥濘に足をとられることも幾度かあり、苛立ちばかりが募った。
 視界が開けた時に一番最初にプブリウスの目に入ったものは、塔ではなかった。
「な、なんでこんな所に三段櫂船があるんだ?」
 湖には小舟が何艘も浮かんでいた。その中に混じって一艘だけ飛び抜けて巨大な、勇壮な軍船が浮かんでいる。
 その名の通り、船の舷側には縦に三段に並んだ層があり、そこから長い楡製の櫂が列をなして飛び出ている船だ。今は帆は張られていないものの、高い二本の帆柱もある。もちろん水面下に隠れているが、船首には敵の船底に穴を空けるための鋭い衝角も付いているはずだ。
 三段櫂船は多数建造されており、地中海を縦横無尽に駆け回って沿岸地帯を征服し、ローマ帝国の威光を広く敷衍させてきた主力戦艦である。プブリウスもまた、地元のナルボンヌスの港で、この型の船を幾度も見たことがある。
 ゲルマニアの蛮族に、斯様に大きく立派な三段櫂船を製造するような技術は無いはずだ。ゲルマニアも、ローマから拿捕した船を参考にして建造したと思われる二段櫂船なら幾つも持っていて、かなり大規模な艦隊も有している。だが、目の前にある三段櫂船はゲルマニア自前のものではなく、ローマから拿捕した船であることは間違いないだろう。
 海からレーヌス川を遡り、途中で支流のルピア川に入り込み、ここまで曳航して運んできたのだ。
 水量の豊富なルピア川といえども、急激に曲がりくねった難所や、浅瀬や急湍も途中にあるはずだ。優秀な測鉛手が必要な危険箇所をどう乗り越えてこの上流にまで到達できたというのか。
 目を陸地に転じてみると、湖岸からは随分と距離が開いてはいるが、噂の塔と思われる物が見えた。塔の周囲は森だったようだが、木が伐採されていて人が多く居る広場になっている。
 塔が近づくにつれ、その姿が明確になってきた。煉瓦も切石も使わず質素な住居しか造らないゲルマニアでは塔のような背の高い建物はあり得ないと思っていたが、創意工夫を凝らした例外が目前に屹立していた。
 オークの木だろうか。森に立ち並んでいる他の木よりも明らかに太くて高い一本の木の上に住居を造った、というのが原型だろう。そのオークの巨木を柱の一本として、他に丸太の柱を数本立てて、その間に板を張って壁とした感じだ。オークの巨木から突き出ている幾本もの太い枝を梁として活用して、塔の階層としているようだ。上に行くに従って塔は少しずつ細くなっていって、最上階の部屋では人一人が寝起きするほぼ最低限の広さしかないと思われる。梁として使われている以外の枝は、下の方は刈り払われている。
 そこに、巫女が住んでいるのだ。
 塔の周囲では、何人もの大柄な男達が、ここが戦場であるかのような武装をして巡回している。巫女の親族の男たちだろう。巫女に対しては親族の者しか面会を許されていないということだ。
 塔の警護の者たちから少し距離を置いて、広場には幾つもの人の塊ができていた。
 恐らくは、最初はブルクテリ族の民会だったのだ。しかし、巫女の神聖な力が噂となってゲルマニア全土に広まり、各地から手の空いている者が押しかけてくるようになったのだろう。
 森と沼地と荒れ地ばかりのゲルマニアに、こんなにも多数の人間が住んでいたのかと驚くほどだ。剣や短剣など武器を持った壮年の男が多いが、稀に女もいるし、子どももいるし、年老いた者も来ている。プブリウスも人混みに紛れ込んだ。
 ゲルマニアの中で最も優れた巫女が、一年に一度、唯一、人々の前に姿を現す日。人の数は更に増えている。しかしそれでも、塔の近辺には誰も入り込まず、空白地帯を保っている。己の欲望に忠実な蛮族なのに、ここまで行儀良く並ぶだろうか、とプブリウスは軽く疑問に感じた。
 その時、人々の間から一斉に歓声がわき起こった。プブリウスの前の男も、右隣にいる初老の男も、塔の頂上を指さしている。
 高い塔の一番上、屋上に、長い黒髪で、袖無しの白いゆったりした衣装を纏った女が立っているのが見えた。女は、今年二二歳のプブリウスよりはやや若いだろう。恐らく二〇歳より少し前くらいだ。
 あれが、巫女か。
 過度に塔に近づく者が一人もいないはずである。巫女が屋上に登場するのなら、塔の真下にいたのでは、巫女の姿をよく見ることができない。
 儀式とはいうが、具体的にどのような行為を実施するのか。
 プブリウスは疑問を抱いたが、周囲の人に聞くわけにもいかない。「そんなことも知らんのか」と怪しまれてしまう。
 答えはすぐに出た。塔の屋上の巫女が、歌い始めたのだ。


狼煙のけむりが
さあ上がったいざ行け
セラトゥス銀貨を今、手に入れよう
雌牛よもっと仔牛を産めよ


 透明感のある高い若々しい声が、吹き抜ける緩い風を切り裂き広場に満ち満ちてゆく。狼の遠吠えや口笛が遠くにまで響き渡るように、巫女の歌声は広場全体にまで聞こえているようだ。
 楽器の伴奏など勿論無い。しかし巫女の歌には進軍ラッパの音にも負けない力強さがあった。
 最初は、その場に立ったまま歌っていた巫女だが、次第に自らの歌の世界に入り込んで忘我の境地になっていった。長い黒髪を振り乱して体を揺らし始めた。歌が進むにつれて、体の動きは優雅ながらも力強さと機敏さと切れのある舞いと呼ぶに相応しいものになっていった。それはあたかも、木の枝にとまって囀っていた小鳥が、風をとらえて翼を広げて大空に飛び立ちながら高らかに歌う様子にも似ていた。巫女が回ると、白い衣装の裾も可憐に広がった。


