僕と全裸と伊能忠敬

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 2017年を迎えたとき、僕は近所の神社の裏側にいた。
 初詣に来たのだが、甘酒を持ったカップルがぶつかってきて、思いっきり服にこぼされてしまった。
 ダウンジャケットだけならよかったが、下のシャツまで濡れていたので、人気のないところに移動したというわけだ。一生懸命拭いていたら、気づいたら新年だった。
 そんなことはどうでもいい。それよりももっと大変なことが起きていた。
 僕の隣に、小さいおじさんがいたのだ。手のひらくらいの大きさしかない、着物を着たおじさんが。思考が停止する。
「おい」
 目を開けたまま意識を失っていたようだ。耳が呼び声を拾って、うたた寝から目を覚ましたときのような感覚を覚えた。
「驚かしてすまんな」
「はい」
「大丈夫か」
「はい」
「名前は言えるか」
「はい」
「名前は」
「はい」
 答えた瞬間、僕はおじさんに引くほど怒鳴られた。「酔ってるのかお前はァ!」――酒を飲めば規律を乱す、そんなこともわからんのか、と。一拍あってから、まったくいつの時代のやつも、とグチグチ言っている。
「飲んでないです」
 被ったけれど。
「なら明確に答えなさい。名前は?」
「井沢晴人です」
「よし、頭は正常のようだな」
 カチンときた。
「あなたこそ、お名前は?」
「私は伊能三郎右衛門だ」
「古風な名前ですね」
 そのくらいしか嫌味が思いつかなかった。本当は、鼻で笑いたかった。カビでも生えてるんじゃないですか? くらいは言ってやりたかった。
「当たり前だ。生きていれば271歳になる。ちなみにもうすぐ272だ」
 ふざけているのかと思った。しかし、そもそもこの状況がふざけているのだ。
「なんでここにいるんです?」
「お前の願いを叶えるためだ」
「願い?」
「そうだ。お前は『この日本を、正確に描き表わしたい』と願っただろう。だから、私が遣わされたのだ」
 言われて思い出した。そもそも初詣には、3月に受ける美大の合格祈願に来たのだった。
「僕の願いは美大に受かりたい、ですけど?」
「それはお前の表面的な願いに過ぎない。お前は心の深層では、この美しい日本という国を、正確に描き表わしたいと願ったのだ。それが終わるか、お前か私のどちらかが投げ出さない限り、私はお前とともにいる。
 ところでお前は、これほど仄めかしてもまだ私が誰か気づかんのか」
「会ったことありませんもの」
「やれやれ。仕方がない、お前たちになじみのある名で名乗ろう。私は伊能忠敬だ」
 伊能忠敬。イノウタダタカ。
 ――歴史の教科書の、やけに正確な日本列島の地図が思い浮かんだ。顔は出てこない。
 この小さいおじさんは伊能忠敬だという。嘘にしては出来が悪すぎるようだった。
「どうやら知っているようだな。私が来たからには安心だ。さて、すぐに紙と書くものを用意しなさい。三角関数から教えてやろう。必ず誤差1000分の1以下の地図の作り方を伝授してやる」
「正確に描き表わすってそっちかよ!」
 寒い空に、思いっきり怒鳴っていた。



 僕はひとりで帰宅した。小さい伊能忠敬は、当然歩幅も小さい。僕は、足の速さとスタミナには自信がある。逃げ切るのは難しくなかった。
 自分の部屋に入った途端、僕は驚いた。伊能忠敬がベッドの上にいたのだ。
「なんでいるのさ!」
「私はありとあらゆるところにいるのだ」
 意味がわからない。
「つまらぬことに時間を使うな。時間は欠片になった命なのだ。三角関数を教えてやる。ほら、席に着きなさい」
「だからいいって!」

 そもそも、と僕は少し小さな声で、それでも悪意を充分に込めて言った。
「そもそも、なんで僕とこうやって話ができてるのさ。江戸の人がどんな話し方をしたのか知らないけどさ、現代人の僕とこうやって話がかみ合うのがまずおかしいだろ?」
 発音だって、言葉の意味だって、全然違うはずなのに。
「それはガチでいい質問だな」
 僕は卒倒してしまいそうだった。
「わかりやすく教えてやろう。よいか、人間は死ぬと、『大いなる一』に溶けるのだ。正確に言えば生きている間も、『大いなる一』にいるのだがな。ああ、『大いなる一』は『神』と呼んでも、『宇宙』と呼んでも、感覚的にわかれば何と呼んでも構わないぞ」
 少しもわかりやすくなかった。
 伊能忠敬は根気強く、僕に説明した。少しは理解できた。
 いわく、すべての生命は一体である。ひとつの海みたいなものだと思うといい。海には、「この水」と「あの水」の区別はない。それと同じで、実は人間はみなひとつの存在なのだ――
「――って、それが僕の質問と何の関係があるのさ」
「お前と私は同じひとつの命だ、と言っているのだ。お前は私の体の一部に等しく、そして私もまたお前の体の一部に過ぎない。お前は、自分の手が何をしているのかわからないのか?」
 つまり、僕が何を考えているのか、すべてわかっている。そういうことか。
「その通りだ」
 心を読むな。
「でもそれだと、現代語を使える理由にならないだろ?」
「すべての生命はひとつだと言っただろう。私はお前であり、やがてお前の恋人となる少女だ。ありとあらゆる生命の使うコミュニケーションの方法は、私にも使える」
 ちょっと待った。
「なんだ」
 伊能――百歩譲って、伊能忠敬だと思っておくことにする――の言うことに引っかかる点があった。
「今、やがてお前の恋人となる少女って言った? 言ったよね?  つまり近いうちに、僕には彼女ができるの? そういうことだよね?」
「そうだ」
「信じます」
「よろしい」
 三角関数よりもそずっと魅力的だ。そもそも僕は、三角関数が嫌いなのだ。
「なんだと」
 やべっ。



