靴ヒモと聖剣 |
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(一) 朝陽のさす室内。 少女は思案顔で見まわす。年のころは十六か、七。質素な水色の衣服をまとっている。 肩でそろえた緩やかに波打つ金髪を、くしゃっと片手でかるくつかむ。 何か考えている時のクセなのだ。 部屋を満たしているのは、地鳴りのような大いびき。その切れ目に、小鳥のさえずりが聞こえる。 「グァゴ~~!!」 チチチ 「ゲゴっガゴっ」 チ 「グォ……プシュゥ」 チー 「グゥア! グゥア! グゥア! ゴァアアアア!!」 チチ、チー (……なんだか、リズムがあってますね) ちらっと横目で部屋の片隅を見やる。 一人の若者が、床の上で爆睡している。上着を脱ぎ散らかし、シャツの胸を大きくはだけ、くるまっていた掛布は片方の足にかろうじて引っかかっている程度。 ズボンがゆるんで腹筋と足の付け根の間のくぼみがのぞき、あと少しでもっと大事なところまで見えてしまいそうだ。 少女はかすかに頬を赤らめ、ぶんぶん首を横にふる。 (ダメっ、よこしまな心を抱いては) もう一度、室内のあちこちに目をやった。 調度も飾りもほとんどない、簡素な部屋だ。朝の陽射しにあわく照らされた木の壁は、わりあい清潔だが、そうとう古びてもいる。 若者からかなり離れたところに、見事なこしらえの剣が無造作に投げ出されていた。 (しょうがないなあ……) 聖剣ジャンブロウ。 かつて若者が仕えたワーゼングレー侯爵家に代々伝わる家宝だ。ぞんざいに扱っていいような代物ではない。 (…………) 少女は窓際のテーブルに歩み寄り、置かれた花瓶を見つめた。けっこう大きな花瓶で、花は刺していない。 そっと持ち上げて、重さを確かめる。 (……手ごろですね) 両手で抱えるようにして、若者の寝ている方に向かった。 ほっそりした少女には少ししんどい荷物らしく、足元がふらつく。 若者の頭の近くに立ち、抱えた花瓶を離した。 「うぎゃあ!!」 若者の額に衝突した花瓶は、見事に二つに割れた。 はね起きた若者は鋭い視線を周囲にくばり、さっと横の方に手を伸ばした。しかし、その手はむなしく床の上を探ることになる。 実に俊敏な動きなのだが、昨夜、酔いつぶれて思いっきり剣を放り投げつけたことを覚えていないようだ。 状況を把握しきるまでの時間、およそ五秒。 「レイチェルっ! ……きさまァ!」 立ち上がり、少女の胸元をつかんで乱暴に引き寄せる。 少女は、きれいな人形のような顔にニッコリと笑みをうかべた。 「私が敵だったら、殺されていましたね、アルベルト様」 アルベルトと呼ばれた若者は、割れた花瓶にチラっと視線を向けた。 「じゅうぶん、殺されてるわ! なんてことしやがる」 茶色のクセっ毛に縁取られた若者の顔は、けっこう整っている。年齢は、二十を少し過ぎたくらいだろう。 その額に、つ~っと真っ赤な血が一筋流れた。 「アルベルト様は不死身ですから大丈夫です。実際、痛がってもいないじゃないですか」 「けっ」 若者は少女を突き飛ばすように離した。 急に両手で頭をかかえ、 「いてててっ! 血が出た大怪我だ、死ぬ死ぬ~~!!」 大袈裟にわめきはじめた。 「そうですか。死にますか」 レイチェルは衣服をなおし、壁際に置かれた寝台まで歩いて行って、隅の方にちょこんと腰をおろす。 「じゃあ、ここで見ていてあげますから、ゆっくりじっくり死んでください」 「おめえなァ」 アルベルトは頭から手を離し、けろっとした顔で少女をにらんだ。 「ほうら、お芝居」 「うるせえっ」 若者は床から革のブーツの片方を取り上げ、大股で寝台に歩み寄った。 少女は座ったまま、若者がブーツをゆっくり持ち上げるのを目で追った。 「ええと……何をなさるのでしょう?」 ゴツッ。 鈍い音がした。 アルベルトのブーツは底が木でできていて、けっこう硬い。 「痛いです~っ」 少女は涙目になりながら、両手で頭をおさえてアルベルトをにらむ。 「うるせぇ、お仕置きだ!」 ブーツを持った手を若者が大きく横にのばすのを見て、少女はびくっと体をすくませた。けれど、逃げたりはしない。 ぎゅっと目をつむって肩をふるわせている少女を、若者はしばらく見つめた。 「……たくよぉ」 吐き捨てるようにつぶやいて、やっとブーツを床に置く。少女の隣に、どっかりと腰をおろした。 「花瓶とくらべたら、こんなもん屁でもねえだろが?」 「わたしはアルベルト様みたいな石頭じゃないですから。とっても痛かったです。泣いていいですか?」 「ゆるさん! 鬱陶しいから、涙ふけ」 「はい」 レイチェルは、ごしごし両の瞳をこする。 「だいたい、どうすんだ、あの花瓶? あ~あ、ものの見事に割っちまったよ」 「どうせ安物です」 「安物だからって、弁償しないわけにいかないだろ? 宿の親父、因業そうなツラしてやがったから吹っかけられるかもしれねぇぞ」 「じゃあ、払ってください」 「バカやろ、そんな金、あるかよっ」 「お金がない? ゴンゴロ湖の首長竜を退治してせしめた三千レシネはどうしたんですか?」 「あれは、昨夜、村のもんにあらかた振舞っちまった」 「振舞ったあ?!」 少女の体がぐいとアルベルトにせまり、今度は若者がのけぞる。 「三千レシネを一晩で?! どこのお大尽様ですか?!」 「……しょうがねえだろ?」 若者は頭をかきながら、急にヘドモドしはじめた。 「腹ァわって話したら、皆いいやつだったんだよ」 「まったく、これだからアルベルト様は……。わたしがちょっとお使いに行ってるうちに妙にドンチャン騒ぎになってると思ったら……」 「戦士は宵越しの金は持たねえんだ! 文句あるか?」 「持たないにも程があります! 三千レシネっていったら、このへんの農家なら一年は暮らせるお金ですよ? ……それじゃ、花瓶の弁償はどうするんですか?」 「ちょっと待て! その件で、なんで俺が責められなきゃいけねぇんだ? それは、おめえの仕業だろ? 