或る少年の心 |
Rev.02 枚数: 44 枚( 17,455 文字) |
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町の平穏を、その雪のように白く滑らかな塗装によって象徴していた塔が、真黒な焦土に、荘厳な音を立てて沈んでいく。根元から高熱で融解し、ゆっくりと縮んでいるのである。熱源から発せられる炉の中の色をした閃光は、人の気配のない家々を照らし出す。その光景は、星の見えない、墨汁に浸したような夜空に映え、美しくも不気味に構図をまとめ上げている。 少年は流れるような動きで怪物の懐に入り込み、一見するとか弱そうな細い腕で、怪物の下腹部から内臓を引き抜いた後、灰色の空気を帯びて壊れゆく町を眺めた。怪物は、地面にその身を投げ出して、うつぶせになったまま動かなくなった。塔の頂上を映す少年の瞳からは、冷酷で残虐な精神は感じられず、むしろ、純粋で暖かな輝きを帯びている。しかし、そこに少年自身の強固な意志というものはどこにも存在しなかったのだ。 少年は、彼の身の丈ほどの大きさの瓦礫をやっとのことで掻き分け、何の躊躇いもなく塔の麓へ歩みを進めた。塔の融解が、怪物ではなく、自身の超能力によって引き起こされたものだと、明確に自覚していたからである。 辺りは風の無い冬の海のど真ん中のように、空気が重く、しん、と静まり返っていた。少年の、適度に色あせた朱色のスニーカーで砂利を蹴る音が、静寂を破り、建物の巨大な破片に反響する。 少年はそこで、全身に深い火傷を負った五頭の怪物の死骸を確認し、彼の右頭上にある記憶に目線を遣りながら、指を折って、全ての怪物の処理を終えたかを数える。そして、彼の顔面についた血飛沫と汗とを、マスタードイエローのパーカーの袖でさっと拭い、彼の生涯で最も深い深呼吸をした。 少年は、その場にあった赤煉瓦のアパートの、横倒しになった壁に腰かけ、空に左手をかざす。左腕は、何故か後からやってくる死への恐怖と、もう自分が死の恐怖には怯える必要がないという安心感が、同時に訪れ、せめぎ合ったせいで普段通りには力が入らず、肩の高さまで上げるまでに、痙攣を起こしたように強く振動した。少年のかざした左手から青白い光が仄かに漏れると、無造作に散乱していた瓦礫が風船のように浮き上がり、各々がもといた場所へと、緩い弧の軌道を描きながら飛んでいく。かろうじて惨劇を免れて残っていた時計台の針が、普段の四倍ほどの速さで反時計回りの回転をする。その針が減速し、やがて正常に動き始めるころには、町は崩壊の跡を何一つ残さずにもとに戻っていた。 怪物に対抗すべく作られた組織の構成員の指示で、町の小高い丘に避難していた人々は、その一部始終を目に焼き付けていた。顎が外れたように口を開け放していたり、必死に目を擦っていたり、壊れたように、ははは、と声に出して笑っていたり、十人十色の反応を見せていたが、全員が、彼らの目の前で起こる、神の所業とも呼べる出来事を俄かには信じられないでいた。しかし彼らが、町を奇妙な少年によって、その方法の非常識なことはさておき、救われたのだと解ると、丘を疾く駆け下り、涙を流しながら満面の笑みを浮かべ、掛け声とともに少年の胴上げを始めた。 一方、少年は空中に放り出されて、彼が現在生きていることや、彼の住んでいる町を、怪物から守り切れたことよりも、町人たちが今、彼らが生き残ったことに対してこの上ない幸福を感じていることに、たいそう満足していたのだった。 「拓海くん、ただいま」 愛くるしい少年が、拓海の足に纏わりついてなかなか離れない。 「おお、草太。おかえりなさい」 拓海は少年の頭を、宝石を扱うように優しい手つきで撫でてやり、十分にしゃがんで、少年の背中に腕を回し、全身で包み込む。少年は思わず、ふあぁ、と声を漏らし、恍惚の表情を浮かべる。少年にとって、拓海と触れ合う時間が一番の癒しであり、日々の活力の源である。拓海も草太と触れ合うことで、仕事に忙殺され、疲れ切った体を回復させている。 忙殺されてしまうほどの拓海の仕事とは、怪物に対抗すべく作られた組織の役員をこなすことである。組織に勤務する一般的な人間ならば、この職務を全うするのに、さほどの労力をかけずに済むような内容なのだが、何しろ拓海は、怪物や、それに対抗する超能力の知識をほんの少ししか持ち合わせていなかったため、彼には特別に苦労を要するのだった。はっきり言って、拓海は今のこの職業に全く向いていない。拓海にもその自覚はあり、今すぐ仕事を辞めようと考えたことが何度もあるが、組織に残るように何人もの幹部に説得され、なくなく続けている。 「草太くんほどの戦士の親である桃井さんを、組織から失いたくありません」と言われると、断るに断れないのが拓海である。 今から二年前、怪物たちが侵入してこない屈指の安全な地域だと、国からも認定されていた町の郊外に、草太と拓海は二人で住んでいた。ある日、受けるはずのない怪物の襲撃を受けたのである。しかし、組織の構成員たちの迅速な指示により、一人として犠牲者を出さず、町は存亡の危機を見事に乗り越えた。このとき、六頭の怪物たちを全て殺害したのが草太だった。草太と、ついでに、その養父の拓海は町の英雄となり、町人たちの強い推薦により、草太は、怪物に対抗するために超能力を操る戦士の養成所に、拓海は組織に配属されることとなった。