麦は実りこうべ垂れる
あしたはルーネン文字ささやくのだ
大地と森と耕地はなお余ってる
神よ
神よ


 あるいは、狼か狐の神にでも憑依されているのか。巫女の情熱は、集結しているゲルマニアの民に伝わっていた。人々は腕を天に向かって突き上げ、前後左右の人とぶつかり合いながらも体を揺らし、首を前後や横に振って、細い短い鉄の刃が付いた手槍フラメアを打ち鳴らし巫女の歌と踊りに同調していた。
 聴衆の中に混じっているプブリウスは、多くの人を動かす歌の力と魅力に圧倒されるばかりだった。あまりの歌声の美しさに酔ってしまい、群衆の動きに同調する形ではあったものの、プブリウスもまた首を前後に振りながら、巫女の歌に聴き惚れて時間の経過を忘れた。



●承

「多くの禍をゲルマニアにもたらした戦争の不運を、ローマ国民への時宜を得た奉仕で変えたらどうか? (中略)。もしこれ以上まだ何かを画策するのなら、ゲルマニア側に不正と罪が、ローマ側には懲罰と神々の味方があろう」

                                    タキトゥス『同時代史』より



 夢見心地の儀式であった。
 ゲルマニアの民たちは儀式を見て満足して、それぞれ故地に帰って行く。地元ブルクテリ族の者も、巫女の塔の近辺に居を構えている訳ではなく、トイトブルクの森の内外に広く散在しているので、それぞれ帰路につく。
 いつしか夕方になって空は橙色に染まっていた。カラスの鳴き声も聞こえてくる。
 広場に残っている人は随分少なくなった。塔を見上げても既に巫女はいなかった。寂寥の夕焼けの幻であったかのようだ。
 とにかく、巫女の偉大さはよく思い知った。どのようにして和平に合意させるか。それが無理なら排除するか、だ。
 広場に集まっていた群衆が散っていっても、塔の周辺では相変わらず巫女の近親者が重武装で巡回警備を継続している。薄暮の時間帯は、いよいよ夜に近づこうとしていた。その時だった。広場に残っていた男の一人が、歩いて塔に接近して行った。まるで自宅に帰るかのような自然な動作で扉に手をかけたが、その瞬間に警護の男三人に取り囲まれた。
「何者だ?」
「い、いえ、ちょっと、巫女にお会いしたいと思いまして」
「巫女様への面会は、親族以外は禁止されている。巫女様に対して不埒な行動に及ぼうとする不審者め」
「いえ、決してそんなつもりは。あっいててて、離してください」
「詰め所の拷問具の方がもっと痛いぞ」
 不審者の男は、大柄な隻眼の警備兵に連行されて森の中へ消えた。無論、その間も塔の警護が疎かになることはない。他の者がしっかりと周囲を巡回して目を光らせている。離れた場所からプブリウスは一部始終を見ていた。
「やっぱり潜入は難しそうだ」
 こっそりとプブリウスはその場を去った。先ほど、警備兵たちが向かったのとは別の方角に行く。相変わらず道らしき道も無い深い森だ。
「となると、会って和平交渉は無理だな。じゃあ、殺す方向で考えるか。巫女の食べ物に毒を入れるか」
 毒ならば、水松(イチイ)の木の樹液が良い。どこにでも生えているありふれた木だ。だが、塔の中の巫女に食べ物を運ぶのは当然近親者だけだ。どうやって混ぜるか。毒味で発覚する可能性もある。
 辺りはすっかり暗くなっていた。この近辺は木々が特に深く生い茂って暗がりが濃いような気がする。木の根に躓きながら歩くプブリウスは、軽く身震いした。寒さというよりは、光の一切届かないような闇に原初的な恐怖のようなものを感じていた。まるで、虐殺が行われた戦場の鬼哭啾々たる様子にも近いとも思える。
 足下が明確に見えない中で、太い枯枝を蹴飛ばしてしまったようで、乾いた軽い音がした。暗闇に目が慣れているはずだが、それでも暗さが勝って歩きにくい。背負い袋の中の火口箱と小さめの松明を使おうかと思い始めた頃、不意に森が途切れて開けた場所に出た。
 森の中にいる時は気づかなかったが、東の空に満月が出ていた。ゲルマニアでは民会は満月か新月の時に行うのだという。
 僅かに紅さを帯びた月光に照らされているのは、静かな水を湛えた泉だった。泉では、一人の女が水浴びをしている最中だった。長い黒髪が白い肌に映える、細身の若い女だ。プブリウスの方に背を向けているので、見られていることには気づいていない様子だ。
 ゲルマニア人は、ローマ人が羨むような美しい金髪の者が多い。黒髪はむしろ珍しい方だが、あの長い艶やかな黒髪には見覚えがあった。
 巫女だ。いつの間に塔を出て、こんな所まで来たのか。
 まさに女神の降臨だ。