 2017年の朝。
 起床時間は朝11時。
「たるんでおる」
 目を覚ました瞬間、顔を覗き込んでいた伊能に怒られた。一瞬誰だこのおっさんはと思ったが、夢じゃなかったのか、という驚きのおかげで発狂しなかった。
「お正月ですから」
「そのような態度で願望を成し遂げられると思っているのか?」
 朝起きたばかりの人間にそこまで言わなくてもいいじゃないか。
 うるさいっ。
「なんだ、黙り込んで。言いたいことがあるならはっきり言いなさい」
 あれ、と思った。昨日は心を読んでいたのに。
「昨日は何も言わなくてもわかってたじゃないか」
「ああ、あのちーと状態はもう終わった」
 ちょいちょい今風の言葉使うのやめてくれないかなぁ。しかもお爺ちゃんの発音みたいにぎこちない。
「はじめて出会ったとき、どうしても地上の人間は我々人智を超えたものの存在を信じることができない。だから我々はお前たちを理解させるために、数々の奇跡としか言いようのない力を使ってみせるのだ」
 例えば、瞬間移動とかか。
「しかしお前はすでに、私の存在を信じ、受け入れた。だからそのような力は必要ない。私は今、『大いなる一』から独立しているのだ。いわば、海からくみ上げた一杯の水に過ぎない。つまり、お前とほぼ同じような状態だ」
 ちょっとよくわからない。
「要するに今の私は『大いなる一』よりもはるかにずっと伊能忠敬だと言うことだよ」
 余計にわからない。
 そう言うと、伊能はイライラした様子で教えてきた。そのしつこさが鬱陶しかったので、へいへい、わかったわかったと聞き流したらまた怒られた。
「本当に最近の若い者は根気強さが足りん」
「あんただってわかるように教えられてないじゃないか。それはあんたの根気が足りないんだろ?」
「なんだと」
 伊能は本気で怒ったようだった。彼の目が充血したときのように赤く染まっていた。
 僕の頭にもカッと血が上った。
 僕も彼も、しばらく黙っていた。
 そのとき僕は世界の静かさに少しびっくりして、そのおかげで一瞬冷静になり、同時に伊能は突然怒りをひっこめた。
「あるいは、そうなのかもしれないな」
 意外にも、あっさりと譲歩した。
「わかるように教えてやる。だから、少しの間だけでいいから、よく聞きなさい」
 彼の説明をまとめると、ようするにこういうことだ。
 『大いなる一』は人間の求めに応じて(相当真剣なものに限る)、かつてこの世で生きたことのある人間を遣わすことがある(ガイド、指導霊などと呼ぶらしい)。また、遣わされた人間は最初こそ神のようだが、徐々に生きていたころの自分らしくなっていく。同時に、『大いなる一』として持っていた能力がほとんど失われる。
「お前のもとにはじめて現れたとき、私はもはや神と呼んでも差し支えないほどの力を持っていた。しかし今では、生きていたころの等身大の伊能忠敬に過ぎない。お前とこみゅにけーしょんが問題なくできる程度の会話、思考の能力が与えられているくらいだ」
 確かに、昨日と比べてぎこちない気がする。特に横文字が。どうしてそんなに不便なんだろうと思った。
「この世界には、私とお前のように、霊的な関係を結んでいるものが多くいる。将来的に同じような立場の人間に会うかもしれないな」
 へえ、と思った。



 話が終わってから、僕はパソコンを立ち上げた。ティーンズノベル作法研究所――通称・ティ研を開いた。
「何をしている。勉強しないか」
 パソコンから右に直角に向いた方向――ベッドの上にいる伊能が、僕を叱った。
「僕は朝起きたら、このサイトの作品を一作読まないと始まらないんだ。読んだら必ず感想を書くから、人の役に立つことなんだよ」
「くだらん」
 僕は無視して、最近台頭してきた作者を探して、作品を読み始めた。ホットな作品だということで、確かにとても面白い。
 僕は徐々に物語に引き込まれていった。その間に伊能はベッドからパソコン台に飛び移り、画面を見て座っていた。邪魔にならないので放っておく。
 いきなり彼が「ムッ!」と声を上げた。
 どうしたんだろう。
「こいつは、芥川龍之介の指導を受けているぞ」
「えっ、芥川龍之介って、あの小説家の?」
「そうだ。ほら、こいつ隠す気がないのか、だすとりばー・どらごんと名乗っておる」
 作者名には確かに、『ダストリバー・ドラゴン』と書いてある。絶対隠す気がないな、と僕も思った。しかし、単に芥川龍之介が好きなだけかもしれない。
 そう言ってみた。
「いや、私にはわかる。そもそも、我々指導霊には、ほかに指導を受けている人間がわかるのだ。そやつを見ただけではなく、書いたものや、声を聞いただけでもな」
「そうなんだ。どおりで面白いわけだ。文法もひどくないし、これなら勉強にもなるだろ?」
「三角関数の勉強にはならん。日本地図を描く勉強にもな」
「でも芥川龍之介は『数学ができないものには物語が書けない』って言ったよ」
「それがどうしたというのだ」
 言われてみたらその通りだ。しかし、読むのをやめるつもりはない。伊能も止めるのを諦めたようだ。
 読み終わった僕は、くうぅ、と声を漏らしながら笑った。自称プロナンパ師の主人公が、よりによって恋に狂って暴走し、意中の相手の汚物を――
「終わったか」
「うん。でも今取り込んでるから無理ぃ――ひひっ」
 笑いが面白さを呼んで、さらに笑えてきた。そうしているうちに最近動画サイトで見た面白い動画のことを思い出し、そのページにアクセスしようとしたところで――
「喝ッ!」
 怒鳴られて思わず「ぅわっ」みたいな声が出た。
「なぜおまえはそうも享楽的なのだ。昨夜は『年末くらいゆっくりしたい。明日の朝からやるから』と言って眠り、そして今朝はダラダラ目を覚ましたと思ったら今読まなくてもいい作品を読み、さらにくだらんことに時間を費やそうとしている。――お前は、人生をなめているのか! 人生は短い、たったひとつのことさえも達成できないくらいにな! わかっておるのか!」
 一気に言ってから伊能は黙った。長すぎるくらいの沈黙だった。
 僕には失望感があった。
「……正直さ、無理があるんじゃないかな」
「何を言っている」
「別にさ、あんたが悪いってわけじゃない。でもさ、僕はね、先生は選びたいんだ。別に、あんたが悪いってわけじゃないよ。でもね、こういう厳しい先生はあんまり合わないし、やろうとしたときにこう、グワッて言われると、結局やる気がなくなっちゃうんだよね」
 正直言うと、伊能が出てきたときはちょっとワクワクしたのだ。何か、面白い日常が始まるんじゃないかって。なのに現実は、こうやって口うるさいおっさんにガミガミ怒られているだけだ。わかっている、僕の言うことは滅茶苦茶だ、滅茶苦茶だけどさ――それでもなんか、約束が違うじゃないか。
 伊能はひと言も言わなかった。
 僕は、ひたすら話した。グダグダ、グダグダ――こういう表現を使うこと自体、引け目があるってことだと思うけれど、それでもやはりグダグダ言ったのだ。
「もうよい」
 伊能が言った。
「私の見込み違いだった。かつて、同じようなことを言ってきた弟子がいたことを思い出したよ。まったく、私もまったく学習していないようだ。
 ――お前の貴重な時間を無駄にしてすまなかった。人生は短い。人は、その気になればとても大きなことができる。お前だって例外ではない。陰ながら応援している」
 僕は彼の言葉を聞いているうちに段々と顔を上げていられなくなった。気づけば手元のキーボードを見つめていた。
 そして顔を上げたとき、彼はもうそこにはいなかった。