そのために、二人は町の中心へ引っ越したのだ。 拓海は、仕事がうまく運ばず、どうしようもないやりきれなさを感じた時、草太のことを思い出す。 拓海が初めて草太を見たのは、ある夏の晩、拓海が、土砂降りの雨の中、趣味のジョギングをしていた時のことである。 土砂降りで増水した川が、轟音を立てて海に注ぐ。川と海の境目では、黄色と緑色の水がぶつかり合って、水面がこんもりと盛り上がり、水底の細かい粒になった土を激しく巻き上げる。そんな日であっても、拓海はジョギングを欠かさず続けている。大粒の雨が、振り上げる彼の腕に次々とぶつかり、皮膚の表面の細胞もろとも割れていくような感覚は、刺すような痛みを伴うものだったが、嫌いではなかった。 ジョギングの際は、河口の真上を貫く、高さのある大橋を必ず通る。自動販売機を一点に敷き詰めたような明るさの電球をつけた、背の高い柱が、橋の両端に等間隔で並んでいる。ただし、明るいのは柱の周辺のみで、中央を走る道路に車がいないと、橋を挟んで海の反対側に並ぶ工業地帯がうっすらとしか見えないのが、少々気味が悪い。この日は特別、雨が降っているので、雨粒で電灯の光が奇怪な反射をして、所々を中途半端に照らしている。これはこれで厭だ。 一台の、過剰な電飾を施したトラックが拓海を追い越したとき、トラックのライトに照らされて人型の影が正面に映ったのを、拓海は見逃さなかった。不気味な雰囲気のせいで、何かが化けて出たかと思われたが、すぐに、小さな子どもが傘も差さずに、一人で雨に打たれていると分かり、どうした、と声を掛けた。 「僕って、何なんだろうね」 その子が呟いた言葉を、拓海は一瞬たりとも忘れたことはない。その言葉は、雨の音にかき消されずに、拓海の脳に直接届いたように響き、拓海の脳と脊椎の間で何度も行き来し、かみ砕かれ、足の小指の先まで浸透した。 放っておけない性格の拓海は、その子を負ぶって早急に帰宅し、温かい食事と服を用意した。落ち着いた後、その子に名前や住所など、様々なことを尋ねては見たものの、全ての質問に、わからない、と返事をされた。世間一般の大人ならば、そんなはずはない、この子どもは嘘をついているに決まっている、と、切り捨てて、子どもを遠ざけてしまうところだが、拓海は違った。この子には、何かは計り知れないが、ただならぬ事情があるのだろう、と考え、いとも簡単に、その子どもを自分の養子にする決断を下してしまったのだった。後にその子が超能力者だと発覚しても、大して驚かなかった拓海の寛大さを考えると、これも当然の結果だったのかもしれない。 拓海は、名前が分からないという少年に、草太と名付けた。おそらく少年の苗字は彼と同じ、桃井となるので、その苗字の雰囲気に合う名前をあれやこれやと思案した結果、拓海のセンスで決まった名である。 それから、拓海と草太は、共に幸せな時を過ごしている。二人にとって、この出会いは、互いに欠けていたピースがぴったりと嵌ったようだった。二人が初めて出会った時から、そこはかとなく感じていたが、リズムや波長が、ものの見事に合うのだ。食べるときも、寝るときも、何をするにしても、サメとホンソメワケベラのように一緒だった。 彼は、草太が養成所に通うことは当然のように考えている。魚類が海中に住むように、超能力者は養成所に通う。それは草太のためになるうえ、草太だって心からそれを望んでいるだろう、と。草太が養成所に本当に通ってよいものかどうか迷っているとき、最後に後押ししたのは拓海だった。そのために、二人は養成所と組織で別々に行動しなければならない時間が少しできてしまい、拓海は一抹の寂しさを感じているのだが、拓海はそのことについて後悔はしていない。なぜなら、町の危機を救った少年の親であることが、組織の構成員たちや、養成所に通う子どもたちの保護者に対して誇らしく、彼らから草太への憧れを抱く胸の内を明かされたときは、心底満ち足りた気分になるからである。 「今日の夕食はなあに」 「草太の大好きな笊蕎麦だよ」 そう言うと草太は、キャッキャッとはしゃいで、十割蕎麦を打つ拓海の足に、再び纏わりつく。拓海は、そば粉で頭を汚すといけないので、今度は撫でなかったが、少年の頭の高さまで屈んで、自分の頬と少年の頬をしっかりと擦り合わせた。 怪物というのは、ヤツメウナギに四肢の付いたような獣だ。体の側面に付いた巨大な二つの眼球と、その後ろの七つの大小の穴が、何ともグロテスクである。全身が、筋肉が剥き出しになっているかのような、血の赤に染まっている。車のタイヤ程の太さで、三メートルの長さの胴体を、二本の後ろ脚と体の半分を占める尾で支えている。自由な前足には厚い鉄板を貫通する鉤爪が五本生え、また、胴体の太さと同じ大きさの丸い口を持つ。筒状の口の中から、それぞれが意志を持っているかのように蠢く牙を覗かせる。数年前から突然出現するようになり、それに伴って、超能力者が稀に生まれてくるようになったという統計結果が報告されている。なぜ出現したのか。超能力との相関は何を意味するのか。なぜ怪物たちは人間ばかり捕食するのか。ある学者の仮説によると、人間による工業汚染で動物たちが突然変異したものだと考えられており、食物連鎖のパワーバランスを大きく崩壊させた人間を減らすために、人間を主食とする生物が誕生したと言われているのだが、真相は未だに解明されていない。 