 月の光に照らされた巫女の肌は、暗い夜闇の中でも瑞々しく輝いていた。黒髪は長く、背中のなだらかな曲線を彩っている。尻は若鹿のように活力に満ちていて引き締まり、太腿は雲間から降り注ぐ太陽光線のごとくに清らかさを凝縮した白さだった。
「何者ですか」
 ゲルマニアの言葉での鋭い誰何の声を発して、巫女はプブリウスの方に振り向いた。気配を察知されたのだ。
 月光の下、プブリウスの姿を認めた巫女は、麗しい裸身を隠そうともせずに、プブリウスに対して真っ正面に向き直った。そして先ほどよりは幾分落ち着いた声で言葉を発した。
「何者ですか」
 今度は流暢な発音のラテン語だった。ゲルマニアの者は無知でもなければ蒙昧でもないという事実を改めて実感したプブリウスは、自分の拙いゲルマニアの言葉で会話するよりは、ラテン語で話した方が良さそうだと判断した。
「俺はプブリウスといいます。お察しの通り、ローマ帝国の者ですが、なぜ俺がローマ人であると分かったのですか」
「わたくしのことはヴェレダとお呼びください。この泉の周辺は、罪人を神への生贄として捧げる禁忌の場所です。わたくし以外のゲルマニアの民は、この泉に近寄ることはありません」
 ここまで来る途中で感じた不気味さや怖気は、そういうものを肌で感じたからだろう。乾いた木の枝を蹴飛ばしてしまったが、骨だったのかもしれない。
「じゃあヴェレダは、この泉に一人で来たのですか。こんな夜中に、護衛も無しで」
「わたくしが住んでいる塔を支えているオークの大木は、幹が中空になっていて、そこから秘密の地下道へ通じているのです。地下道は、そこの大きな岩に空いている小さな洞窟へと通じています。塔の最上階の部屋に住んでいる巫女しか知らないことです。ですからこうして、一人でこっそりと水浴びをしに来ることができるのです」
 プブリウスが言われた方を見てみると、月光に照らされた岩肌の中に、より深い闇が蟠っている場所があった。
 つまり、今は近辺に巫女の親族の護衛はいない。プブリウスと一対一で向き合っている。相手の巫女は全裸で丸腰だ。殺すとすれば絶好の機会だ。
 本来ならば喜ぶべき千載一遇のこの状況。だけれどもプブリウスは逡巡した。
 殺すのは簡単だ。だが、本当に殺さなければならないのだろうか。
 ヴェレダがゲルマニアの者たちに熱狂的に崇拝されていることは実際に目の当たりにして実感した。だが実際にゲルマニアの諸部族を糾合して軍事力を発揮しているのはキウィリス将領だ。ヴェレダはあくまでも心の支えだ。単にヴェレダを殺しただけではゲルマニアの叛乱軍は弱体化しない。それどころか却って、神聖で崇高な巫女を殺されたという怒りと恨みで一致団結して手強くなってしまう危険もある。
 堰き止めた川のように、思考が詰まってしまっていたが、そこで思い出した。
 最初に戻り、ヴェレダと話し合って和平に持ち込む、という選択肢がある。
 しかし熟慮の迷宮を脱出する前に、ヴェレダが先に言葉を発した。
「ここでローマ人と出会ったのも何かの運命でしょう。プブリウス、あなたにお願いがあります。このわたくしを……殺してください」
 巫女の影響力を殺すために、プブリウスは港町ナルボンヌスから森を通って苦労しながらもここまで来たのだ。だが、相手の方から殺してくださいと言われることは想定外だった。
「あなたはドルイドの巫女じゃないんですか? ドルイドが命を粗末にするようなことをするのは禁忌なのではないですか?」
「確かにわたくしのような役割の者が、ガリアの地あたりではドルイドと呼ばれていることは知っています。わたくしもまた、自然を尊び、自然の恵みを受けて部族の繁栄のために民を導いて行くのが役割です」
 少し悲しげに目を伏せて、水面に映った満月を見下ろすようにしてヴェレダは溜息をついた。
「ゲルマニアでは、全ての女には程度の差はあっても神聖で未来を見通す不思議な力が内在している、と考えられています。部族の中で最も強い予知能力を持っている女が部族の巫女になります。しかしながら、大抵の場合は予言能力は単なる迷信に過ぎないのです」
 夜風に、全裸のヴェレダは幽かに震えた。
「ですが例外的に、本当に未来予知能力を持つ巫女も存在します。過去にはアウリーニアという巫女がいました。そしてわたくしにも、ささやかながら、本当に予知能力があるのです」
 ヴェレダは真っ直ぐにプブリウスの目を見つめた。プブリウスに異論を唱えることを許さぬ口調だった。
「去年、キウィリス将領がローマ軍に大勝すると儀式の時に予言しました。今年になって予言は成就しました。わたくしには、その時のローマ軍瓦解の様子があらかじめ見えていたのです。湖の三段櫂船は、その時の大勝で鹵獲した旗艦です」