責任とって、おめえが払え」 「……だって、わたしはお金なんて一銭も持っていませんよ。アルベルト様、お給金なんてくださらないし」 「じゃあ、稼がせる。おめえのキレイなツラなら、けっこうな金になるぜ」 「ま……まさか、わたしを売り飛ばすんですか? それだけは、絶対にイヤです! アルベルト様から引き離されるくらいなら、舌をかんで死にますっ。ええ、死んでみせますとも!」 「売りゃあしねえよ。俺だって、身のまわりの世話してくれるヤツがいなくなったら困るからな」 「……じゃあ、わたしに何をしろと?」 「そうだな……スッポンポンになって往来で吊るされるってのはどうだ? 通行人から見物料をとるんだ。鑑賞だけなら十レシネ。三十レシネ出すやつには、触ったりくすぐったりもさせてやる。ひひひ、面白れえだろ?……安心しろ、やるのは禁止ってことにしてやる」 レイチェルは寝台から立ち上がって二~三歩後ずさり、自らの体を庇うように抱きしめた。 「よく、そんな鬼畜なことを思いつきますねっ。アルベルト様は本当にやりかねないからコワイです」 「いやか?」 「……いえ。アルベルト様と離れ離れになるよりはマシですけど……」 俯いてしばらく考えていた少女は、やがてキッと顔をあげて、 「わかりましたっ」 きっぱりと言う。 「花瓶を割ったのはわたしですから、レイチェル、どんな恥ずかしい仕打ちでも堪えてみせますっ」 言うが早いが服を脱ぎはじめる少女に、今度は若者の方が慌てる。 「ちょ……待て待て、冗談だっ。そんなことは、させねえってっ」 レイチェルの手が、胸を少しはだけたあたりで止まった。 「本当ですか……?」 上目づかいに若者の顔色をうかがう。拗ねたような眼差しに、わずかに甘えの色がまざっているようだ。 「ホントもホント。俺が嘘なんてついたこと、あるか?」 「むしろ、ついたことのない日が思い出せません。本気でいやらしいこと想像して、やっと思いとどまったでしょう? ……あ、なんで目をそらせて、ヘタな口笛とか吹いてるんですか?」 「いいから、その小っちゃなサクランボみたいなのを、しまえ! 俺は若いんだ、目の毒だ!」 「……わかりました」 レイチェルは服を元にもどした。しばらく俯いていたが、ややあってぷっと吹きだす。 「へへ~目の毒とか言ってやんの。スッポンポンとか、やるのは禁止とか、あらぬことを口走ってた人が」 「なんだと?」 「い・い・え」 少女は若者に歩み寄り、引き締まった筋肉質の腕に細い腕をからませた。 「アルベルト様は、本当はとってもお優しい……大好きです」 「だあ、暑っ苦しい! さっきは鬼畜って言ってたろうが?!」 「世界一ステキな鬼畜さま」 昨夜も若者は、何だかんだ言いながら寝台はレイチェルにゆずって、自分は床で寝たのだ。べろべろに酔っぱらって、訳が分からなくなっていたこともあるかもしれないが。 「……ところで、花瓶の弁償どうします?」 少女は、くるっと現実的な表情にかわった。 「あ、なんなら、わたしが十日くらいこの宿屋の下働きになって、蒔き割りでも水汲みでも」 「その細っこい腕で蒔き割りなんてできるわけねえだろ? いいさ、俺が何とかするよ」 「やっぱ、ちょろい」 「なんだってっ?」 「なんでもありませ~~んっ」 アルベルトは舌打ちし、ブーツを履きはじめた。 レイチェルはもう何も言わず、大人しく身支度をととのえる若者を眺めていた。 若者の愛用のブーツは黒い革を縫い合わせて作られたもので、くるぶしのあたりに小さな穴が一対あいている。そこにヒモを通し、後は適当にぐるぐる巻きつけて縛るようになっている。 アルベルトは穴にヒモを通したところで手を止めた。床にたれたヒモをじっと見つめている。 十秒くらい睨みつけているうちに、額に脂汗が浮かんできた。 ヒモがかすかに動いた。 それはまるで生き物のように、靴の革の表面をつたって足首を這い上がり、ぐるぐる巻きついていく。 最後に、飾りのように洒落た結び目を作った。 アルベルトが、どうだ?と自慢げに、レイチェルに視線をよこす。 少女は溜息を一つつき、 「いつも思うんですけど……それ、手で結んだ方が早くありません?」 「るせっ」 若者が口を尖らせる。 「この力、意外と実用性があるんだぜ。戦闘中に靴ヒモがほどけると、足に引っかかって危ねえだろ? そんな時、手を使わずに結び直せるんだ」 「それはお得な力だと思いますけど……でも、もっと大きな物とかは動かせないんですか? 岩とかを敵の頭にぶつけるとか。あと、手を使わないでドアを開けるなんて、できたら便利ですよね?」 「そういうことは、いっさいできんっ」 若者は胸をはった。 「できるのは、靴ヒモを結ぶことだけだ」 「……小さな異能ですねえ」 窓から涼しい風が入り、少女の金髪をゆらす。それを片手でかるくおさえながら、レイチェルは苦笑するのだった。 (二) 「困りましたなあ……あの花瓶は、ああ見えて、めったにない掘り出し物。少々、お値がはりますよ」 口元で両手の指を絡みあわせた宿の亭主が、苦々しげな表情で言った。 アルベルトとレイチェルは、顔を見合わせる。 「な? 因業な親父だろ?」 「ホントですねえ」 「なんです、こそこそと?」 「いや、なんでもねぇ……けど、そんな立派なシロモノには見えなかったがなあ。だいぶ薄汚かったし、縁んとこなんか、ちょこっと欠けてたぞ、俺たちが触るまえから」 「薄汚く見えるのは味わいというもので、そこにヨダレをたらして高値をつけてくださる方もいるのです。それに、最初から欠けていたとかヒビが入っていたとかって、証拠でもありますか? 全部、あなた方の仕業でしょうが? まったく、なんて乱暴な方たちだ、信じられません」 「野郎、ヒビまで入ってたのかっ?! ぜんぜん気がつかなかった!」 アルベルトが気色ばみ、レイチェルも 「そっかあ、だから、あんなにキレイに二つに割れたんですね?」 やっと合点がいったという表情になる。 「いくらアルベルト様が石頭でも、おかしいと思いました……」 「言いがかりです。