このように怪物については数々の難解な謎が残されているが、草太にとって、そんなことはどうでもよかった。彼の養父に出会った日以前の記憶は、抜け落ちたものがあったり、大きく前後していたりして曖昧だが、草太は、彼と怪物との何代も前からの因縁のようなものを、微かながら常に感じていた。これらの謎も、仮説を教わらなくとも、口で説明するには語彙が圧倒的に不足しているが、彼が生まれた時から、真相を直感で、ぼんやりと理解していたような気がしていた。 そんな草太にとって、養成所で受ける怪物の生態や、発生について考える講義は、退屈以外の何者でもなかった。最近の研究によると、出現位置がランダムのワープホールのような穴から怪物が湧いてくることも、ワープホールの先には、『裏の世界』が存在し、怪物たちが独自の文明を築いていることも、ワープホールが夜中の二時ごろに出現しやすいことも、草太は感覚的に理解していた。かと言って、その分、超能力を鍛える講義を楽しみにしている訳でもない。それはむしろ、草太にとって最悪の時間である。 同じ講堂の研究生が、高等レベルの能力を淡々と使いこなす一方、草太はそれに付いていくのが精一杯だった。一人だけ明らかに場違いな存在の少年について、表立って何か言う者は無かったが、仲間内で近寄り、鋭く草太を睨む研究生たちの視線に、彼は腹の内から伝播するような冷たさを垣間見た。講義を遅らすな。お前みたいな屑のためだけにやっているんじゃないぞ。純朴で、心の汚れを知らぬ少年にも、彼らの言わんとしていることは、嫌でも痛いほどに伝わる。 草太が世界でも最高水準の能力を持つことは間違いないのだが、養成所の中では、彼の能力が最大限に発揮されることはない。 超能力について、その日教わったことの実技試験が、講義の最後に行われた。研究生が教官に一人ずつ名を呼ばれ、講堂の正面の舞台に移動し、教官と一対一になる。多くの研究生たちが楽々と合格していく中、草太の試験は意外性を極める内容となった。 「桃井君、前へ」 草太は真顔を保ち、足音を立てず、速足で舞台上へ向かった。これを見ている研究生たちの騒めきと、草太の心のざわめきが、不協和音となって、草太の喉元をこだました。教官が、テーブル上の林檎を念動力で左右に移動させるように言うと、草太はこう言い放った。 「それは、それで拓海くんに良いことがあるからするのですか」 あまりの意味不明な発言に、講堂の中にいた一同は嘲笑の言葉の一言すら出てこなかった。 「いいですか、これは試験です。あなたの達成度を記録するものなのです」 「記録するのは、それで拓海くんに良いことがあるからするのですか」 終に草太はこの日の達成度を記録しなかった。 草太は自分のペースを乱されるのを極端に嫌う。だから、能力の高い者だけでなく、要領よく超能力を使うことができる者も集う養成所の、恐ろしく進度の早い指導方針とは、草太は肌が合わなかったのだ。 また、草太にとって、拓海が居ない環境で力を発揮することは、多大なる努力を要することであった。 彼は、自分が授かった超能力が何のためにあるのか幾度も考えたことがあるが、明白な答えは未だに出ていない。だから、養子として引き取ってもらった恩もあって、その能力は拓海を喜ばせるためのものだと考えた。自分に超能力以外の取り柄が無いと思い込んだ草太は、自分の存在理由と超能力を、直接結びつけた。これまで能力の用途が今一つ呑み込めていなかった草太は、自分自身の上にあった、生きる意志を見失ってしまった。そしてそれを、拓海の上に再発見したのである。 拓海のいない環境は、草太にとって、世界が存在しないも同然なのだ。無論、草太の超能力も殆ど存在しない。 それでも拓海に、凡そ二年に亘り『英雄・草太』を無茶して見せ続けようと奔走する内に、草太の心は彼が気づかぬ間に、ボロ雑巾のように解れ、裂け、終には迫りくるプレッシャーに圧し潰されていた。 草太の中の一人の少年は、既に限界だった。 草太が超能力の世界から足を洗いたいと言い出してから、実に三日が経過した。勿論、養成所も欠席している。このような弱気な草太を、これまで拓海は見たことが無かった。それに面食らったのと、自分の提案に快くついてきたはずの草太に、拓海の仕事での苦悩を顧みずに、潔く裏切られた心地がして、腸が煮えくり返る思いだった。拓海は和室で丸まった状態で寝転ぶ草太に、有りっ丈の憤怒をぶつけた。 「おい、草太。超能力から身を引くというのは、一体どういいうつもりだ」 「ごめんなさい」 「謝られようと思っているんじゃない。どういうつもりでそんなことを言うのかを訊いているんだ」 「本当にごめんなさい」 「草太は、あの怪物どもを蹴散らす、一流の戦士になるんじゃなかったのか」 「ごめんなさい。あのね、僕ね、今は一人になりたいんだ……。本当にごめんね」 草太は、彼が滅多に使わない自分の部屋へ徐に向かい、安っぽい木目の扉の奥に消えた。そして、扉を僅かに開け、そこから顔だけ出してもう一度、本当にごめんね、と言い残して、今度こそ部屋に閉じこもってしまった。 拓海は草太を見届けると、その場にへたり込んで、草太をこんなにしたのは一体何者か考えると同時に、自分に心を閉ざしてしまった草太に落胆した。