「そんな……まさか」
 ゲルマニア軍がローマ軍に大勝すると予言して当たったとなると、尋常なことではない。ヴェレダの口調からすると、根拠無しに言ったことが偶然その通りになったのではなく、本当に巫女は異能力で未来を視たのだろう。
「かつての巫女アウリーニアの頃に、塔は建てられました。その頃から巫女は檻の中です。特にわたくしは幼少の頃より長く巫女を務めてきたことにより、ゲルマニアで最大級の力を持った偉大な巫女として祭り上げられてしまいました。秘密の地下道から抜け出して沐浴するくらいしか楽しみが無いのです」
 再び、ヴェレダの長い睫毛が悲しげに伏せられた。風に吹かれた雲が一瞬月を横切り、地上に刹那の陰を落とした。
「そして、先ほどの儀式で、わたくしは視てしまったのです……わたくし自身の未来を」
 プブリウスは固唾を呑んだ。月下のヴェレダの美しき裸身から目を離せないのと同時に、ヴェレダの語る内容からも心を離すことができない。
「どれくらい先の未来かは分かりませんが、わたくしは石の都にいました。石を使って大きな建物が幾つも造られている。恐らくはローマの都なのでしょう。どういう理由によるものかは不明ですが、わたくしはローマの都に行くことになるのです。状況から考えたら、ゲルマニア軍が負けて、わたくしがローマに捕縛されて連行された、と解釈すべきでしょう。その後のことまでは分かりませんでしたが、きっと、処刑されるのではないでしょうか」
 ヴェレダは鳩尾の前で両手を組み合わせた。小ぶりながらも形の整った二つの乳房が、少し震えているように見えた。
「そ、そういう未来を視たということを、ゲルマニアの人々にどう伝えたのですか?」
「いつもは、予言の内容は、わたくしが歌った歌詞の中に盛り込んであります。ただし、今回に関しては、正直に述べると混乱を引き起こして大変なことになりますので、無難に、来年は家畜がたくさん子を産み、麦は多くの穂を実らせる、といった本当に無難な予言にしておきました」
 無難という語を二度も繰り返して言った。
「わたくしは、塔の上に幽閉された身で、その上ローマの虜囚となる未来も視てしまいました。生きることに何の意味があるのか。ならば、ここでローマ人であるプブリウスと出会ったのも運命かと受け容れることもできます。わたくしを殺してください」
 単刀直入に、ヴェレダはプブリウスに懇願してきた。相変わらず、白い裸身を隠そうともしていない。
「今、俺がここでヴェレダを殺してしまったりしたら、ヴェレダがローマに連れて行かれるという未来はどうなるのですか?」
 ヴェレダは少し首を傾げて思案するような表情を見せた。
「それは、確かに仰る通り不自然なことになってしまいますね。ですが、わたくしの未来予知は、ゲルマニアの人々が信奉している程には大きな力ではないのです。わたくしが幼い頃の予言は、大筋では合っていたけど細部は微妙に異なっていた、などといったことがよくありました。小さな異能力でしかないのです」
 予言のことは気にする必要は無いだろう。ヴェレダを殺すか、殺さないか。和平か。プブリウス自身の意志が問題だ。
「殺す殺さないの前に、俺はヴェレダに、ケリアリス司令官からの伝言を言わなければならないのでした」
「司令官? 伝言?」
 一度呼吸を整えて背筋を伸ばして、プブリウスはケリアリス司令官の言葉を述べる。
「多くの禍をゲルマニアにもたらした戦争の不運を、ローマ国民への時宜を得た奉仕で変えたらどうか? トレウィリ族は殺され、ウビイー族は降参し、バタウィー族は祖国を奪われた。反逆者キウィリスとの友情から得られるものは、刀傷、逃亡生活、喪の悲しみ以外に何も無いのだ。ゲルマニア人は何度もレーヌス川を渡ってガリアに侵入するという、もう十分に間違いを犯した。もしこれ以上まだ何かを画策するのなら、ゲルマニア側に不正と罪が、ローマ側には懲罰と神々の味方があろう」
 ヴェレダは寂しげに目蓋を伏せるだけだった。その仕草は癖になっているのだ。
「それは、仮にわたくし一人が肯んじたとしても、部族の人たちは納得できないでしょう。現実にローマに敗れた部族ならばともかく、この辺りのブルクテリ族は士気も高いままです。わたくしがそのような一方的に不平等な和平に応じては、かえって混乱を招いてしまいます」
 やはり、説得は簡単ではなかった。
「わたくしを殺さないというのでしたら、ローマ帝国へお帰りください。わたくしは服を着て塔に戻らねばなりません」
 何も言えず、ヴェレダの全裸の姿を瞳に焼き付けただけでプブリウスは背を向けた。