ヒビなんて入っていませんでしたよ」 「自分でそう言ったじゃねえか?」 アルベルトは、どうにも納得できないという表情で亭主をにらむ。 「だいたい、だ。そんな高価なもんなら、なんであんなところにポンと置いといたんだよ?!」 「それは、わたくしの勝手です……とにかく弁償していただきます。さもないと、ご領主様に訴え出ますよ?」 「待て、待てっ。そう、事を荒立てんなっ」 「じゃあ、お金を」 「ない」 きっぱりと言い切る。 「は?」 「俺たちゃ、金なんて持ってないぜ」 「お金がない? 昨夜は村人全員に気前よく奢ったり、金貨を配りまくったりなさっていたようでしたが」 「だから、それで全部使っちまった」 「……あなた、バカですな」 亭主も、さすがに呆れ顔になる。 そこは同意です、と小声でレイチェル。 「るせえっ! この宿にも、さんざん儲けさせてやったろうが? それで、花瓶くらいチャラにならねえか?」 「なりませんな。昨夜の儲けは当方の正当な対価です。そこに花瓶代を含めるなんてことをしたら、わたくしが損をしてしまいます」 アルベルトは、うんざりした顔をレイチェルに向けた。 「な? これだよ」 少女も腕組みして、うんうんとうなずく。 亭主がちょっと嫌な顔をした。 「わたくしを金の亡者か何かのようにお思いのようだが、こちらも商売ですからな。爪の先ほどでも人様に情けなんかかけたら、お金はアッという間に逃げていきます。お金というのは、そういうものです」 「大した哲学だな」 「……それよりも、あなた。花瓶代どころか、宿代はどうするおつもりです?」 「宿代ぐらいは残してある。だが、それを払っちまったら、ほぼ、無一文だ! どうだ、驚いたか? グァッハ、ハハハハハハハハハッ!」 「「驚くわい!」」 胸をはって豪快に笑うアルベルトに、亭主とレイチェルの声がハモった。 結局、花瓶代はアルベルトが一働きして返すということで話がついた。 アルベルトは故郷では騎士の称号を受けているが、わけあって国元を離れ、放浪の旅をしている。その日その日の食い扶持は、持ち前の剣技と腕力と出たとこ勝負のクソ度胸で何とかまかなっている身だった。 「まったく、アルベルト様ときたら……今度の竜退治ではけっこうな大金が稼げたから、当分のあいだはそっちの心配はいらないと思っていたのに。呆れました」 レイチェルは村の小道を歩きながら、まだブツブツ言っている。 「ま、そう言うな」 「ねえ、アルベルト様……あの花瓶、どう考えても変ですよ。あの親父に一杯喰わされたんだと思いません? 最初からぼったくるのが目的で、ちょっと触っただけで割れるようにしてあったんじゃないのかなあ?」 「俺もそう思うぜ」 「でしょ? かまうことないから、このまま逃げちゃいましょうよ」 「そうだなあ……」 アルベルトは生返事をかえして、無言になった。 何か考えながら、だんだん人気なく寂れてくる道を黙々と歩いている。 「どうかしたんですか、アルベルト様……?」 「それがな、レイチェル」 「はい」 「例の靴ヒモの技なんだけどな」 「はい?」 「ちょいと練習して、最近じゃ結ぶだけじゃなく、ヒモにダンスを躍らせることもできるようになったんだ。愉快だろ? ……おい、何、つまづいてんだよ?」 「アルベルト様~!!」 「で、でけえ声だすな」 「だからそんなの、愉快でも役に立ちません! てか、そんなに愉快なら、わたしの裸よりそれでお金稼いでください!」 「ははは、俺はおめえの裸のが、いいな。その小っちぇえオッパイが可愛らしくて好きなんだ」 「しまいにゃ殺すぞ」 そうこうするうちに村をはずれ、あたりの景色は樹木が多くなり、遠くの方で得体の知れない動物の鳴き声が聞こえたりしはじめた。 「ところで、お仕事ですけど」 「ああ」 「ベラサマサラ谷七人衆のモモンガが盗賊団をひきいて、近頃、このへんの村々を荒らしまわっている。民たちが苦しんでいるから退治してほしい、っていう依頼でしたよね」 「その説明っぽさ、何とかならねえか?」 「とにかくっ。モモンガっていったら、物凄く強い上に、異能者だっていう噂ですよ? すいぶん気楽に引き受けてたけど、勝てるんですか?」 「さあな? まあ、何とかなるって」 雲一つない空にむかって笑いながら言うアルベルトに、レイチェルは、 (ダメだこりゃ。この人の頭の中が、あの青空みたいだわ) という表情を向けるが、口には出さない。 (三) やがて、二人の行く手に廃屋となった古い礼拝所が見えてきた。 「あそこが、モモンガのアジトなんだな?」 「そうらしいです。ちょっと、様子を調べてきますから、ここに居てくださいね」 レイチェルはふっと姿を消した。 いつものことだ。 戦いの前に素早く動きまわって、敵の人数や配置などを偵察するのは、身が軽く機転のきく彼女の役割だった。 「ふわあ、相変わらず、マメなやつだ」 アルベルトは大アクビして、ごろんと横になった。 まだ、昨夜の大宴会の酒が残っている。二日酔い気味で、体がだるいのだ。 「ちょうどいいや、ひと眠りするか」 太平楽に、両腕を枕にする。しばらくすると寝息を立てはじめた。 束の間の時がながれる。 風がそよぎ、草がゆれ―― 一羽の蝶がひらひらと飛んできて、若者の鼻に止まる。 若者は目をつむったまま、わずかに唇を動かした。 「……どうするんだ? やるのか、やらねえのか」 静寂。 ややあって周囲の茂みから、武器を手にした五人の男が無言で姿をあらわした。 寝転がっているアルベルトをじりじりと取りかこみ、三日月型にそった大刀やら、鎖につながった棘付きの鉄の玉やら、切っ先が三つに分かれた槍やらを振りかざす。 アルベルトは片目をあけて、ニヤリと白い歯をのぞかせた。 一分後。 パンパンと両手をはたくアルベルトのまわりに、五人の男たちが横たわっていた。聖剣ジャンブロウには手も触れていない。腰の鞘におさまったままだ。 (レイチェルの偵察は、あんまり役に立ったことがねえんだ。いつも、無駄に細けえ風景画みたいな見取り図つきで、敵の配置を教えてくれるんだが。