 公園に来た。特に意味はない。じっとしていられなかっただけだ。
 風が吹いた。まるでそれが人の気配のようで、僕はそのたびに振り返る。誰もいない。
 また、風が吹いた。1月の痛いくらいに冷えた風だ。
 枯葉が飛んできて目の真横をかすめた。思わず風の吹く方向を見た。そのとき僕は、ひとりの少女が絵を描いていることに気づいた。中学生くらいの、幼い女の子だ。もっとも、18の僕が言えたことではないかもしれないけれど。
 イーゼル――キャンバスを固定する器具――をわざわざ使って、一心に風景を描いている。同じ絵を描くものとして、僕は彼女に興味を持った。
 彼女の背後に回った。そのとき僕は、まだ絵を見ていなかった。この寒い中絵を描いている女の子の方に興味があって、ボブカットの小さな黒い頭を見つめていたからだ。彼女との距離が5メートルにも満たなくなったとき、僕は顔を上げて絵を見た。
 そして、鳥肌が立った。恐怖に近いものを感じた。
 彼女の絵には、魂があった。
 入魂の作、という言葉がある。要するに気合とか気迫が感じられるような作品と言うことだけれど、彼女の描いている絵は、まさにそれだった。友だちには決して話したことがないが、僕には神秘主義的なところがある。絵を描いているのも、実はそれが、この世ならざるものへの近づく何かだと感じているからだ。絵を描いていると時々、永遠の中にいるような気分になる。何か僕よりももっと偉大なものが、僕を呼んでいるかのようなのだ。
 僕は、神秘主義者だ。でも、まだまだその道の半分の半分の半分にも達していなかったのかもしれない。これは本物だと思えるものにこうして出会ったにもかかわらず、まったく動けずにいるのだから。
 少女が振り返った。
「いつかお越しになると思っていました」
 落ち着いた、大人の女性のような雰囲気をまとっていた。



 なぜ僕は、こうして女性の部屋にお呼ばれしているのか。
 大人びた中学生だと思っていた彼女は、ひとつ年上だった。一之宮小百合という、お嬢様にしか許されないような名前をしている。やはりお嬢様だ。
 昨年美大に落ちて、今は宅浪をしているとのこと。
「うちに来てもらえませんか」
 小百合さんはそう言った。それで、僕は導かれるように彼女の部屋にやってきた。
 部屋――高級マンションの一室だ。彼女は、浪人生でありながらひとり暮らしをしている。ちなみに両親は存命らしい。
 変わった家庭だ。彼女が美大に落ちたとき、両親はどちらも「あ、そう」のような反応を示したらしい。少々は残念そうというか、気の毒そうな反応を示したが、そのような話題は3分も続かなかった。
 いきなり父は笑顔でこう言ったそうだ。受験は構わないが、勉強ばっかりしてたらもったいないぞ。どうせならひとり暮らしをして、生活能力を高めなさい。
 そのような経緯があって、実家を放り出されたのだという。個人的には羨ましい。が、苦労のほうが大きかったと彼女は言った。そうなのかもしれないと思った。でも毎月の仕送りの金額を聞いて、嘘をつけと思った。
「僕に一体何の用ですか?」
 これだけお金がある人に呼び出される理由がわからない。
 小百合さんは、少し言いにくそうに、それでも覚悟を決めたように言った。
「裸になってくださいませんか」



 どうしてこうなった。
 逃げようと思った僕がいつの間にか全裸になって、彼女の前に立っている。僕は、気づいたら小百合さんの話に乗せられていた。
「寒くはありませんか」
「大丈夫です」
「つらくなったら言ってくださいね」
「はい」
 彼女は恍惚とした表情で、僕の体を見ている。
 そして、熱心に絵を描きだした。
 僕は、彼女にモデルになってほしいと頼まれた。仕事と言っても、裸になってポーズをとり、じっとしているだけだけれども。都合のつくときだけでいいから、こうやって彼女の部屋に来る。日給は、怖いのではっきり言いたくない。そういう契約だ。
「あなたこそが、理想のモデルなのです。平均的な身長、ほどよく筋肉のついた体、幼さの残る少年らしい可愛らしい表情――いえ、今のは忘れてください」
 とにかく、理想的とのこと。
 確かに断ったはずなのに、段々と押し切られ、気づけば引き受けていた。
 彼女は、本当に嬉しそうに書いている。時々、「フフッ」と笑う。
「ところで、そのスマホは一体なんですか?」
 まるで僕を撮影するかのように、レンズがこちらを向いたまま固定されていた。
「一応、撮らせてもらっています。後から見直すのに必要になるかもしれませんので」
「……あんまりじっくり見ないでくださいね」
「どうでしょう」
 モデルは、動けないのでつらいと思っていた。しかし、そうではなかった。大半の時間は、僕もまた彼女と同じような集中状態にあった。まるで、こうやって動かずにじっとしている行為が、彼女の描くという行為の一部であるかのように、僕もまた彼女の創作活動に参加していた。
 まったく恥ずかしくはなかった。あえて言うなら別室で服を脱いで、手渡されたバスローブ姿で彼女の前に現れるときまでが一番恥ずかしかった。しかし、こうやって描かれているうちに、自分も高尚な創作活動に参加しているような気分になってきた
「ありがとうございました。また、近いうちにお願いします」
 え、もう終わり? そう思って時計を見ると――
「え、7時!?」
「申し訳ありません、4時には終わろうと思っていたのですが、時間を忘れていたようです」
 僕がこの部屋に来たのはおよそ午後2時、そこから5時間近くじっとしていたことになる。そのことに気づいた途端筋肉痛がした。
「大丈夫です、予定はありませんので。でも、すごいですね。こんなに集中力がもつなんて」
「今日もまた、この白い紙の前で一日を費やしてしまいました」
 決めゼリフのように言ってから彼女は、一瞬驚いたような顔になった。
「あの、また、近いうちにお願いします」
 彼女の声が徐々に小さくなっていく。目が泳いだと思ったら、床を見つめた。
「あの、もう服を着ていただいて、構いませんので」
 そのとき僕は、自分が全裸だったことに気づいた。さっきまで平気だったはずなのに、恥ずかしさが爆発した。