拓海自身は気づいていないのだが、それは純粋に、草太への愛を裏切られたことに対するものでは無い。拓海は自分が、草太の親としての立場を利用して、同業者たちからの信用と尊敬を集めようという、邪な考えを持たないとは言い切れなかった。拓海は、明日の仕事場と、開催される養成所の説明会のことを思うと、気がどんよりと重くなった。 拓海の仕事場と、説明会での言われ様は、散々なものだった。これまで拓海に媚びるように立ち回ってきた構成員や、養成所に通う研究生たちの保護者が、掌を返した。ドロップアウトするような息子を育てるなど、親として失格だ。息子とは血が繋がっていないからか、超能力に対する理解が甘すぎる。悔しかったが、どれも実に正鵠を射た意見だったので、拓海は何も言い返すことができなかった。草太という強大なバックアップが居なくなった後に残るのは、平凡で無力なただの一般人であり、そんな者に組織の幹部が敬意を払わないのも当然である。初心を忘れ、虚栄心を暴走させた拓海は、自分が草太の威を借って、組織で大きな顔をした素人だったということにようやく気が付いた。そして、草太の意志を確認せずに、養成所に通わせたことを悔やみ、自分が一回も草太に物事を決定する権利を与えなかったのを思い出した。草太に自我が芽生える機会を、自分が反故にしてしまったのではないか。最悪の想像が拓海の脳裏をよぎった。 草太は、丸一日、見慣れない自分の部屋の中で、拓海との口論についての考察を重ねた。拓海の激昂は、草太の幸せを末永く願うが故の愛の鞭だと解釈した草太は、拓海の、海のような優しさに胸を打たれ、今すぐにでも二人の信頼関係を修復したい気持ちに駆られた。しばらくはその衝動を抑えることができたが、とうとう居ても立っても居られなくなり、草太は家を飛び出し、説明会の場を設けられた養成所へと、全力で疾走した。 今日の養成所は、研究生たちは立ち入りを禁じられている。しかし、野望に燃える草太を踏みとどまらせる障害は、もはや何も無かった。裏口の薄赤い外壁の傍でしゃがみ込み、機会を見計らって、鉄の鎖を跨いで通路へ飛び出す。顔見知りの教官に発見されない内に、すかさず黒い柱の裏に身を隠す。教官が立ち去ったのを確認してから、説明会に使われる部屋の黄色い扉に聞き耳を立てる。 そこで草太が聞いたのは、拓海に対する容赦ない罵詈雑言であった。自分が養成所に通わなくなったことが、かえって拓海の顔に泥を塗ってしまっていた。 草太は、拓海が、養成所で著しい活躍を見せない自分を快く思わないから、超能力者としての道を、きっぱりとかなぐり捨てたつもりでいた。しかし、いざ草太が養成所に通わなくなってしまうと、拓海の、組織の大役としての顔が立たないので、結果的に草太に憎悪が積もっていくというジレンマに、草太は捕まったのである。 自身の能力を、拓海を喜ばせるために有効活用できないと見た草太は、またもや希望の光を失ってしまった。 草太が家に帰る道すがら、彼の足取りは錘を着けたかのように重かった。帰る家がもはや、安息の地で無くなってしまったからだ。普段なら鮮明に、緑や橙の光を放つ商店の看板も、道を行く車も、住宅も、あらゆる物体が、草太の眼には、彩度が失われ、幾重にも残像を帯びた粘土の塊のように映った。 『今日は帰れない』 そう思った矢先、正面の道の角から、赤色が草太に迫ってきた。揺れる数多の無彩色の中にある真っ赤なものは、殊に彼の視界に存在を主張する。草太は目を凝らして、やっとのことで一人の女性を発見した。草太が発見したというよりは、彼女の方が一方的に、草太の視界を占拠し、その存在の大きさを段階的に増している。黒い革靴に深紅のスーツをまとい、金髪で褐色肌の美しい女性である。 「坊や。私があなたの灯になってあげるわ」 草太はこの女を一切知らないうえ、彼女の台詞は、どこぞの演劇の脚本からそのまま引用したような、奥行きのないものに感じられた。しかし、今の草太には、妙な信憑性を帯びた響きを伝えもした。草太には、彼女には、自分の心の抱える疾患など知る由もないのだと分かっていたのだが、彼女の掛ける思わせぶりな言葉は、少年の純朴な好奇心を擽るのには十分妖しかった。草太は、女に言われるままに、彼女の後を付いて回った。 喫茶店で、その女と草太は、何気ない世間話から、超能力の在り方や可能性などの深い話題まで、二人で様々な会話をした。女は、少年が言わんとすることを、言い終わらない内に理解し、彼が強い共感を得られるような答を瞬時に返した。これは彼女が、頭の切れる人間だから成せる業というよりも、これから少年が何を言うかさえ見切っている、といった調子だ。草太は、彼女になら自分の心が見えると確信した。そのうちに気を許し、拓海との確執をどうすればよいのかも相談した。 「壊れてしまった関係は、超能力では元に戻せないのよね」 草太が頑なに取らなかった耳栓を、彼女がそっと外した。少年は、拓海との信頼関係が崩壊する音を、この時初めて明瞭に聞き取った。信頼関係の崩壊。草太には、女との会話で束の間の安らぎを得、揺るぎない事実から目を背けることはできた。しかし、現実は、何時、如何なる時もそこにある。 解りたくなかった。 