そんな手数のかかるもん作ってるうちに、俺が敵を全部片づけちまうんだよな) そんなことを思いながら、ゆっくりと礼拝所に向かって歩きはじめる。 (戻って来るまでここを動くなって、レイチェルには言われたが。どうやら、そう暢気にかまえてもいられねえよなあ? すでに敵はこっちのことを勘づいてるようだ。なら、先手を打つしかねえな) 若者の口元に、獰猛な笑みが浮かんでいた。 さびれた建物を目前にして立ち止まると。 崩れかけた壁の割れ目、窓、裏手の方。あちこちから、わらわらと二十人以上の賊徒が姿をあらわした。 そして、正面の入り口に。 灰色の衣服と、それ以上に陰鬱な闇を全身にまとったような長身の男が、ゆらりと姿をあらわした。 (ふん。こいつが、モモンガか?) ぞくっとするほど禍々しい気配を感じ、アルベルトは顔をしかめた。 (けったくそ悪い歪んだ気だ。まちがっても、こいつとは酒を呑みたくねえな) 「貴様、たった一人で、ノコノコやって来たのか? 何者だ?」 男が、押し殺したような声音で問いかけてくる。 「人に名を聞くときは、まず自分から。それが礼儀ってもんじゃねえのか? ……けど、悪党にそんな道理は通用しねえか。まあいい、俺はバージェスのアルベルトってもんだ」 「バージェス……」 その地名を聞いて、男の目つきが鋭くなる。 「んで、そっちは? ベッチャラマッチャラ谷のミミンガとかってのは、おめえだな?」 「野郎、ふざけんな! こちらのお方はベラサマサラ谷のモモンガ様だ!」 取りまきの一人が凄む。 「どうでもいい。今日でこの世からおさらばしてもらうから、名前なんざ覚えたってしかたがねえ」 「ふざけやがって!」「おさらばは、そっちだ!」「一寸刻みの嬲り殺しにしてやるから、覚悟しやがれ!」 口々に安っぽい脅し文句を並べる手下達を、モモンガがかるく手で制した。 「うるさいぞ、少し静かにしてろ……なあ、バージェスのアルベルトとか言う旦那よ。なぜ、俺の命を狙う? 賞金目当てか?」 「花瓶代だ」 「ああ?」 「宿の亭主は、おめえと縁の欠けた花瓶が同じくらいの値段だって考えてるようだぜ。おめえのツラぁ見て、俺も納得したよ」 モモンガが呆気に取られた表情になって、手下の一人を振り返る。 「おまえら、こいつが何を言ってるか、分かるか?」 「ぜんぜん分からねえ。きっとオツムがおかしいんですぜ」 「そうか。キ印を相手にしてやるほど、我々はヒマじゃないはずだな。やれ」 「「「承知!!」」」 わめいて、一斉に襲いかかってくる。 アルベルトも今度は、剣の鞘を払った。 最初に突っかけてきた男の槍を軽くかわして、左の脇に抱え込む。引き寄せ、男の顔面に柄の頭をしたたかに叩き付けた。 雑魚は運がよければ生かしてやろう。そう思ったのだが、鼻の骨くらいは折れただろう。 残りの連中は、さすがに慎重になった。 それぞれの得物を低くかまえて、じりじりと囲みの輪を狭めてくる。 (ちっ、戦い慣れしてやがる) 命を助けてやるのは無理だと悟った。 呼吸をはかり、一歩踏み出す。 敵の一人を狙って、ぐいぐい迫る。 そいつは腰が引けたように後ずさりし、代わって横合いから突っかけてきたやつがいた。きわどくかわして、片手斬りに胴を断つ。 後は、乱戦になった。 多数を相手に斬り結んだことは、何度もある。 じっくり追いつめられては勝ち目がない。だから、目まぐるしく休みなく動きまわり、敵を翻弄する。 多数といっても、一度に襲いかかってこられる人数は三人程度だ。激流のような動きの中に勝機をさぐれば、何とかなる。 そういう戦いを無数に経験してきた。 自らも無傷ではいられないが、一心不乱の混戦の中では痛みなど感じない。 考えなくても体は自然に動く。 快感でさえあるのだ。 若者はさながら疾風のように、殺戮をつづける。 敵は血飛沫をあげて倒れていく。 気がつくと。 敵の半数近くは倒れ、ある者は苦悶の表情でうめき、ある者はぴくりとも動かなかった。 残る者達は、怯えて遠巻きに視線を投げかけるばかりだ。 剣を構えなおすアルベルトも、大きく肩で息をしている。 渾身の力で動きつづけたのだ。剣も血糊と刃こぼれで、もはや人を斬ることなどできないだろう。殴るだけの道具に成り果てている。 だが、まだやれる。 若者はこれまで、数え切れないほどの死地をくぐりぬけてきた。 ある目的のために。 心臓が止まるまで、動き続けられる自信がある。 その凄まじい殺気に敵は怯えて、蛇に睨まれたカエルのようにすくんでしまっている。 なまじっかの相手なら、戦いはここで終わる。 しかし。 手下を軽く押しのけて、ゆっくりとアルベルトに向かって歩を進めてくる男がいた。 長身痩躯。 ベラサマサラ谷七人衆の一人モモンガが、アルベルトと十歩ばかりの距離をおいて立ち止まった。 (四) 「やっと親玉のお出ましか?」 もはや自らの流血と、敵の返り血の見分けもつかない凄惨な姿で、アルベルトはニヤリと笑った。 モモンガは冷ややかな表情でアルベルトを見つめ、 「殺人狂と遊んでいるヒマはない」 わずかに唇を動かして言った。 「けっ、ぬかしやがれ。殺人狂はそっちじゃねえのか? どんだけこのへんの村を荒らして、人を殺してきたんだ?」 「俺達が人を殺すのは、この乱世を生き抜くためだ。だが、おまえの狂人じみた戦い方は、生きるためとは思えん」 「……じゃあ、何だって言うんだ?」 「殺人狂でなければ、自殺志願者だ。おまえ、死に場所を探してるんじゃないのか?」 「死に場所か……まあ、いつだって俺は死神といっしょだ。それは認めるぜ」 「やはりな。だが、そんなキ×ガイの巻き添えを食わされるのはごめんだ。悪いが、さっさと片づけさせてもらうぞ」 「へっ、できるか?」 「できるさ、もちろん」 モモンガが、すっと空の一点を指すように片腕をあげると。 その頭上二メートルくらいの高さに、拳ほどの大きさに白光が凝縮したような物が出現した。 それは、ふらっと空中を揺れるような動きをしてから、一直線にアルベルトを襲った。 