●転

 キウィリスに対する人々の信頼が崩れると、バタウィー族の間でもこのような議論が起こった。
「破滅的な戦いをこれ以上続けるべきではない。軍団兵を殺し、焼き討ちをかけて何になったのか。ますます大勢の一層強力な軍団を呼び寄せたにすぎなかったではないか。(中略)。もし主人を選ぶなら、ブルクテリ族の女より、ローマの元首に耐える方がまだ潔い」
 これは大衆の意見であった。長老の考えはもっと過激であった。
「キウィリスの狂気のため、我々は無理矢理武器を取らされた」

                                    タキトゥス『同時代史』より



 事態は急転した。
 急ぎの使者が来て、巫女の近親者に報告し、近親者は慌てて塔に入っていった。人が少なくなっていた広場に、また人が戻り始めてざわめいていた。群衆の中では、後ろ向きな感情が支配的であるようだ。不安、怒り、諦め、暗い気持ち。
 塔の下で、首長などの有力者たちが激論を交わし始めた。その他の人民は周囲を取り囲んで見守っている。満月の後ではあるが、臨時の民会のような形になった。プブリウスもまた、群衆の中に混じって議論の行方を観察していた。
「キウィリス将領が、ローマのケリアリス司令官と会談し、降伏したというぞ」
「嘘だ!」
「本当だと思うよ。キウィリスの出身部族であるバタウィー族の中でさえ、キウィリスへの離反の動きが出ているよ」
「将領無しではローマとは戦えない。降伏しかない」
「いや、我々には巫女がいる」
「でも巫女は今回の儀式では、勝利を予言しなかったぞ。来年の豊作を予言しただけだ」
「それを言うなら、去年の予言だって、一時的な大勝利は予言したけど、その後の劣勢については言及が無かっただろう」
「黙れ。きさまら、偉大なる巫女様を愚弄するつもりか」
 大声で一喝したのは巫女の近親者、大柄な隻眼の男だ。しかし、周囲の反応は明らかに冷たい。
「い、いやいや、巫女を蔑ろにするつもりは無いよ。でも、キウィリス将領降伏が本当なら、どうすればいいのか」
 議論は長引きそうだ。プブリウスはそっとその場を離れた。
 悠長に考えている暇は無くなった。キウィリス将領の降伏により、ヴェレダの巫女としての立場も非常に脆くなったようだ。
 今ならば、ヴェレダがローマとの和平を訴えれば、ゲルマニアの民衆も素直に受け入れるかもしれない。だが、ゲルマニア人の間でも意見が割れて激しく対立しているので、先行きは五里霧中だ。
 ヴェレダを殺すべきだ。今夜にでも、すぐに。
 キウィリス降伏という報に接してもなおローマとの継戦を主張しているのは、ヴェレダの親族をはじめとした、ヴェレダ個人への心酔者が多いような印象を受けた。
 ヴェレダが殺されれば、誰か別の女が新たな巫女として選出される。だが、新人巫女では今のヴェレダほどの求心力は発揮できないはずだ。そうなればヴェレダの親族は巫女の親族ではなくなる。強硬派の主張は勢いを失う。
 方向性が決まれば、実施に万全を期すために準備が必要だ。プブリウスは必要な物資を調達するために行商人を見つけて声をかけた。
 夜になって、塔の夜警以外の者は寝静まったと思われる頃合いを見計らって、泉の岩場にある秘密の出入口にプブリウスは潜り込んだ。
 秘密の地下道は、ほとんど自然の洞窟に近い感じだった。最初は岩に空いた穴で、奥に進むにつれてやがて森の木の根が張っている下の空洞という感じになった。自然の洞窟なので、人間が歩く利便が考慮されているわけではない。ほとんどの道のりを、プブリウスはしゃがんで上体を前に倒した格好でゆっくりと手探りで進まなければならなかった。
 手に持っていた短めの槍は途中で置いて行くことになった。洞窟が急角度で上に向いたと思ったらすぐに下方に折れる箇所があって、プブリウス自身は匍匐前進で先に進むことができたが、長さのある槍は引っかかって通過させることができなかったのだ。腰に提げた短剣があればなんとかなる。
 しゃがんだまま、真っ暗な中での前進だ。幾度も頭をぶつけ、太腿も張ってきた。ヴェレダは、水浴びをするために毎回このような苦労をしているのか。
 そうこうしているうちに、天井が高い場所に出た。いよいよ、中空になっている巨大オークの木の真下に来たらしい。
 木の内壁に楔が打ち込んであって、それを伝って上り下りするようだ。外観では太い木であったが、中空になっている部分は人間がぎりぎり通れるくらいの細さだった。なので、背負い袋の分だけ窮屈で、苦労した登攀になった。
 中空になっている部分が頭打ちとなったところで横穴があった。布が掛けられていて向こう側は見えないが、小さな明かりが灯っているらしく、布が淡白かった。ここが最上階の巫女の部屋なのだ。
「ヴェレダ、ヴェレダ」
 最初は囁くくらいの声で呼びかけたが、どうせ他者に聞かれる心配も無いであろうから、もう少し大きな声で呼びかけてみた。布の向こうで人が動く気配がした。
 ヴェレダが布をめくって迎えてくれるのを待つのももどかしく、プブリウスは自ら布をめくった。
「プブリウス、あなた、国に帰ったのではなかったのですか」
「帰りますよ。あなたとの決着をつけてから」
 眠っていたところを起こされた格好のヴェレダは、やや不機嫌そうな表情だった。部屋の中は予想通りの狭さと、予想以上の簡素さだった。窓が無いから、常に明かりを灯しているらしい。
「俺は決めた。ヴェレダ。あなたには、死んでもらう」
 一瞬息をのみ、それからヴェレダは穏やかな顔つきになった。
「キウィリスが降伏して、ゲルマニアの情勢が今まで以上に不穏になってきました。わたくしは、塔の中に蟄居しているお人形です。生きているとはいえない人生でしたが、本当の意味で死ぬのですね」
 嬉しそうに、孤独の巫女は笑顔を浮かべた。しかし、黒を深く湛えた双眸からは泉のように涙が溢れ、二つの筋となって頬を伝った。
「ヴェレダ、その涙はどういうことですか? あなた、本当は死を望むのですか?」
「い、いえ、これは……」