 夕食は、小百合さんと食べた。僕が着替えている間に、彼女がルームサービスで食事をとっていたのだ。着替え終わってからやけに引き留められるなと思っていたら、そういうことだったらしい。しかも、僕が気分で食べたいと言ったものばかりだった。
 思い返せばそのときの彼女は落ち着きなくスマートフォンをいじり続けていて、明らかに挙動不審だった。
 すぐに大量の料理が運び込まれてきた。
「こんな、申し訳ないです」
「いえ、当然の対価です」
 そういう発想の人間が僕は怖い。僕の裸のどこに価値を見出したというのだ。
「今更ですが」
 彼女は言った。
「あなたは、何をされているのですか?」
 本当に今更だ。僕がプロのジゴロとかだったらどうする気だったんだ。
「僕は、受験生です」
「まあ」
 彼女はそう言った。
「どこをお受けになるのですか?」
「一応――」
 受ける予定の美大の名前を出したら、彼女は「あら!」と言った。
「私はそこ受けないんです」
「受けないんかいっ」
 どうやら彼女は、僕たちの出会いにかなり運命的なものを感じたそうだ。だから、ここまで運命的なのだから、同じところを受けて、合格するのだろうということを疑っていなかった。そうならなかったことに驚いたらしい。
「あ……同じところを受けたほうがいい、ですか?」
 彼女が不安そうに尋ねる。
「いや、いいです。お好きなところを受けてください」
 そんなやりとりもあった。
「ですが、それでも私たちは似てると思いませんか、井沢さん?」
「まったく思わないです」
 小百合さんはしょんぼりしたようだった。あまりにも気の毒だったので、「雰囲気とか、もしかしたら似てるかもしれないですね」と言ってみた。彼女の話の飛躍にギリギリついて行っているあたり、まったく嘘ではないと思いたい。
「そうですよね」
 彼女は嬉しそうに言った。
 僕たちはわかるような、わからないような話を続けた。たまに、何かを確認するかのようにスマートフォンを取り出して文字を打っている。
「あの、お忙しいようでしたら僕、帰りますので」
「あぁごめんなさいごめんなさい、そうじゃないんです、いつまでもいてください」
 いつまでも、って。
 小百合さんは変な人だ。多分、頭の中では至極当たり前のように論理が進行しているのだろうけれど、その過程を説明しないのでいきなりよくわからない結論が出てくる。それで僕は「はぁ?」となるのだ。
 と思ったら今のように、急に黙り込む。「うー」と唸りだした。スマートフォンを見つめる。望んだ答えが得られなかったのか、再び唸りだした。
「なんて言えばいいのでしょう……」
 追い詰められたかのような声を出す。
「どうかしま――」
「あの、井沢さん」
「はい」
 重々しい話かと思って、かしこまって返事をしてしまった。
「喧嘩しているなら、早いうちに仲直りした方がいいですよ?」
「……は?」
「相手のことをほとんど知らないのに喧嘩をしてしまうと、それっきりになってしまうと思うんです。まだ、間に合うんじゃないでしょうか」
 はぁ、と僕は言った。



 何度か小百合さんのもとに通った。通ううち、僕は彼女に多くのことを話すようになった。裸を見せたような相手だからなのか、大体のことは言えた。言ってから、なんでこんなことをずっと隠してきたんだろうと思うようなこともあった。
「それで」
 小百合さんは言った。
「その先生とは、もう仲直りできたのですか?」
 今までの話とまったくつながっていなかったので、僕は驚いた。
「仲直り――? ああ、そうか、確かに仲直りですね。ううん、していないんです。お互い住む世界が違うというか、多分これ以上は二人とも望んでいないと思うんです、付き合うことは」
 信じてもらえないだろうと思ったので、伊能の名前は出さなかった。ちょっと口うるさい先生とうまくいっていないのだ、ということにしておいたのだ。
「そんなことはないと思いますよ」
 あなたが何らかの形で欲したから、その方はあなたのもとに現れたのだと思います。
 小百合さんはそう言って笑った。
「でも、お互いしんどい関係なんて、嫌じゃないです?」
「嫌ですね」
 ふと、彼女が僕たちの関係を面倒だと思っていたらどうしようと考えた。
「ですが、たまにそうやって考えの合わない人と付き合ってみて、自分の世界を広げることも、悪くないと思うんです」
「自分の世界を広げる?」
 気の合わない人と付き合うことを、そう表現する人にはじめて出会った。
「きっと、絵を描くことに役に立つと思いますよ」
 そうかもしれない――のかな?
「それで」
 小百合さんが言う。
「本日は、何を召し上がりますか?」
「なんでもいいです。できれば安いもので」
「では本格フレンチにしましょう」
 怖い。