寸前でかわしたが、光球は背後の樹木を直撃して、一瞬、目のくらむような輝きを放射した。 太い幹が鋭い音を立てて裂け、樹木が倒れた。 「よくかわしたな。だが、今のは小手調べだ」 モモンガが大きく両腕を広げるような仕草をすると、今度は三つの光球が現れて宙を舞いはじめる。 アルベルトは腰をしずめ、ジャンブロウの柄を両手でにぎり―― 剣先を、地に這わせるように構えた。 上目使いに、じっとモモンガを睨む。 「ふふんっ」 モモンガが嘲るように冷笑した。 「無駄なことを。剣など通用すると思っているのかっ?」 指先で光球をゆらゆら操るような動作をし、さっとアルベルトを指し示す。 光球が襲いかかる。 アルベルトは、目一杯の動作で、剣を大きく横に薙ぎ払った。 「なんだとっ?」 モモンガの表情に驚愕の色が走る。 光球が、アルベルトの剣に弾き飛ばされたからだ。 「信じられんっ。その剣はなんだっ? 貴様も異能者なのかっ?」 アルベルトがニヤリと笑う。 (ふん……俺はバージェスの男だ。あの地に生まれた者は、みんな少しは能力があるのさ。俺のは、おめえと比べたら蟻んこみてえに小さな力だろうがな) 両手から、潮のように力が流れ込むのを感じる。 剣が、彼の力を倍加させているのだ。 尋常ならぬ気の動きを感じとったのか、モモンガの表情にはじめて焦りの色が浮かぶ。それを振り払うように、 「ならば、もう容赦はせん! これなら、どうだ?!」 叫んで、両腕を激しく動かしはじめた。 三つ、四つなどではない。数えることもできないほどの光球が出現し、目まぐるしく空中を飛び違い、旋回し、駈けめぐりはじめた。 「ひょうっ! 豪勢じゃねえか! おめえのオモチャ箱はすげえな!」 「ぬかせ!」 モモンガの腕の動きと共に、光球が次々にアルベルトに殺到する。 アルベルトは、最初のいくつかを剣で払い飛ばした。しかし、すべては防ぎきれない。 かわしきるのは断念した。 剣を高々と大上段にかかげる。 凄まじい勢いで、それを振り下ろす。 剣先が地に叩きつけられた瞬間。 大地に亀裂が走り、それが一直線にモモンガを襲った。 「ぬぉお!」 モモンガの足もとが炸裂し、体がふっ飛んだ。 衝撃に飛ばされたのか、自ら跳び退いたのか? いずれにせよ彼の体は後方に大きく弾けて、どうっと地に落ちた。 同時にアルベルトも、無数の光球を全身に受けていた。 ――かに見えた。 がくっと膝を落とした若者にスッと寄り添い、抱き支えた細くしなやかな腕。 「アルベルト様!」 レイチェルの心配そうな顔が、吐息がかかりそうなほどの間近にあった。 「ちっ、おめえ、もう……」 少女の顔を見ると反射的に憎まれ口をきいてしまうアルベルトだったが、この時は荒い息に邪魔されて言葉が途切れた。 「もどって……きちまったのかよ」 「バカっ。わたしが守っていなかったら……」 二人のまわりを、透明に光る薄い膜のようなものが覆っていた。それは束の間たゆたい、すうっと消えた。 「余計なことをするんじゃねえっ……これで、おめえの寿命がまた、半月くらいは削られたぞ」 「こうしなきゃ、あなたが死んじゃいます!」 少女は思わずアルベルトの体を激しくゆさぶり、それからハッとしたように、自らの手のひらを凝視した。 べっとりと、血で汚れていた。 「ごめんなさい……全部ふせげなかった」 レイチェルの声がふるえる。 アルベルトの脇腹のあたりに血の染みが広がり、ぼたぼたと零れる。それまで全身を濡らしていた血の量よりも多い。 モモンガの光球を食らってしまったのだ。 「へっ」 アルベルトは、ぎりっと歯をくいしばって笑ってみせた。 「これくれえ……あの花瓶ほどにも、利きゃあしねえよ」 「ばか……」 少女は若者の体をそっと草の上に横たえさせた。 傷口に、口づけするほど顔を近づける。 「……急所は、はずれてる」 少し安心したように息をつき。 上体を起こし細い体をひねるようにして、背後のモモンガにきっと視線を向けた。 倒れ込んでいたモモンガが、のそりと身を起こしたところだった。 「仲間がいたとはな……」 さほどダメージを受けた様子はない。 「だが、貴様らごとき非力な者共が束になろうと、この俺には」 「黙れ」 少女の氷のような声が、モモンガの言葉をさえぎった。 抑揚のない声音。 しかし、それは強い憎しみをはらんでいた。 「ゆるさない……よくも、アルベルト様を」 少女は立ち上がって儚くさえ見える背筋をすっとのばし、モモンガに向かう。 モモンガの口元から、侮りの笑みが消えた。 「小娘……貴様、いったい?」 感じとったのだろう。 この男ほどの能力の持ち主なら、自分よりも遥かに巨大な気の奔流を感じることができるはずだからだ。 男の顔に、恐怖の色が走る。腰をふらつかせながら後ずさる。 一歩踏み出しかけたレイチェルの肩に―― 手が置かれた。 少女が振り返ると。 いつの間にか立ち上がっていた若者が、じっと見つめていた。 「アルベルト様……」 「いいから、あいつは俺にまかせなって」 「でも……」 アルベルトは片手に握った剣を、かるく二~三度、振った。 「まだ、ちょいと二日酔いが残っててな。こいつの力に上手く乗れなかった。今度はしくじらねえから、黙って見てろ」 聖剣ジャンブロウ。 大恩ある旧主、ワーゼングレー侯爵の家に代々伝わる家宝だ。アルベルトは故郷を捨てたとき、これを盗んだ。 ある目的のためにだ。 いにしえの聖者によって打たれたと伝承される剣。この剣の霊気によって自らの貧弱な力が数倍にもなることを知ったとき、アルベルトはある決意と共に地位も将来も捨てたのだ。 アルベルトはジャンブロウを両手で握りなおし、モモンガを見据える。 柄から伝わる気のうねりが、全身に還流するのを感じる。 チャンスは一度だけ。 体力も、もう限界だ。 「くっ」 モモンガがまた、いくぶん狼狽しながら例の動きを開始した。無数の光球が現れる。 「バカの一つ覚えは終わりだあ!!」 若者は叫んで、一直線に突進する。 