「嬉し涙ということはないでしょう。確かに、死は全てからの解放でもある。でも、あなたは死のうと思えば、屋上から飛び降りて死ぬこともできた。生への執着、死への恐怖があるのではありませんか?」
 プブリウスの目は、洞察の光を宿して、ブルクテリ族の巫女を射抜いた。
「プブリウス、あなたは、わたくし以上に物事を見通す透視力を持っているようですね。確かにわたくしは、本当はまだ死にたくありません。わたくし自身が予言したように、石の都のローマを見てみたい」
 丁寧な言葉遣いを捨てて、プブリウスはぞんざいに言い放った。
「それが正直な気持ちなのか? だとしたらヴェレダは、ローマに行くために、俺に命を預けるんだ。俺はヴェレダを殺すと言った。俺はヴェレダの命を握っているのだから」
「わたくしに何をしろと言うのですか?」
「俺は辺境育ちで、実はローマの都には一度も行ったことがないんだ。ヴェレダ、俺と一緒にローマに行くんだ。そのために協力してくれ」
 プブリウスは背負い袋から荷物を取り出し始めた。最初に出したのは丸っぽい白い物体だった。次いで、白くて長い棒状のものを数本。
「頭蓋骨、ですか」
「そうだ。あの泉の周辺は生贄を捧げる祭壇だと聞いた通り、骨があちこちに転がっていて探すのも容易だった」
 プブリウスはその骨を床に適当に並べて、次の物を取り出す。
「ところで、塔の最上階のこの部屋に登ってくるための階段か梯子があるだろう。こっちでいいのかい」
「はい。梯子ではなく、急角度ですが階段です。わたくしのための食事や必要な物を持ってくるので、梯子では不便ですので」
 ヴェレダの言葉を聞きながら、プブリウスは取り出した小さめの松明に火をつけた。室内に既に小さいながらも明かりがあるので、その火を移した。
「梯子じゃなくて階段なのは都合がいいな。ヴェレダ、松明を持って俺について来てくれ。暗いから足下を照らす感じで」
 扉の外は踊り場になっていた。屋上に出る階段と、下へ降りる階段がある。ヴェレダの言う通り急角度で、幾度も踊り場で折り返すことになるらしい。プブリウスは背負い袋から取り出した革袋の口を緩めながら、階段を降りて行く。
 下の踊り場に着くと、壁際に、革袋を少し傾けて中身をこぼす。自分たちが歩く箇所には掛からないように注意する。
「何ですかそれは」
「オリーヴ油だよ。ヒスパニアの油商人から安く買ったんだけど、品質がもう一つで料理は使いたくないから、丁度良い使い道を探していたところだったんだ」
 プブリウスは更に下の踊り場に降りて、同様に油を散布する。ヴェレダはその後ろについて来た。
「この塔を燃やすんだ。ヴェレダには、焼死体になってもらう。そのために骨を持ってきたんだ」
 踊り場にオリーヴ油を撒くことを繰り返し、二人は一番下の踊り場に到達した。ここより更に下は地階で、塔の外への出入口の扉がある。扉のすぐ外では警備兵が見張っているだろうから、二人は声を潜めて言葉を交わした。
「ここからは、階段に油を垂らして、松明で火をつける。俺たちは塔の上に逃げて、オークの木の空洞を通って秘密の地下道から脱出する。火は、踊り場を伝う感じで上に燃え広がるから、そうやって稼がれた時間で、俺たちは階段を最上階まで登るんだ。さあヴェレダ、先に階段を上がっているんだ」
「でも松明が無いと、真っ暗で足下が覚束ないですよ」
「そ、それもそうか。じゃあ下の階段に火をつけたら、二人で一斉に走って階段を駆け上ろう。時間勝負だ」
「はい」
 油を撒き終わると、プブリウスは油が入っていた皮袋の口を締めて背負い袋に戻した。ヴェレダが持っていた松明を受け取り、地階へ下りる階段に火を近づける。
 オリーヴ油で濡れた階段はすぐに燃え始めた。もちろん、火災発生は外の警備兵にすぐ発覚するだろうが、その頃には上の踊り場にも延焼して、消火は難しくなるだろうし、ヴェレダ救出のために最上階に上ることもできなくなっている。焼け跡からはあの骨が発見され、ヴェレダの焼死体の一部と判断されるだろう。
 炎はまだ地階への階段の表面を炙っているだけだが、延焼し始めたら一気に大きくなるかもしれない。かなり煙が発生し始めている。
「よし、俺たちが火や煙に巻き込まれる前に、最上階に戻って脱出だ」
 ヴェレダが急角度の階段を駆け上り始める。そのすぐ後ろに松明を持ったプブリウスが続く。
 下の方で、人の騒ぎ声が聞こえ始めた。気づかれたようだ。振り返ってみたが、既に踊り場で折り返したので、下の様子は窺えなかった。火と煙は広がりつつある。
「プブリウス、どうしたのですか。急ぎましょう」
「大丈夫、追っ手は来ないようだ。あっ」
 ヴェレダの呼びかけに応えて急階段の上を仰ぎ見たプブリウスは、自らが持つ松明の炎に照らし出されたヴェレダの姿をほぼ真下から見上げる形になった。白いゆったりした衣装の裾の奥に、素肌の太腿が見えた。その更に奥には白い下着に包まれた尻が、申し訳なさそうにまろみを帯びて盛り上がっていた。
「ちょ、ちょっと、プブリウス。こんな時に何を見ているのですか」
 ヴェレダは後ろに手を廻して衣装を抑えたので、下着の純白はプブリウスの視界から遮られた。
「い、いいから急げヴェレダ、恥ずかしがっている場合じゃないぞ」
 叫ぶように言ってから、プブリウスは少し咳こんだ。煙が上昇してきている。
「う、上を見ないようにしてください」
「最初に会った時は、全裸だったけど堂々としていたじゃないか。なんで今更恥ずかしがるんだ」
「あの時は、月がきれいでしたから、わたくしなどかすんでしまいますので」
「言っていることの意味が分からないぞ」
 焦げ臭くなりつつある呼吸に耐えながら、それでも二人は最上階に戻った。
「よし。あとは、火が広がってオークの木の幹が燃え始める前に地下通路まで到達できれば大丈夫だろう。追っ手は来れないだろうし」
 ヴェレダが先にオークの幹の空洞を降り始める。松明を持っているのはプブリウスなのでヴェレダにとっては暗闇の中での下降だが、さすがに慣れている様子で身軽に下っていった。
 松明を持ちながらなのでややぎこちない動きではあるが、プブリウスも楔を伝って下を目指す。火は、塔の内部を焼いてはいても、外壁やオークの木にまでは今のところ延焼していないのだろう。