 小百合さんの家から帰った僕は、彼女が言ったことをずっと考えていた。フレンチの件ではない。そっちは緊張しすぎて味を覚えていない。
 考えているのは、しんどい人と付き合うことについてだ。含蓄があるような気がしたのだが、真意はわからない。
 なんとなくスマートフォンを手に取った。真っ黒な画面に僕の顔が映る。背後には、伊能がいた。
「うわっ」
「情けない声を出すのではない」
 何日も聞いていない彼の厳しい声が聞こえた。
「……なんで?」
「あれから、ずっと考えていた。結論から言おう、申し訳なかった」
「いや、そんな」
 怒られるのかと思っていた僕は、一気に力が抜けてしまった。
「あの後、私は『大いなる一』に帰ろうと思った。だが、どうしても帰れなかった。昔から、一度やろうと決めたことは何年かけても諦められない厄介な性質でな、結局戻ってきてしまった」
 僕だって、と言いかけた。僕だって、本音ではあんな別れ方をしたくなかった。そして今わかったことだけれど、僕もまた、どうにかして彼と和解したいと思っていたのだ。
「私は、人気がない」
 突然の発言だった。
「この地球にはかつて、多くの偉人がいた。それこそ、神の化身としか言えないようなものたちがな。私は、彼らと比べて人間を導く経験が浅い。今までほとんど呼ばれたことがなかったのだ」
 それはわかる。茶化してやろうかと思ったが、やめた。
「今回呼び出されて、正直舞い上がった。熱が入りすぎてしまったのだ。だから――許してぴょん!」
 彼は深く頭を下げた。
 そのことに、僕は心を打たれた。
「……現代語をちょいちょい混ぜるのやめなって」
「親しみを持てると聞いたのだが」
「あんたの場合は、逆効果だと思うぞ」
「ではどうすればいい」
「そのままでいてくれ。なんというかさ、あんたと付き合うのはしんどかった。でも、だから間違ってたわけじゃないんだ。あまりにも一気に色々言われたものだからつい反発しただけで、なんというか、正直、色々言ってくれてよかったと思ってる」
 小百合さんくらい、なんでもオーケーな人だとそれはそれで怖いし。
「それは、よかった」
 伊能は言った。ポツリと、「本当に、よかった」と繰り返した。
 こんなにも、本音でものを言えたのはいつ以来だろう。人は誰でも、人とうまくやっていくためにうそをつくとは思うけれど、そのせいで壁を作ることもあるのだろう。
「伊能、あんたと約束するよ。全部は無理でも、なるべくあんたの言うことは聞く。あんたの言うことはほとんど正しかったと思うんだ」
「私も約束する。なるべく、お前のことを理解するように努めよう。好きなこと、正直な気持ち、なんでもいいから多くを共有してくれ。きっと、お前のことを理解してみせる」
 僕は、わかった、と頷いた。きっと、晴れた顔をしていたと思う。
 伊能も明るい表情だったが、どこか償うような気持ちが混ざっているような気がした。



 それから僕は、少しずつ変わったと思う。本当に少しずつではあるけれど、伊能の話も聞くようになった。意外にも面白くて、自分から話しかけることも増えた。誠実に聞きさえすれば、彼はなんでも答えてくれる。もちろん厳しめの教訓とセットではあるけれど。

「井沢、井沢」
 ある日、どこからか伊能の声が聞こえた。
 スマートフォンからだと気づいた。立ち上げて、『99+』と右上に表示された知らないアプリを立ち上げた。
「ほら、どうだ?」
 画面には、着物を着て月代を剃っている、BL本に出てきそうな男性が映っていた。
「うわっ、なんだこれ」
「こら、気づかんか、私だ。伊能だ。それとお前、画面ではなくてカメラを見て話せ」
 まるで武士のような精悍な顔だちをしている二次元の男性が喋りかけてきた。
「お前たちの時代では、こういうのが好まれるのだろう? 我々ガイドはこういうこともできるのだ。 いめーじちぇんじ、してみたぞ」
 こういうのを好む層を教えておくべきだったのかもしれない。ちなみに僕は――結構好きだ。
「おい、こら、やめろ! 私を画面越しに触るでない! こら、どこを触っている! やめ――」



「伊能、伊能」
 僕は伊能に話しかけた。
「なんだ」
「これ、どう?」
 僕は彼にパソコン画面を見せた。
 漢詩をラップにしてみたという動画だ。
 伊能は、詩歌が好きだったらしい。彼には早すぎる動画かもしれないが。
「なんだこれは……おい、もう一度聞かせてくれ」
 リピート機能をオンにして再生した。
「これほどまでに見事に読み上げるとは……」
 詩歌は、聞き手の想像力を頼りにしているところがある。それをあえて軽快なリズムに乗せることで、万人が楽しめるように工夫をするとは。これならこの軽快さを楽しんでいた人が、ある日ふと内容に興味を持つことができるかもしれない。――ブツブツとひとり言を言っている。
 伊能はしばらく黙っていた。
「ヨ、国破れて――いや、ちょっと違うか。ヨォ、ヨゥ、ヨワァ、YO、お、今のだな、わかったぞ――YO! 国破れて」
 小声で練習している。
 と思いきや、映像を一時停止したように、伊能が固まった。
「井沢」
「なに」
「さっきの音楽、このすまーとふぉんに入らないか」
「入るよ」
「入れておいてくれ」
「うん」
「恐悦至極だ」
 次の日、朝起きたら充電していたはずのスマホのバッテリーが上がっていた。
「何回聴いてんだ!」



「最近、何かいいことがあったのですか」
「そう見えますか?」
 僕を描く小百合さんに訊き返した。
「とても、前に進んでいる人のような顔をなさっていますから」
 なんと返していいのかわからない。
 ただ、彼女の言う通りだ。なんだかんだで、僕と伊能はうまくいっている。といっても、常に一緒にいるわけではない。今ごろ彼は僕のスマートフォンの中で、般若心経のラップを練習しているはずだ。ここに来る途中スマートフォンから、「YO、観自ィ在菩サッ」とか聞こえた。
「ところで、小百合さんはどうして美大に?」
 話を変えてみた。考えてみたら、僕は彼女のことをあまりよく知らないのだ。
「趣味の一環です。多趣味なもので」
 大学で受ける教育を趣味だと割り切るとは。習い事くらいの感覚なのかもしれない。
「何を勉強するというのです」
 小百合さんは天才かと思うほどに絵がうまい。デッサンだけでなく、何でもできる。見たことはないが、多分日本画でもその気になれば描けるんじゃないか。鉛筆も筆も使える。描く絵だって、どれも買いたくなるくらいだ。つまり、すでに芸術家として完成している感があるのだ。今更一体何をしたいというのか。
「まだまだ学ぶことが多いですから」
 彼女は笑った。
「天才なのに?」
「とんでもありません。今でこそ少しは形になっていますが、昨年は酷かったですよ」
「信じられないなぁ」
 そう言うと小百合さんは鉛筆を置いて、「今日はこのくらいにしましょう」と言った。
「それより、一緒に見てもらいたいものがあるんです」