彼女に感じた安らぎが一時的であったのは、草太自身の中に、どうせうわべの関係だという深層心理が存在したことを物語る。草太は、自分が拓海を諦め切れない愚かさを憎み、拓海が自分をいかに癒していたかを、改めて痛感した。 暫くの沈黙が流れる。一口飲んで、皿の上にカップを戻した直後のドリップコーヒーの液面に映る草太は、キュビズムの絵画のように不規則な変化をして、やがて、いつもの草太に戻る。 「私で良ければ、坊やの力になりたい。あなたの能力を十分に活かせる場を用意させて」 草太は、この女性が自身の痛みを和らげ得る存在になるならば、初対面であろうが関係ないと割り切った。少年の繊細な心は、たとえ目先の物だったとしても、何よりも心の拠り所を欲していたのである。 その日から草太は、彼女のために超能力を使うことで、彼女にとってかけがえのない存在になれるように努めた。そうすることで、草太は自分が孤独なために負った深刻な傷を回復できると考えたからだ。すると、結果的には自分自身の幸福のために超能力を使うことになる。ただ、少年は自身の能力の価値を未だ呑み込めていないが故に、その論理構造を理解しかねた。だから、彼女のためだと信じて止まないのである。それは少年の、彼女に対する飽くなき信仰心の元凶とも言える。見れば見るほど、歪な関係である。 女の生活が、草太の超能力で豊かに彩られると、彼女の笑顔が花火のように弾ける。その瞬間は、草太は幸せな物で満たされ、よく、樽をワインで一杯にするような、しっとりとした高揚感を味わう。しかしその後は、彼女にとって必要なのは自分ではなく、超能力自体であることに気が付き、はっきり目覚めているのに、悪夢に魘される感覚に襲われる。それを癒すのも、彼女の笑顔である。だから使役し続ける。 拓海もこのようなモチベーションで、いつも仕事に臨んでいたのだろうか。 草太は彼女の言うことならば、いかなる物でも、忠実に完遂する心構えだった。そんな生活を、二人はしばらく続けた。 草太が女の欲求を超能力によって満たし始めてから一週間がたった頃から、彼女の要望が妙な方向へと走り出した。窃盗や、特定の人物の傷害、脅迫、監禁。草太には、自分が手伝っていることが、法に触れる類の物だとは、まだ知らなかったが、していることの非人道性は直感で分かった。二人のこの関係に、草太は拭い切れない違和感をはっきり見ていたが、自分が救われ、彼女が、自分の能力によって幸せになるのなら、そんなものは些細なことであり、特には気にならなかった。 女の課す任務の内容は次第にエスカレートし、殺人を要求されたときには、流石の草太にも、完璧にこなすことを憚られた。 二人の乗った黒塗りの車が、何台も並ぶ漆黒の車の列の、最後尾に付くようにして停止した。女の慎重な運転だった。二人が降りた先は、古日本風の建造物である。瓦屋根、木製の四角い柱、白い外壁など、伝統的な建築手法をとったその形は、周囲にノスタルジーを醸していたが、よく手入れされた植物や、近代的な光源を使用した灯篭が、それを中和し、全体として現代に溶け込んでいた。 建物の入り口の方で、草太は暫く待たされる。女と、建物から出てきた和服の女性が挨拶を交わし、ごく自然なやり取りをする。和服の女性が中に引っ込み、女の合図で草太も中へ入る。その先は、木の板を張った廊下が延々と続き、壁は一面襖だった。襖の奥からは、微かな焼き魚と酒の匂いと、賑やかな声が漏れている。草太は、彼女の着ているスーツが、いつもの赤色ではなく白かったことと、彼女が黒髪のウィッグを着用していたことを、単なる気まぐれとしか考えなかった。 「ここよ」 彼女は奥から五枚目の襖を指差して立ち止まった。 「この奥に、黒いスーツのオジサンたちが何人かいるから、その人たちを全員殺すのよ」 「殺すって」 草太はこれを躊躇わずには居られなかった。超能力で人を傷つけたりするのは経験したが、その後は必ず、傷を治療し、その人の記憶を消去して解放していた。何者かの生命を絶つことは決して無かったのだ。怪物が相手ならば、背面を割いて肺を引っ張り出すことだって出来るのだが、人間を怪物と同一視するのはとてもできなかった。 「なによ。オジサンの黒くてダサいスーツを赤に変えてあげるだけよ」 「いや、血とかが出ないやり方もあるから、そうなるとは限らないけど……。殺すのはあんまりじゃないかな」 今までは、特定の人物から情報を聞き出すのを主だった目的としていたから、相手を、手間を掛けて殺害する必要はなかった。草太は、今回は、相手がこの世に存在してはいけない程の理由が有るはずだと考えた。草太は、それを彼女に尋ねた。理由次第では、自分の良心を押し殺してまで、任務を遂行しようと思っていた。 「この奥にいる人たちはね、私たちが働いて稼いだお金を少し貰う代わりに、私たちの暮らしを豊かにするために色んなことをする人たちなの。だけど、このオジサンたちは私たちに内緒で、仕事をサボって遊んでばかりいるのよ。全く困りものじゃない。この人たちがいると、私たちも安心して暮らせなくなるかもしれない。だから殺すのよ。簡単なこと」 草太は生来、自分で働いて金を稼いだことが無かったし、国を動かすほどの権限を持つ人々の話は、草太の周辺の環境とはかけ離れていたので、実感が湧かなかった。だから、女の言うことが、人を殺してもいい理由になるとは思えなかったのだが、彼女の命に背く理由になるとも思わなかった。