「プブリウス、もう逃げ切れたかのような余裕を持っているようですが、追っ手については、来る可能性もまだあるとは思いますわ」
「そんなまさか。あ、もしかして、泉の側の出口に先回りされている可能性があるってことか」
「いいえ。その可能性はほぼ皆無だと思います。そうではなく……」
「じゃあどこから来るんだ?」
「とにかく急ぎましょう。秘密の地下道を抜けて泉に出て、すぐにそこから離れれば、それ以上追われることはないはずです。大多数の者は塔の火災に気を取られるはずですから」
 ヴェレダを先頭に、地下道を進む。しゃがんだ格好での窮屈な前進だが、ヴェレダにとっては日常的に幾度も使っている通路で慣れている様子だった。儀式の時に激しく踊っていたくらいなので、並み以上の体力はあるのだ。松明を持った上で慣れない低姿勢での前進をするプブリウスの方が遅れないように急がなければならないほどだ。
 プブリウスの荒い息が、狭い通路に満ちる。その中に、違う気配が背後から混じりつつあるのを感じ始めた。
 予言でなくともヴェレダの懸念が的中したようだ。背後から追っ手が迫ってきつつある。
「どういうことだ? 追われているぞ」
 追いつかれる前に泉に出てしまえば、後は森に逃げ込むだけだ。だが、距離を詰められた状態で外に出たら、捕捉されてしまう危険性が高い。
「プブリウスの方が遅れがちですよ。そちらこそ急いでください」
 ヴェレダは体の柔らかさを発揮し、往路でプブリウスが苦戦した難所、通路が狭い状態のまま上方で急角度に折れ曲がっている箇所をあっさりと通過した。
「ヴェレダ、先に行っていろ」
 プブリウスは、手足を持たぬ蛇や芋虫の苦労を味わいながら、まさに這うようにして苦労して狭隘な屈曲箇所を抜けようとする。
「プブリウスはどうするのですか」
「このままじゃ追いつかれる。ここで相手を撃退する」
 右手に持っていた松明を左手に持ち替えながら、プブリウスはしゃがんだ姿勢のまま後ろへ向き直った。右手には槍を掴んだ。来るときに、急角度の屈曲箇所を通すことができずにこの場に置いたままにしていた手槍、フラメアだ。
 ヴェレダは指示通り先に行ってくれた。光源を持っていないのだが、暗闇の中でも問題なく進めるくらい、知悉した道であるようだ。
 追っ手の気配は、今となっては完全に息づかいとして明確にプブリウスの耳に届いてきた。複数ではない。塔を厳重に警備していた巫女の親族たちにとっても、内側からの火災は不意打ちだったはずだ。その中でここまで追ってくることができたのは一人だけだったのだ。
「巫女様、そこにおられるのですか。塔の外壁を登って、屋上から部屋に入って迎えに来ました。突然の火災で驚いたでしょうが、秘密の通路があって良かった」
 ゲルマニアの言葉だった。屈曲部分の先に明かりがあって、そこに人が居ることは、追っ手も分かっている。
「巫女様、どうしたのですか。返事をしてください」
 追っ手の声色に警戒の気配が強まった。
「巫女様?」
 無論、プブリウスは沈黙を保つ。追っ手も黙り込んだ。時間だけが僅かに流れた。
 突如、屈曲部分に煌めきが発生した。「あっ」とプブリウスが思わず叫んでしまった時には、松明の光を反射した短剣がプブリウスの左足の爪先の少し前に落ちて跳ねた。追っ手は、屈曲部分から手だけを出して、目視せずに手首の力だけで短剣を投擲したのだ。だから、プブリウスには命中しなかった。
 だがプブリウスには安堵している暇は無かった。咄嗟に声を発してしまったことで、こちらに居るのが巫女でないことも発覚してしまったし、おおよその位置も察知されたはずだ。
 命中しなかった短剣から屈曲部に目を戻した時には、隻眼の男の顔と右手が出ていた。右手の第二の短剣が今にも放たれようとしていた。
「うおぉぉぉぉ」
 プブリウスとてここで死にたくはない。ヴェレダを連れてナルボンヌスに帰るのだ。叫びながら、左手に持っていた松明を、追っ手の顔面に向かって投げつけた。同時に追っ手も短剣を放っていた。
 揺らめく松明の火以外は視界を確保できない暗い地下通路で、隻眼の追っ手にとっては正確な距離感を把握でき損なったのだろう。短剣と松明が空中で衝突することとなった。思わぬ展開に驚く間もなく、プブリウスは右手に握った槍を突き出していた。
「ぐあっ、目潰しとは、卑怯な」
 狙ったわけではなく偶然だったが、槍の穂先は隻眼の男の健在だった方の目に突き刺さっていた。追っ手は、左手に持っていた第三の短剣をその場に落とし、空いた両手で槍を抜こうと柄を掴んだ。
「今まで巫女を閉じこめていた罰だと思え」
 拙いゲルマニアの言葉で言いながら、プブリウスは両手で槍の柄を握って力の限りに押し込んだ。
 隻眼の男は人生最後の瞬間に両目を喪う形となった。負傷の痛みと不自由な体勢で反撃もままならず、フラメアを更に深く突き入れられて倒れた。
 隻眼だった男以外には追っ手は来ていないようだし、仮に今から来たとしても、隻眼だった男の死体が邪魔になってここから先には容易には進めないだろう。
 右手になま温かいものが触れた。追っ手の目に突き刺さった槍の柄を、血が流れ伝ってきたらしい。慌てて槍から手を離すが、右手にべっとりと付着してしまった。地下通路の壁面にこすりつけたが、きれいに取れるはずもなかった。
 追っ手を撃退したのだから、すぐにヴェレダを追って合流しなければ。地面に落ちたけれども幸いまだ燃えている松明を拾う。槍は回収せずに死体に突き刺さったままだ。
 プブリウスは復路を駆けた。といってもしゃがんだ状態で鴨の子どもが親鴨を一生懸命追っているような格好ではあるが。もう少し、あと少し、と心の中で自分に言い聞かせながら出口を目指す。そして。
「プブリウス」
 ヴェレダの声が聞こえたと思ったら、洞窟の外に出ていた。満月から少し欠けた月を背にして、松明を持った美しき巫女がプブリウスを待っていた。
 二人は見つめ合った。
「手のお怪我は大丈夫ですか?」
「あっ、これは返り血だから。それより、早くここを離れて森を抜けよう」
 ナルボンヌスは遠く、ローマは更に遠かった。