 小百合さんが僕に見てほしいものとは、今まで描いた絵だった。絵の左下にある日付から、いつ描いたものかわかる。去年のものは、とてもではないが上手だとは言えない。それに、絵に対して真剣さがないというか、今の彼女のような凄味がないのだ。
「これは一体、どういうことですか」
 この絵を描いた人と、今の小百合さんは別人だとしか思えない。
「酷いでしょう?」
 頷いていいものか迷うが、確かにひどい。
「上達、したんですね」
「私もそう思います」
「ただ、あの、小百合さん、ひとつ気になったことがあるんですが」
 これは去年に限らずすべての作品に言えることだが、なんというか――
「あの、この辺の作品、本当に完成してます?」
 小百合さんは赤くなった。
「実は私、結構飽き性なんです」



「いよいよ、2月か」
 伊能が言った。
「うん、そうだね」
 僕の受ける美大は、今月末に入学試験がある。
「私がお役御免になるのも、近いかもしれないな」
「どういうこと?」
「最初に言っただろう、我々ガイドは、お前たち地上の人間が願いを成就させたとき、お前たちのもとから去らなくてはならない」
「それはわかるけど、まだまだ僕の願いは叶っていないだろう?」
「そうだな。だが、私にはわかる。お前はもう、かつてたどり着きたいと願った場所の半ばには来ている。今までの半ばと比べて、これからの半ばはもっと楽に歩めるはずだ」
 僕は複雑な気持ちになった。
 最近僕は、受験という目的を超えて、たくさんの絵を描いている。小百合さんとスケッチハイクに出かけたことも何度かある。勉強だって欠かしていない。ただでさえ教養の高い伊能だけではなく、意外にも理系科目にむちゃくちゃ強い小百合さんにも勉強を教えてもらっている。
 僕は、惰性で生きる動物から、人間になったのだ。
「案ずるな。お前が呼べばまた会うこともあるかもしれない。もっとも、今ほど頻繁に付き合うことはないがな」
「どうして?」
「お前は、卒業した学校にいつまでも残り続けるのがよいことだと思うのか」
 ちゃんと、先に進まなくてはならないということか。
「もう一度言うぞ。案ずるな。お前は、私がいなくても大丈夫だ。やはりここまで付き合いを続けて正解であった。お前もまた、根気強い性格だと知ることができたからな」
 根気強いと言われたのははじめてだった。でも素直に喜べない。小百合さんの絵の才能のような、誇れるものであればよかったのに。
「何かわかりやすい才能があればよかったんだけどね。根気強さを活かせるような」
「根気強さそのものが才能だ。漢字をよく見なさい。すべての根本になる気力を持っているということだ。お前は、私から多くのことを学んでくれた。我々が始めて出会った日と比べてみなさい。お前は、自分の才能ひとつでここまでやってきたのだ」
 不覚にも僕は胸が詰まりそうだった。
「それを言えば、あんただって」
 ただ愚直に、四千万歩を歩いたという人に勝てる気はしない。
 伊能は得意そうに笑った。だがその言葉は、温かいものだった。
「お前はまだ若い。お前が私くらいの年になれば、もっと大きなことをするだろう。
 そうなることを、切に願っている」
 ストレートな誉め言葉が、むずかゆかった。
「お前も私も、同じ才能に恵まれたのだよ。誰もが本来持っていたはずなのに、とても忘れられがちな才能だ。そしていつの間にか、ほんのわずかな人間のもとでしか輝かなくなる。あまりにも小さく、繊細なのだ。異能、と言っても過言ではないだろう」
 僕はへっ、と笑った。
「伊能の異能か」
「うわぁ……」
「そういうのやめろって」



「今日はお話したいことがあるのです」
 小百合さんは言った。
「今日は、絵は?」
「描きません。それよりもお話ししましょう」
 話はいつもしているはずだが。
 話――まさか。
 あ。やばい。ドキドキしてる。
「今まで、ずっと黙っていたことなんです」
「はい」
 そりゃ、黙っているでしょうね。
「実は、私も晴人さんと同じなんです」
 同じ気持ち、ということか。心臓が早くなる。
「あなたのガイドは、何という名前の方なんですか?」
「えっ」
 彼女のほうを見た。彼女は真顔だった。
「どういうことですか?」
「隠さないでください。あなたも、偉人とコンタクトが取れるのでしょう?」
 えっ、と声が出た。
「つまり、あなたも、偉人のガイドがいるということですか?」
「はい。私のガイドの名は、レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ――通称、レオナルド・ダ・ヴィンチと呼ばれています」
 彼女は流暢に、恐るべき偉人の名前を口にした。
「レオナルド・ダ・ヴィンチなんですか!?」
「ええ、そうなんです。一年前、どうしても絵がうまくなりたいって祈ったんです。でもどうせなら、理科とか数学も得意になりたいですって祈ったんです」
 彼女は押しが強い。はっきり、図々しいって言ってもいいかな。
「そうしたら、ダ・ヴィンチが?」
「私の人生は一変しました」
 そうだろうな。
「よかったら、彼に会ってみてもらえませんか?」
「喜んで」
 光栄だ。ダ・ヴィンチ、彼はおそらく、かつてこの地球に生きた人間の中で、もっとも多才な人物だったと言えるだろう。彼はきっと、僕にも強い影響を与えてくれるに違いない。
 彼女はスマートフォンを取り出した。「ちょっと待ってくださいね、カメラを反転させますから」
 カメラを反転させると、スマートフォンを覗き込んでいる人の顔が映るようになる。こうすれば、画面の中にいる偉人と面と向かって話ができるということだ。
「どうぞ」
 彼女はスマートフォンを台に固定し、画面を僕に向けた。
 髭の生えた老人が現れた。
「少年ハァハァ」
「人違いです」
 僕はスマートフォンの電源を切った。
「小百合さんも冗談がお好きですね」
「本人なんです。すみません、あんな感じで」
 小百合さんは申し訳なさそうに、スマートフォンを立ち上げた。アプリを起動し、現れた老人を怖い顔で叱った。
「ダメじゃないですか」
「すまない。つい興奮してしまった」
 もう会わないほうがいい。僕は今日のことを忘れるし、レオナルドさんも忘れてください。それでいいでしょう。
「そういうわけにはいかないんです。だってこれからも、お付き合いを続けないといけませんから」
 お付き合いという単語に反応してしまう。
「どういうことですか?」
「わしらガイドは地上の人間を手助けするだけでなく、この世に残した願いをすべて解消しなければならないのだよ」
 答えたのはダ・ヴィンチだった。
 どういうことだろう。そんな話は聞いたことはないけれど。
「つまり、あなたたちは無条件に僕たちを助けてくれるわけではない、ということですか?」
「そうとも言える。もっとも、無条件に助けても構わないがね。その場合、自分の課題は消化できないことになる。そうすれば、また別の人間に手伝ってもらう必要が出てくる。だからこそ、自分が手助けするのと引き換えに、人間に自分の手助けをさせる契約を結ぶことが多い。私と小百合のようにね」
 それを聞いて、僕は変だと思った。
 伊能は僕に何も要求していない。三角関数の学習を推してくるくらいだ。それも、願いと言うよりもやや強引な勧めでしかない。
「あの、僕、ガイドに何も言われてないんですが」
「変わったガイドだな。何度もこの地上に呼び出されるようなガイドであれば、もう自分の願いは達成しているとも考えられるが」
 そんなことはないはずだ。自分で不人気と言っていたのだから。
「だとしたらそれは、その者が課題を解消する気がないか、君に遠慮をしているかのどちらではないだろうか」
 とてつもなく大変なことを聞いてしまったような気がする。
 ダ・ヴィンチの言うことが本当ならば、僕は自分の願いだけを叶えてもらっていることになるじゃないか。
「小百合さん、僕、帰ります。ごめんなさい」
「おい少年、君の裸を――」
 僕は、スマートフォンの電源を落とすために手を伸ばした小百合さんに一礼して、急いで彼女の部屋を出た。