人を殺めるのに抵抗を感じるのは草太のみであり、草太がどう考えようが、女の知ったことではない。今の草太は、彼女の一部のようなものなので、殺さないという選択肢はなかった。 「殺すのよ」 草太は、出来るだけ現場をこの目で見なくて済むように、部屋の外から彼らを殺害した。その部屋の中の気温だけを、絶対零度まで低下させたのである。 このようなことを、草太はそれ以降も何度かこなさねばならなかった。その度に、体温のある舌に全身を舐め回される感覚が、草太を襲う。生身の人間という現実味が罪悪感へと昇華し、草太を足元から蝕んでいるのだ。しかし、女の命令をこなして、草太の心が孤独から救われるのなら、それでもよかった。 さらに一週間が経ったが、草太はまたもや、今の自分の生活に耐えきれなくなっていた。彼女のために生きる、否、彼女に生かされるのだと決断してから、時間はそう経過していない。これまで、殺しは自分の人道主義に反するのに関わらず、騙し騙しやってきたが、今日になって草太の感じていた、この生活への違和感が爆発した。草太は、自分で決めたことすら長くは続けられないことに、情けなく思った。また、自分自身を、自分で物事を決められる優秀な人間だと思い込んでいた傲慢さに苛立った。そして、終に彼女の下からも去ってしまったのである。 草太は、女が十分に寝静まったのを確認し、マンションの一室を後にした。いつもならエレベーターで地上に降りるところなのだが、夜中特有の蛮勇と興奮によってか、少年は階段を選んだ。折り返し階段は照明がすべて消灯され、暗くて足元が覚束ないが、少年は、今なら階段を踏み外しても大丈夫な気がして、闇の中を落ちるように駆け下りた。踊り場は、僅かな月光で青白く色づいている。階段を下り切ると、車が十台は停められる駐車場へ出る。一〇二号室だけが空で、その他は全て停車してある。白線を守らずに、自転車を雑然と停めた小型の駐輪場。出口の正面に見える三台の自動販売機。それに白く照らされる、シャッターの降りた煙草店。周囲は視覚を刺激する物ばかりなのに、それらからは音一つしなかった。辺りは、少年が、体内が発している音が鮮明に聞き取れるほど静かだった。 少年は町を当てもなく彷徨い続けた。車が滅多に通らないので、車道の真ん中を堂々と歩いた。少ない電灯だけでなく、コンビニや、二十四時間営業の店舗の灯、様々な看板の光を頼りに、夜風の吹いていく方向へひたすら進む。 大通りから逸れて脇道に一本入ると、極端に光量が少なくなった。偶然道を通った車がライトで照らすのを見ると、この辺り一帯は工業地帯であった。コンクリートが中で掻き回されていると思しきタンクだけが、無人で動き続けている。大量の角材が地面に横倒しになっている。いかにもマフラーを改造していそうなアメリカ製の車が、持ち主の洗車を幾年も待ち続けている。あらゆる工業製品が雑然と並ぶ工場群を、貫く道を、一陣の風が吹き抜ける。 その道を行くと、車四台は通れる広さの道路が、来た道に垂直に通り、それを渡ると、少年にとってはかなり高い石壁が、道に平行に延々と続く。少年は仄かな潮の香を感じ取った。壁伝いに歩くと、道の途中から電灯が再び現れ始め、橋に差し掛かり、段々と上り坂になる。 橋の頂上から周りを見渡すと、大海と工業地帯を一望できた。海に不自然に突き出した埋立地を彩る電飾の光が、海面にカラフルな縦縞を作り出す。黒く不気味な夜の海に浮かぶ、色とりどりの道は、きっと、埋立地へ直接訪れて眺める電飾よりも、格段に美しかった。その反対側の工業地帯は、漂う闇と一体化して、人間の気配を限りなく無に近づけている。その向こうには、大型のショッピングセンターが一際目立ち、さらに向こうからは、住宅街が山の上まで続いている。部屋の明かりは全て消えている。少年は、いよいよ自分がこの世界に一人取り残された気がした。 その時、一点の橙色が少年の瞳を鋭く照らした。 閃光よりも数秒遅れて、落雷のような音が響き、少年の体全体を細かく揺らした。ショッピングセンターの辺りから業火が上がっている。みるみるうちにその周辺も赤々と燃え始める。ここで、少年の勘が冴え渡った。たとえ今のように遅い時間であっても、泥棒の侵入を防ぐために、わざと電気を点けて就寝する家も少なくない。しかし、今日は住宅街の部屋の光が全く点いていない。埋立地の電飾は変わらず光を放っているから、大規模な停電ではない。きっと、テレビから、一斉に消灯するように伝えられたのだ。住宅が光を発してはならない理由と言えば、ただ一つしか思い浮かばない。化け物から気配を消すためだ。今、町中に怪物たちが闊歩している。 少年はポケットから小型のラジオを取り出し、放送を聞くところによると、組織からも養成所からも、能力者を総動員して、事態の収拾に努めているということだった。それでもこのような状況になるならば、彼らの能力をもってしても、今回の怪物たちには歯が立たなかったのだろうと、少年は直感した。しかし、今居る場所からそれを眺めることしかできなかった。自分の心の拠り所を失った少年の能力、即ち怪物への対抗手段は無いに等しかった。少年は、橋の手摺に重ねて置いた両手に、顎を乗せて寄りかかった。そこから、町が怪物たちの爪に飲み込まれていく様を、何の感情も籠らない目で、ただ眺めた。