●結

 ゲルマニア人ほど占鳥と占鬮(せんきゅう)を尊ぶものはない。占鬮の習慣的な仕方は簡単である。果樹から切り取られた若枝を小片に切り、ある種の印(ルーネン文字)を付けて、これを無作意に、偶然に任せて、白い布の上にバラバラと撒き散らす。次いで、(中略)、神に祈り、天を仰いで、一つまた一つと取り上げること三度にして、取り上げられたものを、予めそこに付けられていた印に従って解釈するのである。

                                   タキトゥス『ゲルマニア』より



 帝政ローマ時代の歴史家プブリウス・コルネリウス・タキトゥスは、自らのことについてはほとんど記録を残していないので、著書から読み取れる以外の詳しい事績は分かっていない。
 ゲルマニアの巫女ヴェレダについては、タキトゥスの著書『ゲルマニア』や『同時代史』の中で言及がある。
 だが、ヴェレダ、というのは個人名ではなく、巫女のことを指す総称であるという説も存在する。
 なので、紀元69年にキウィリウス将領の大勝を予言して神の如く崇められたヴェレダと、紀元77年にローマ帝国に捕縛されてローマの都に連れて行かれたとされるヴェレダが同一人物であるという確証は無い。リッペ川の畔にあったという巫女の塔も、いつまで存在していたかは不明だ。拿捕した三段櫂船も、いつまでそこに置いてあったのだろうか。
 歴史家タキトゥスは、紀元78年にガリア総督アグリコラの一四歳になる娘と結婚したが、正妻以外に妾を囲っていたかどうかは不明だ。著書『ゲルマニア』などの中では、ローマの権力者たちが財力にものをいわせて妾を持つことを批判している。
 なお、ゲルマニアからローマに移った後のヴェレダは、ローマの南近郊のアルデアで占い師として活躍して評判を得たともされているが、定かなところは分かっていない。
 繁栄を極めたローマ帝国は、歴史の中でやがて東西に分裂し、衰亡していった。
 歴史家タキトゥスも巫女ヴェレダも、紀元1世紀の人物であるが、二〇〇〇年の長い時を経ても、ローマ帝国とゲルマニアの歴史を彩った人物として語り継がれている。






(FINIS)





w

2016年12月31日 13時55分48秒 公開
■この作品の著作権は w さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:異境ゲルマニアにて、青年は何を見たのか?
◆作者コメント:企画開催ありがとうございます。ラ研企画というと、DTネタとかギリギリを攻めた作品が毎度目につきますが、本作品はまともで健全な路線を目指したつもりです。桃も黒熊も出てきませんが、企画、楽しんでまいりましょう。

2017年04月30日 08時09分54秒
作者レス
2017年01月25日 00時13分43秒
+10点
2017年01月20日 01時03分15秒
2017年01月16日 22時08分12秒
作者レス
2017年01月15日 23時18分12秒
+10点
2017年01月15日 20時35分22秒
+20点
2017年01月15日 19時33分01秒
+20点
2017年01月12日 22時51分14秒
2017年01月12日 21時17分37秒
+10点
2017年01月07日 00時55分31秒
+10点
2017年01月04日 17時51分56秒
+10点
2017年01月03日 17時09分04秒
+10点
2017年01月02日 01時01分19秒
0点
合計 11人 100点

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