モモンガの驚愕と恐怖の表情が、見る見る近づく。 それが目前に迫り―― 次の刹那、ジャンブロウが男の体を斬り裂いていた。 (五) 「お願いですから、こんな無茶をなさらないでください」 今度こそ力尽き、仰向けに倒れる若者の体を介抱しながら、少女がつぶやく。 「け……無茶をするのが、俺の役目だ」 アルベルトが無茶をしなければ、レイチェルが無茶をする。 彼女は、そうせざるを得ないのだ。 * * * 二人の故郷バージェスは、いにしえの魔王が滅びた地と伝えられている。 魔王の呪われた生命は、魔王の肉体が消滅して長い歳月を経た今でも、バージェスの大地に息づいている。草にも木にも、あまたの生物にも。 そう伝えられている。 バージェスで生まれた人間もまた、多かれ少なかれ何らかの能力を持っているのだ。 もっともその力が微弱すぎて、ほとんど何の役にも立たない者もいる。例えばアルベルトのように。 そして。 中には人の域を超えるほどの巨大な力を与えられた者もいる。 例えばレイチェルのように。 (細っこくて、か弱そうで……野っ原にひっそり咲いてる小っちゃな花みたいな娘だって思ったもんだ) はじめて会ったとき。 アルベルトは十五、レイチェルは十二だった。 街の裏通りで、少女は数人の不良少年達にオモチャにされていた。蓮っ葉な娼婦でも赤面しそうなひどい行為を強いられていたのだ。 不良共は適当に痛めつけて追い払った。アルベルトは若年ながら剣の腕を認められ、侯爵を護衛する騎士の一人に加わっていた。なまじっかの無頼の徒など敵ではなかった。 助けられた少女は、無表情だった。 何も言わず、散らばる衣服を手早く身に着けるばかりで、自分が受けていた仕打ちを、さして苦にするふうもない。こんなことは慣れっこという感じだった。 ほおっておくわけにもいかず、官舎に連れ帰った。 少女はすぐには打ちとけなかったが、数日経つうちには少しずつ身の上話を聞くことができた。 名前はレイチェルと言うこと。 両親を戦で失い、頼ることのできる身寄りもなかったこと。 町の不良達の仲間になり、時には非道い仕打ちにも堪えながら生きていくことしかできなかったこと。 幼いころから人の目を惹いた美貌は、少女に不幸しかもたらさなかった。悪ガキだけではなく、身分のある大人達の欲望の対象にもされたらしい。十にも届かないころから、何度となく。 「年端もいかない娘を……」 「そういうのが好きなヤツもいるのよ」 育ちがよく世間知らずだったアルベルトには、耳を疑うような話だった。 アルベルトは、少女の保護者代わりになろうと心に決めた。しかし、当時の彼女は行儀のよい生活なんか、まるでできなかった。それは、不良共とすごすより嫌な束縛と感じられたらしい。何度も官舎から逃げ出し、アルベルトが探しまわって連れ戻すということの繰り返しだった。 そしてある日、アルベルトは知ってしまった。 実はレイチェルは、自らの身を守る力を持っていることを。命さえ危ういほどの手酷い仕打ちが加えられようとしたときのみ、少女はその恐ろしい力を行使する。 アルベルトは、目の当たりにしてしまったのだ。 愚かな狼藉者が全身を凄まじい力でねじられ、引き裂かれて絶命するのを。 しかしレイチェルは、めったにその力を使わない。 それには理由があった。 「十歳のとき、ある魔導士がわたしに言ったの」 バージェス生まれの多くの者が宿す異能は、いにしえの魔王の残照。しかし、その現れ方には濃淡がある。 百年に一人か二人というほど稀に、魔王そのものの再来と見まごうほどの力の持ち主が現れることがあり、レイチェルはそんな稀有の異能者の一人だという。 しかし、少女の体は大いなる魔力を発動する器としては、あまりにも脆すぎた。 力を放つたびに少女の生命は蝕まれ、少しずつ寿命が減っていく。魔導士と出会ったとき、すでにレイチェルの寿命は本来のそれよりも十年は目減りしている状態だったらしい。 「できることならば、その力を封印するがよい。それ以上命が蝕まれては、きわめて危うい。そして、その力けして人に知られてはならぬ。知れば利用しようと野心をいだく者が現れぬとも限らぬからだ。そなたは、ただの力の容れ物として、使い捨てられてしまうぞ」 性的な辱め程度の仕打ちには逆らわず、風に吹かれる柳のように受け流す。 命を脅かされたときのみ、力を使う。 使った相手は、必ず息の根をとめる。 それが、少女の生きる術となった。 「……じゃあ、僕も殺さなくっちゃな」 少女の身の上話を聞いたとき、アルベルトが投げかけた言葉だった。 「え……?」 「きみの力を知っちゃったから」 レイチェルはきょとんとした表情を見せた。 それから、くしゃっと片手で自らの金髪をつかみ、 「そっか。忘れてたっ」 少し笑みをもらした。 「殺さないの?」 と問うと、 「そんなこと気楽そうに言うもんだから、つい笑っちゃった……面白い人」 殺す気はなさそうだった。 レイチェルが魔導士から教わったことは、もう一つあった。 この世界のどこかに、少女が失った寿命を回復できる≪癒しの石≫というものがあるらしい。 「じゃあ、それを探しに行こう」 と、アルベルトは少女に言った。 しかし諸国には、想像を絶する怪物や異能者が徘徊していると言う。 非力な異能者にすぎない自分に、そんなやつらと戦う力があるのだろうか? そう考えたとき、侯爵の家宝である聖剣ジャンブロウのことを思い出した。 侯爵の蔵からそれを盗み出したとき、 (これで、すべてを失った) そう思った。 地位も名誉も将来も、侯爵からの信頼も捨てて行く。家族とも、もう会えないだろう。 それでも。 (レイチェルは僕が守る。絶対に力は使わせない) そう心に決めたのだ。 * * * 礼拝所の前の広場は、荒廃して雑草が生い茂っている。その草を風がゆらす。 レイチェルは横たわるアルベルトから離れ、立ち上がった。 「アルベルト様、しばらく待っていてくださいね」 「どこへ行く?」 「ちょっと野暮用」 モモンガの手下共は、とうに逃げ散ってしまった。 