 部屋を出てすぐ、スマートフォンのアプリを開いた。BL伊能が出てきた。
「伊能!」
「どうした大声出して」
「あんた、自分の課題は!?」
 伊能は驚いたような表情になった。顔の右上あたりにトゲトゲした弧のようなものが出てきた。しかし空気が読めていないと察したのか、すぐに消えた。
「……なぜ知っている」
「別のガイドから聞いた」
 伊能はそうか、と呟いた。
「それは、もうよいのだ」
「いいわけないだろ」
「井沢。お前は、歴史上の人物としての伊能忠敬をどう思う」
 何を言っているんだ。
「井沢。私は、日本を歩いた。そして、正確だと謳われる地図を作った。だが、それだけだ。しかも実は私は、その地図を完成させられなかった」
 知っている。伊能忠敬は地図の完成を待たず、肺炎を起こして亡くなった。地図を完成させたのは彼の弟子たちだ。
「それだけではない。私は父親として、未熟だったのだ。息子がいたのだが、私は彼を弟子として厳しくしつけた。結局どうなったか。私は、あいつを破門にし、勘当したのだ。本当は、そんなことはしたくなかった。私の歩いた道のりを、私のしてきたことを、あいつにも知ってほしかっただけだったのだが」
 彼がしおらしく語る。
「井沢、気にするな。私の願いは叶えられまい。それによいのだ。せめてこうやって微力ながら地上の人間に協力し、償いだけをして過ごそうと決めたのだから」
「叶えてやる」
 気づいたらそう言っていた。
「絶対叶えてやる。諦めんな!」
 僕は叫んだ。



 叶えるといっても、一体どうしたらいいんだろう。そもそも、彼の願いは、息子にも、自分と同じ道のりを歩いてほしかった、ということだろうか。さっきは熱に浮かされて叶えるとか言ったけどさ、そんなの常識的に考えて無理じゃん。
「そういうわけなんですが、どうしたらいいと思います?」
「そうですね……」
 僕が訪ねたのは、小百合さんだった。あの後、すぐに引き返したのだ。彼女はすっかり困ってしまった。
 小百合さんはチラ、チラと電源を落としたままのスマートフォンを見る。僕は彼女の視線に気づかないフリをした。しかし、やっぱり解決策は出てこない。
「わかりました。わかりましたから!」
 僕はそう言った。小百合さんがスマートフォンを立ち上げてカメラを反転させると、ダ・ヴィンチが現れた。
「ハァー、ハァー」
 僕は親指でカメラを隠した。ダ・ヴィンチはしょんぼりとした。
「レオナルドさん、晴人さんはあなたに相談があるみたいですよ」
 条件は、カメラの前で全裸になることだった。小百合さんには別室で待機してもらうことにした。

「なあ、僕のガイドがさ、無理な願いを持ってきたんだ」
「無理な願い? どういうことかね?」
 お互い真面目な話をしているわけだが、僕は全裸だ。
「あいつは、自分の息子と一緒に、自分の歩いた道のりを歩んでほしかったんだってさ」
 ダ・ヴィンチはふむ、と鼻から抜ける声で言った。
「妙だな」
「なにが?」
「前にも言った通り我々ガイドは、地上の人間を導くほかに、自分の課題も背負ってやってくる。やり残した願い、だな。
 しかし、今回のように極端に言えば時間を巻き戻して叶えなければならないような願いの場合、もう一度地上の人間に生まれ変わったときに叶えることになるのだよ」
 理解するまで、少し時間がかかった。
 言えたのは、これだけだった。
「つまりあいつは、また生まれ変わるってこと?」
 ダ・ヴィンチは頷く。
「そうだ。今度もまた厳格な父として生まれ、素行の良くない息子を抱え、今度こそ息子との関係を作り直すことになる」
「ってことは、僕ができることって万にひとつもないじゃん」
「そこが妙なのだよ。我々ガイドは、自分の願いを叶えてくれる見込みのないものとはそもそも契約しないのだ」
「じゃあ」
「そう。君のやるべきことは、必ずあるはずだ」



 ダ・ヴィンチの話を聞いてから、僕はずっと考えていた。
 伊能と話そうと思ったが、しばらくは考えたかった。家に帰ってから、はじめてアプリを起動して彼を呼び出した。
 確か、息子とうまくいかなかったんだったな。だったら、息子になりきって、仲よくすればいいということか。
「父さん」
「うわっなんだそれ。キモッ」
 違った。
「パパ」
「おえっ」
 やめよう。絶対違う。