建物の一つ一つが、線香花火のように輝いては消えるのを繰り返す。少年は思わず、綺麗だ、と漏らした。 「ここに居ると思った」 丁度、拓海のジョギングコース上であり、最初に草太と拓海が出会った場所でもある。 拓海だった。国も慌てる非常事態なのに、政府から出ていた外出禁止令を守らずに、草太の居場所を探し当てた。二人は、普段よりも遠い距離を開けて、互いの顔を見つめあう。 「草太が俺のことをどんな風に思ってくれているかは判らんが、草太。自分の能力は、自分のために使え。俺は、草太がそこに居てくれるだけで幸せだから」 家から忽然と消えた草太のことを、ひどく心配した拓海は、あれこれ考えた末、草太の心に閊える異物の出処を、大方予測を付けていた。それはほぼ的中していた。 草太は、背中から愛が溢れ出しそうになったが、拓海の足に飛び込みたいのを必死に堪え、あくまで無表情を貫いた。草太は自分の腹の内を、拓海に見せまいとしていたが、拓海は草太の無表情からも、有を見出す力に長けていた。拓海も、草太を抱きしめてやりたいのを我慢し、そっと微笑むだけに留めた。二人は、重すぎる愛を捧げ合うことは、互いにとって苦痛となることを察して、適切な距離を保つように努めた。拓海は何も言わずに踵を返し、橋の向こう側の闇に姿を消した。草太には拓海の背中が小さく見えた。 少年は、再び燃え盛る町を眺めた。そして、何度も試みて、その度に断念していたことに、再び挑戦することにした。自分が授かった超能力が何のためにあるのか、暫く考える。 草太はこれまで、自分の能力は、拓海を喜ばせるために備わった物だと考えていた。拓海が先程、能力を自分のために使えと言った。「自分のため」とは、草太風に言い換えると「自分を喜ばせるため」となる。草太にとっての最大の喜びとは、一体何か。それは拓海の幸福である。拓海が自然に幸福になるのを気長に待っているよりも、草太の超能力で、拓海の幸せの原因を作り出した方が早い。すると、「自分のため」とはつまり「拓海のため」となってしまう。ということは、拓海が言っているのは、拓海の幸福を、草太の幸せと結び付けるのを止めろ、ということだろうか。ならば草太は、自分の既に持っている素材のみで、幸福を作り出さねばならない。その素材が超能力として発現しているのだろう。 草太は、自分の存在理由を超能力と直接結び付けていたが、生きていくためのモチベーションとしての幸せと、生きることと、超能力の三者が今、草太の中で複雑な連関を持ち始めた。 草太は自分が生きるために、怪物と戦い、超能力と向き合うのだ。 ただ、草太はまだ自分が何のために生きるのか分からない。何故生きるのかは人類の共通課題であるが、草太は物事には必ず、白黒つけたい人間だった。しかし、今初めてグレーゾーンの存在を許容し、怪物と戦う目的を、自分のためか拓海のためか、はっきりとは分からないままにしておいた。 草太は燃え盛る町を目指し、人気のない工業地帯を抜ける。暖められた風を正面から受けながら、試しに、拓海と草太が互いに依存しあう生活を止めていくのを空想した。たったそれだけで、少年の目にはひとりでに涙が浮かぶ。しかし、それも熱風ですぐに乾いてしまった。 ショッピングセンター正面の太い道路に出る。辺りの建造物は、激しく燃え上がる物もあれば、金属の骨組みだけが虚しく空に向かう物もある。草太は先ず、ある程度の瓦礫を隅に移動し、退路を確保する。草太が今いる地点から確認できる限り、怪物は九頭であった。草太は、彼の傍にあった鉄パイプを、超能力で温度を高めた指先を使って、斜めに鋭く切り、簡易的な槍に加工した。草太の周りをうろつく一頭の心臓を一突きにすると、草太の気配に気付いた怪物たちが一斉に飛び掛かる。草太は、正面の怪物の股の下を滑り込んで抜け、後ろからの突進をマンホールの蓋で防ぐ。すぐに鉄パイプに持ち替え、仰け反った一頭の首を、目にも留まらぬ速さで刈る。 普段の草太なら、十頭程度の怪物を、一度瞬きする間に根絶やしにするのは容易いことであったが、今の草太は拓海から離れ出て、黒い大海原に揺られるようだったので、満足に力を発揮できなかった。ただ草太には、原始的な方法で、海の中で足掻く力は十分に残されていたのだった。 草太は、七頭が一点に固まっている状態を攻撃するのは、分が悪いと判断し、脹脛と踵で前方に飛ぶ体にブレーキを掛け、体は前向きのまま後方に大きく飛んだ。着地点に散らばった瓦礫を浮遊させて、怪物たちへと飛ばした。その内三頭の喉元に破片が突き刺さる。瓦礫をかわし、四頭が再び突進を繰り出す。草太は、怪物たちの動く軌道上の地面を隆起させ、空高く打ち上げた。鉄パイプを拾い上げて床に突き刺すと、そこに一頭が落下し、パイプが腹部を貫いた。もう一頭は、頭から落下し、首の骨折で致命傷を負った。残る二頭は落下の際に受け身を取った。 草太は久方の肉弾戦に必死で、殆ど戦士としての本能によって行動していたが、一部、活動し続けた理性は、今自分は、本当は何のために戦っているのかを探っていた。自分のためのつもりであっても、拓海の言いつけを守って、自分のために能力を使うことで、無意識のうちに拓海の称賛を得ようとしているかもしれない。答えはやはり釈然としないのだが、この戦いが終わった後でも、拓海とそのことについて話し合えば良い。