人気がなくなり、ひどく静かな礼拝所の横を通りすぎて、少女は小道を歩いて行く。 森のほとりを抜けると、視界がひらけて眼前に草原が広がる。 軍馬と、兵の群れ。おそらく千は超えるだろう。 それが砂塵を蹴立てて向かってくるのが、遠目に見えた。 (六) 恐れていたことだった。 (やはり……来てしまったのか) それは、ベラサマサラ谷の棟梁アシュラに率いられた賊徒の軍だ。 モモンガの立てこもる礼拝所の様子を調べたとき、レイチェルはこの軍勢の動きに気づいた。 アシュラの手の者は、多くが異能の者だという。尋常ではない気の動きを感じとったのだ。 アルベルトのもとに戻るのが遅れたのは、賊徒の群れの動向を探っていたためだった。 (こちらには向かっていない) そのときは、そう判断した。 モモンガとは別行動なのだろう。 できれば、やり過ごしたかった。 しかし、レイチェルが彼らの気を感じたように、彼らもモモンガとの戦闘で放ったこちらの気を察知してしまったのだろう。 この地方では最強とも言える恐怖の軍が、押し寄せてくる。 (たとえアルベルト様が負傷していなくても、あの軍勢とは戦えない。とうてい勝てない。ならば) しだいに接近してくる敵。見据えるレイチェルの表情は、しかし静かだった。 すでに覚悟している。 (ここで、わたしが止めるしかない) 体の奥で、いにしえの魔王の血潮が妖しく息づく。 (もう一度だけ……あれをやってみる) * * * アルベルトは、草の上に仰向けに横たわりながら、じっと青空を見つめていた。 ほんの少し前にモモンガと凄惨な戦いを繰り広げたことなど信じられないような、平和な空だった。 ゆっくりと雲が流れている。 (レイチェル……おめえにはウソはつけねえよ) 息が止まるほどの激痛をこらえ、歯を食いしばって上体を起こす。 もし危険が去ったのなら、少女は気楽な笑みと軽口を投げてくるはずだった。 だが、少女の面差しは、いつになく静謐だった。 そこに決意の心を見てしまったから、アルベルトはもう一度立ち上がるのだ。 よろめき腰がくだけ、がくっと地に膝をつく。 呼吸をととのえる。 ゆっくりと、死に物狂いで地を踏みしめた。 (おめえ、あれをやるつもりだろう?) それだけは止めなければならない。 数年前。 少女と二人で侯爵の領地を逃れたとき、追手をかけられた。 二百騎以上の精鋭に囲まれ、裏切りに激怒した侯爵がアルベルトの誅殺を命じたことを知った。 死を覚悟した。 そのとき。 レイチェルが、いにしえの魔王の力のすべてを開放したのだ。 二百騎が一瞬で薙ぎ払われた。 遠く離れた村人や町の者には、天空の彼方から大地の底まで巨大な炎の柱が貫いたように見えたという。 あたりのすべてが灰燼に帰し、レイチェルと彼女に守られたアルベルトの他に生きるものはなかった。 後に≪バージェスの劫火≫と呼ばれたその惨禍の原因を知る者は、二人の他にいない。 力は、少女の寿命を三十年はけずった。 * * * 風が、少女の金色の髪をゆらす。 じっと視線を向ける。 賊徒の棟梁≪北の凶星≫アシュラの姿が、しだいに近づいてくる。 竜のような黒馬にまたがる、偉丈夫だった。三本の角の生えた兜をかぶり、革の鎧にマントをはおっている。 桁外れな気のうねりを感じた。 あの男もまた、魔王の血を受け継いでいるのかもしれない。 ふとそう思う。 レイチェルは大きく息を吸い、ふうっと吐き出した。 目をつむり、心を静める。 胸の奥底に眠っていたものが、ざわめきはじめたその時。 「無茶をするのは俺の役目だって言ったろ?」 振り向くと、日焼けした顔にニヤッと白い歯をのぞかせた顔があった。 「アルベルト様……」 若者はレイチェルの横を通りすぎて前に出、彼女を庇うようにアシュラに対峙した。 アシュラが馬を止め、二人を見下ろす。 「モモンガの気配が消えた。貴様達が倒したのか?」 白馬が一頭進み出て、アシュラに寄り添う。 またがるのはほっそりとした女。相貌は美しいが、全身は異様だった。背中に大きな鳥の翼をもち、羽毛におおわれた肢体に衣服は必要ないらしく、わずかな布を巻きつけているだけだ。 ベラサマサラ谷七人衆の一人、≪妖鳥≫セイレーヌ。アシュラの情婦とも噂されている。 「モモンガめ、油断したのかい? こんな奴らにやられたって? 有り得ないね」 「いや、この者達からは、ただならぬ妖気を感じる。侮るな」 アシュラは無表情で、アルベルトとレイチェルをじろりと見比べる。 「どちらがモモンガをやった? 貴様か、若造?」 「へっ、そうよ、俺様があいつを片づけたんだ」 アルベルトは、そう言って数歩、アシュラに近づいた。レイチェルも続こうとするのを、かるく片手で制す。 「あんな弱っちいやつは、チョチョイのチョイてなもんさ」 「強がりを言うな。見たところ、貴様、立っているのがやっとの様子ではないか? モモンガとの戦いで、精も根も尽き果てたというわけか?」 「けど、まだ、おめえをぶっ飛ばすくれえの力は残ってるぜ」 「面白い……」 アシュラの口元に、薄い微笑が浮かんだ。 「やってみろ」 アルベルトは、ひょいと肩をすくめて両手を広げる仕草をした。 「まあ、そう慌てるな。靴ヒモがほどけちまったようだ……結びなおすから、ちょいと、待ってな」 「靴ヒモぉ?!」 セイレーヌが苛立たしげに吐き捨てる。 「クズが、舐めたこと言ってんじゃないよ!」 だが、アシュラは少しばかり妙な顔をしただけで、何も言わなかった。 (アルベルト様……何をするつもりなの?) レイチェルは、祈るような気持ちで見守った。 奇妙な沈黙が支配する中、アルベルトはゆうゆうと動きだした。 傍にあった大岩にどかっと腰をおろし、大きく組んだ足をアシュラ達の方にこれ見よがしに突き出す。 靴ヒモが、動き始めた。 (ちょっと……何をしているんです、アルベルト様……こんなときに) 手を触れずに靴ヒモを結ぶ。 よく自慢していたその≪異能≫を、若者はのんびりと披露し始めたのだ。 