 いろいろ考えた。しかし、それでもまったくわからない。最初の「父さん」呼びが一番近かったような気さえする。
「お前が何を考えているのかはわかる」
 伊能が言った。
「だが、その必要はない。私は、こうやって無償で人に尽くそうと決めたのだ」
「お前の考えていることは、わかる、か……」
 僕は呟いた。
 今まで、逆のことを言われることの方が多かった。僕は、変わったのだ。
「伊能。あんたは、裸になる度胸がないんだな」
「なんだと」
 彼が怒るのは、久々のことだった。
「だってそうだろ? ガイドと地上の人間は、協力していかなくちゃいけない。それを破って人間だけを助けるのは、ルール違反だよ。それは、あんたが自分の望みをちゃんと開示しないからだ。裸になって、ちゃんと告白できないからだ」
 何度も裸になった僕だからこそわかる。
「開示する必要はない」
「そうだな。でも、そうすればあんたはまったく前に進めない。じゃあ、言わないとダメじゃないか」
 伊能は黙り込んだ。
「あんたの日本地図作りは、本当は自分自身のためだけのもので、あんたはそれが実は心苦しかったんじゃないのか?」
 伊能がピクリと反応した。
 伊能忠敬が日本地図の作成を決めたのは、実は方便に過ぎない。彼は単に地球の直径を知りたかったのだ。そのために、当時幕府の許可なしでは渡れなかった蝦夷地に行く必要があり、幕府への条件として日本地図の作成を申し出た。出典はもちろんウィキペディアさ。
「もうよいと言っているだろう」
「僕がよくないんだよ。常に一歩引きやがって。あんたが裸になって語ってないってことくらい、お見通しなんだよ。定期的に全裸になってる人間なめんなよ」
「しつこいやつだ」
「根気強いんだよ。地球を一周したあんたと同じで」
 伊能はふっ、と笑った。
 伊能忠敬の歩んだ道のりは、距離にして四万キロメートル。彼は、いつの間にか地球を一周していたのだ。



「受験は、どうなさるのですか?」
 小百合さんが言った。
「さすがに受けないとやばいんで、その日だけは帰ってこようと思っています」
「お金は――」
「小百合さんからもらったお給料で何とかなりますよ。足りなきゃバイトでも何でもします」
 本当は、使わずにいつか返そうと思っていたのだけれど、仕方ない。
「お父様とお母様はどのように説得されたのですか?」
「どうしても日本各地の絵を描きたいんだって言いました。渋々ですが、納得してもらえましたよ」
 昔から、僕は決めたことを曲げないところがあった。両親が案外あっさり認めたのは、そういう僕のことをよくわかっていたからだろう。あと、最近僕が今までと打って変わって熱心に絵を描いていることも、関係あるのかもしれない。
「変わったご両親ですね」
「あなたのご両親ほどではないと思います」
「そうでしょうか」
 僕は、伊能と日本一周の旅に出ることにした。休日を利用して少しずつの旅行となるだろうから、何年かかるかはわからないけれど。お互いそれで納得したのは、気づけば二人とも、お互いの存在が当たり前のものになっていたからなんだろうと思う。
 あの日、結局伊能から願いを聞き出すことはできなかった。ただそれは、伊能自身はっきりと自分の願いを把握していなかったからだ。考えが固まってからちゃんと言うつもりだったそうだが、はっきりしないうちに言うのは申し訳ないと、彼なりに気を使っていたのだ。ガイドの中には、そんな風に自分の願いがぼんやりしたまま、慌てて地上の人間を助けに来てしまうような、おっちょこちょいがいるらしい。すぐに助けないといけないという気持ちが先行して、自分のことを忘れてしまう。本当に、馬鹿な奴だ。
 ――叶えるかどうかは別として、何をしたいのか言いなよ。思いつきでもいいからさ。
 その答えが、自分の観測してきた日本を歩きたい、だったのだ。それが彼の本当の願いなのかはわからない。ただ、きっかけにはなると僕は信じた。
「ところで」
 小百合さんが大きなことを言いだす気配を見せた。案の定とんでもないことだった。
「その旅、私がついていくのはよくないのですか?」
 まずいと思います。
「私自身、晴人さんと離れたくないのです」
 えっ。
 あ。やばい。ドキドキしてる。
「あなたに遠くに行かれてしまうと、私がレオナルドさんとの契約を果たせなくなるのです」
 がっくりして力が抜けた。
「報酬はもちろんお渡しします。担保としてこちらを差し上げます」
 小百合さんが財布から取り出したのは、僕の名前が書かれた一枚のカードだった。
「これ、クレジットカードじゃないですか!」
「ブラックカードです。未成年仕様のため一日1500万円までですが、使い放題です」
「ひゃあああ」
 僕が意識を取り戻すまで少し時間がかかった。

「で、ダ・ヴィンチとの契約っていったい何なんです?」
「えっと……」
 そのとき、小百合さんのスマートフォンの中にいたダ・ヴィンチが口をはさんだ。
「BLの薄い本を作ることだ」
「ご勝手にどうぞ」
 ダ・ヴィンチは聞いてもいないのに語りだした。曰く彼は多才であったが、あまりにも飽きっぽかった。それこそ、絵の依頼主が完成を心配するくらいに。彼は、自分を惹きつけてやまないほどの題材を渇望していた。ついに美少年という題材にたどり着いた彼だが、当時同性愛は犯罪であったため、目的はほとんど達成できなかった。
 しかし、現代ならば違う。その現代で、彼は僕というモチーフに出会ったのだった。
「リアリズムの極致を目指し、私の指導の下、小百合に描いてもらう。あまりにも美しい、地上の楽園となった少年たちの饗宴をね――そう、その饗宴には君の存在が必要なのだ」
「無理です」
「晴人さん、ごめんなさい。まずは服を脱いで――壁にへばりついてくださいますか?」
 小百合さんの声に、僕は絶望した。
305

2016年12月31日 13時04分10秒 公開
■この作品の著作権は 305 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:

この作品はフィクションであり、実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。


◆作者コメント:

はじめにウィキペディアありき。

運営の皆様は冬企画を開催してくださり、
そして読者の皆様は本作に目を通していただき、
本当にありがとうございます。
数多くの楽しい作品が読めることを、
ひとりの読み手としてとても嬉しく思います。
ささやかながら、作品投稿という形で参加させていただきます。
よろしくお願いします。

2017年01月20日 00時57分14秒
+20点
2017年01月15日 23時16分43秒
+20点
2017年01月15日 21時36分42秒
+20点
2017年01月14日 18時36分39秒
+10点
2017年01月14日 14時22分10秒
+20点
2017年01月14日 11時30分26秒
+10点
2017年01月13日 22時53分39秒
+10点
2017年01月09日 18時55分03秒
+10点
2017年01月08日 23時40分19秒
+10点
2017年01月01日 18時45分45秒
+20点
2017年01月01日 17時02分57秒
0点
2017年01月01日 15時37分44秒
+20点
合計 12人 170点

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