草太は、再び拓海と心を通わすのを夢見て、怪物を惨殺し続ける。 二頭の背中から一瞬血飛沫が舞ったと思うと、そこから二本の、絡みつく赤黒い筋繊維が禍々しい、骨組みが姿を現し、咀嚼音にも似た音を立てながら、骨組みを傘のように展開した。怪物の丈に似合わない程巨大な翼が完成する。二頭は草太を諦めたのか、その場から飛び去って行く。元々が飛行には適さない体格であるから、飛行速度はさほど速くない。草太は怪物たちを空から見失わないように、出来る限りの速度で走って、怪物たちを追った。 二頭が下降する先は、海沿いの船着き場の手前にある工事現場だった。建設発生土の山と、ダークトーンのコンテナが疎らに並ぶ広場に、無数の怪物たちが押し寄せている。その波は、アガット系赤色のコンテナ一点に向かっているらしかった。その上に草太は、部屋で深い眠りに就いているはずの、あの女を見つけた。猛攻をなんとか持ちこたえていた彼女は草太を見かけるなり、草太の耳に必ず届くように、彼女なりの大声で助けを請うた。 「ああ坊や、探したのよ。ちょっとこいつら何とかしてくれないかしら」 しかし、草太は目の前の状況は切迫したものだと知りながら、すぐに行動を起こそうとはせず、彼の左頭上に目線を遣る。彼女は、草太の態度によって自身の中に湧く、処理し切れないもどかしさを、怪物たちにぶつける。考えに考えて、ようやく草太は、彼女の想像し得なかった言葉を吐いた。 「それは、それで僕に良いことがあるからするのですか」 「いやいや、そんな事考えるのは後にしてさ……。あれ、今坊や『僕に』って言った?」 草太は彼女に向かって、照れくさそうに、飾り気のない笑顔を向けた。彼女は困った表情を浮かべつつ、両手を肩の高さまで上げながら、それに応えるように微笑んで見せた。 事態が収束した後は、草太は再び拓海の下に戻り、養成所にも通い始めた。あの後、草太は何とか怪物たちを片付け、女を助け出した後に警察に駆け込み、二人の成した悪事を洗いざらい語った。その時分かったのは、その女は超能力者の一種だったということだ。彼女は、人の心を読む能力を持ち、それを活かして詐欺師として生計を立てていた。怪物の殺害について実用性のある能力だけが、その存在を認められるので、彼女の能力を、組織や草太でさえ見抜くことができなかったのだ。彼女の存在は世界的な大発見であった。彼女以外にも、戦闘以外に有効な能力を持つ人材が多数埋もれている可能性があるので、研究者たちが彼女をサンプルとして欲しい、と申し出た。警察よりも、超能力絡みの組織の方が大きな権力を握っていたため、警察は止む無く彼女を引き渡した。また、草太は二週間の拘留の末に釈放された。一連の事件の責任の殆どを女が負ったため、草太は軽度の身体的拘束と取り調べで済んだのだった。 崩壊した町は、草太の能力で元通りになったが、養成所での草太の扱いも、組織での拓海の扱いも、以前と変わらず酷いままだった。草太は徐々に頭角を現しつつあるが、一度張られた落ちこぼれのレッテルを完全に剥がすのには、途方もない期間が掛かるようだった。拓海は、何か機会が無いと罵られることは無くなったが、構成員たちとの間に分厚い壁を感じた。 これまで通りの日常が緩やかに流れていく中、唯一変わったことと言えば、草太と拓海である。この騒動の前と同様に、草太は拓海を誰よりも信頼しているし、拓海も草太をこの上なく愛しているので、二人が良好な関係を結べていることには間違いない。しかし、愛を確かめ合う一つの手段であった、過剰なスキンシップなどはめっきり途絶えてしまった。また、二人の間には、アクリル板のような、存在しないようで、する壁ができてしまった。二人は壁越しに向かい合って、憂いを帯びた眼差しで、互いの手を合わせる。しかしそれは、草太と拓海の精神が一体となった状態から分離し、今度こそ草太は一人の人間として生まれ変わった、と言うこともできる。これは草太が、大人へ一歩成長したことの副産物であり、拓海と草太が依存し合うことをやめ、徐々に自立へと進んでいる証明かもしれない。拓海は、自分から徐々に遠のく草太のことを思うと、胸が張り裂けそうになるが、息子を一人前の大人へと成長させられるのは、親としての終着点であるから、誇るべきことなのだろうとも思う。親と子の関係は、拓海が草太を橋の上で拾った瞬間に始まったものだ。始まった以上、終わりがあるのは当然である。拓海は霧の向こうにぼんやりと終焉を見据えており、草太は肉眼でそれを確認してはいるが、その正体を明瞭には分析していない。分析したくないのかもしれない。彼らは何時まで理想の家族を続けられるだろうか。束の間の快楽を最後の最後まで謳歌し、堪能するだろうか。この物悲しさを味わって初めて、二人は義理ではない、本物の家族になれたかもしれなかった。 |
bigtemple00 JtDEZ3AQeI 2016年12月30日 22時27分14秒 公開 ■この作品の著作権は bigtemple00 JtDEZ3AQeI さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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