若者の頭がおかしくなったのかと、一瞬、気が遠くなりかけたレイチェルだったが、すぐにハッとした。 アルベルトが、さりげなく腰のジャンブロウに手をかけていることに気づいたのだ。 彼がこの剣に手を触れると、強い霊気が放たれる。異能者の多い賊達は、その異様な気のうねりを感じ取っているはずだ。 靴ヒモは、すぐには結び合わされなかった。 空中をゆらゆら動いている。 まるで、ダンスでも踊っているように。 ――ちょいと練習して、最近じゃ結ぶだけじゃなく、ヒモにダンスを躍らせることもできるようになったんだ。愉快だろ? 賊徒共の呆れ顔が驚愕に変わっていくのを、少女は見た。 理解した。 (アルベルト様は、《小さな異能》を恐ろしい力の前兆に見せかけようとしているんだ!) とっさにアルベルトの傍らに走り寄る。 「どう、驚いた?! あんた達っ!」 あらんかぎりの声で、叫ぶ。 「アルベルト様にかかったら、あんた達なんてイチコロよっ! わたしたちはね、バージェスから来たのよっ!」 「バージェス……」 モモンガと同様に、アシュラもこの地名に反応をみせた。 「≪バージェスの劫火≫って知ってるでしょ?! ワーゼングレー侯爵の精鋭二百騎を一瞬で地獄に送ったのは、この人なんだからっ!」 効果はてき面だった。 賊徒共のどよめきが波のように広がる。 「アシュラ様っ。そう言えば、≪バージェスの劫火≫のとき、若い騎士と小娘が侯爵領から逃亡したって噂を聞いたことがあります」 「知っている」 動揺を隠せないセイレーヌに、アシュラは表情を変えず応えた。 しばらく何か思案している様子だったが、やがて、さっと片腕を高くあげた。 「退き上げるぞ!」 一声、叫ぶ。 ほっと息をつく若者と少女に、アシュラは馬上からじろりと視線を向けた。 「貴様達のたわごとを鵜呑みにしたわけではない。だが、俺は計算できない危険は避けておく主義なのでな。今回は見逃してやる」 手綱を引き、馬首をかえしながら、アシュラはもう一度、二人を振り返った。 「いずれにせよ貴様達、なかなか面白い……いつかまた会う日が来るかもしれぬな」 そう言い残すと、軍馬の群れは潮が引くように粛々と去っていった。 (エピローグ) 「……行っちゃいましたねえ」 レイチェルが、少し拍子抜けしたようにつぶやく。 「ああ。意外と話のわかるオッサンで助かったぜ」 「また、そんな気楽なことを。アルベルト様と一緒にいると、命がいくつあっても足りませんっ」 「何だよっ。俺のせいだってのか? 元はと言えば、おめえが宿屋の花瓶を割っちまうからいけねえんじゃねえか!」 「そんなこと……だから、スッポンポンの見世物にされても堪えてみせますって言ったじゃないですか?!」 「へ~んっ。そんな貧乳で、金になんかなるもんかよっ」 「あっ! ひっど~い! 貧乳じゃありません。そんなに大きくないってだけで……アルベルト様だって、これくらいの方が可愛らしくって好きだって言ってくださったじゃないですか?」 レイチェルはなぜか少し顔を赤らめ、言葉の語尾も弱々しかった。 「そんなこと言ったかよ? 覚えてねえなあ。俺は巨乳主義だからな。さっきの姉ちゃんみてえなのの方がよっぽどいいぜ!」 「あんな鳥女っ。アルベルト様って、口を開けば、言うことがぜんぜん違ってるっ。ちゃんと考えてものを言ってます? ……って、アルベルト様?!」 レイチェルが、言葉を失う。 アルベルトが、力なく地面に倒れたからだ。 少女は膝をつき、若者の胸にすがりついた。 「アルベルト様っ……アルベルト様ぁ!」 悲痛な声音に嗚咽がまざる。 「本当にこのバカは! こんなことしてたら、いつか死んじゃう!」 「……バカとか言うなよ」 若者は横たわったまま、そっと少女の頭をなぜてやる。 レイチェルは、まだしゃくり上げながら、上体を起こした。いくらか落ち着いたようだ。 「……そもそもアルベルト様が、せっかく稼いだお金を一晩で使っちゃうからいけないんですよ」 「……俺は、人に施しをしようなんて偉そうなことはできねえよ」 「え……?」 「いや、何でもねえ」 アルベルトは黙った。ただ空を見つめる。 あの村は貧しかった。食うために、娘を売らなければならない農家もあった。 だが、同情して金をめぐんでやるなどということは、したくなかったのだ。だから大宴会を催して散財した。金というものは、使えば自然に人々に行き渡ることを彼は知っていた。 じっと空を見つめる。 相変わらず目に染みるように晴れ渡った蒼天だった。 「あの空の下にあるんだ……」 若者の口から、呟きがもれる。 レイチェルを救うことができるという、≪癒しの石≫。 それが、どこにあるのかは分からない。 しかし、あの空の下のどこかにあることは間違いないのだ。 「ありがと」 いつの間にか横に腰をおろして膝をかかえたレイチェルが、囁いた。 「わたし、あいつらを追っ払うのに、あの力を使うことしか思いつかなかった……もし、使っていたら」 使っていたら、少女の寿命はほとんど品切れになっていたかもしれない。 二人ともそれは分かっていたが、口にはしなかった。 「だけど……やっぱり、無茶はしないで。わたしはまだ少しは生きられるけど、こんな戦い方を続けていたら、あなたが今、死んじゃう」 「俺は死なねえよ。ピンチのときも、どうやったら生き残れるか、そればっかり考えてるからな」 そうだ。 アルベルトは死にたくなかった。 無けなしの知恵をしぼり、たった一つの取り柄の頑丈な体を酷使し、地ベタを這いずりまわるように、生に執着し続けてきた。 彼は、けっして死ぬわけにはいかなかったからだ。 たった一つの守り抜きたい大切なものを、守るために。 (了) |
あまくさ 2016年12月30日 11時41分55秒 公開 ■この作品の著作権は あまくさ さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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