ゾエアは、いつカニになりますか? |
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さながら推理小説のいたずら書きのように、いきなり犯人を教えるなら、それは全て夏の暑さのせい。 「――――私、沢先生が好きです」 クーラーのない、むっとした空気が立ち込める理科準備室に、私の声が響く。 かすかに薬品の匂いのする部屋の中。かちゃかちゃとガラス戸棚に実験器具を片付けていた先生の背中が、ぴくり反応して動きを止めた。私と沢先生の二人しかいない部屋に、気まずい空気が満ちていく。 実のところ、まだそんなつもりじゃなかった。 確かに、授業のあと実験器具の片付け担当に選ばれた時は嬉しかった。他の班の担当が早々に作業を終え、二人きりになれたときはチャンスだと思った。 けれどそれは、先生の好みとか、家では何をしているのか、いま付き合っている人はいるのかとか、そんな無難な質問をするつもりだったのだ。 なのに、この部屋に満ちた夏の空気に背中を押され、私は口を滑らせてしまった。 あーあ、言ってしまったよ。ねぇ、私。 どこか他人事のように、自身に報告。思ったより冷静なのは、暑さでぼぅっとしすぎているからなのか。 しっとりと汗を吸ったセーラー服とスカートに辟易しつつそんなことを考えていると、先生が振り返った。 「そうか、先生もお前のこと好きだぞ」 先生は、眼鏡越しにどこかで買ってきたかのような笑顔で、ありきたりなセリフをのたまう。 「先生、誤魔化さないでください。私はそういう意味で言ったんじゃ――――」 「だとしても、だ」 先生は私の言葉を手で遮るようにして、続ける。 「風見。先生から見れば、お前はまだゾエアなんだよ」 「ゾ……なんですか、それ?」 「ゾエア。カニの幼生だよ。カニは最初からあの形じゃなくて、発生の初期はゾエアっていうミジンコのような形をしてるんだ。その後何度か脱皮してエビみたいなメガロパ、そこからさらに脱皮してカニになる。……勉強になったろ?」 「はぁ……」 突然の課外授業に呆気にとられていると、先生はぽんと私の肩を叩く。それから、またも安物スマイルを持ち出してきた。 「じゃあな、風見。カニになったら、また来なさい」 理系の教師を見たら変人と思え。 それが私の人生訓。 十六年生きてきて、出会った全員がそうだったんだから間違いなし。 まあ、だからって、あんな返事は無いと思うのだけど。 教室にて、自分の席で深々とため息をつくと、私の数少ない友人諏訪井が、興味深げに私の手元を覗き込んできた。 「かっざっみんっ♪ なに読んでるー?」 「スクエア最新図説生物neo」 「……そーいうの、好きだったっけ?」 「いいえ大嫌いですが」 そう答えながら、私は図説に掲載されているカニの写真を眺める。 あのあと、先生の説明だけではよくわからなかったのですぐにゾエアを調べた。 ゾエア、カニの幼生。先生の言ったとおり。 なんでそんな変な名前がついているのかわからないけど、きっとニワトリのヒナをヒヨコと呼んだり、カエルの子供をオタマジャクシと呼ぶようなものだろう。 つまるところ、先生が言いたかったのは、私はまだ子供だから大人になったら、ということなのか。おそらくは、きっとそう。 ……まったく、あの理系教師はまわりくどいことを。 らしいと言えばらしい、変といえば変な断り方に、私は納得と怒りの混じった感情を抱く。 「……あのさ、諏訪井。私がいつも好きだって言ってるあの人いるよね」 「あー、うん。いるねー」 諏訪井は、うんうんとうなずいた。 諏訪井は、私が沢先生を好きなことを知っている。諏訪井は軽薄な態度の割に口が堅いので、度々そんな話の相談相手になってもらっていたりする。 「あの人に、告白した」 「ぎょえぇぇぇぇー」 どこか遠い目で、諏訪井が小さく呻いた。 諏訪井は一通り呻いてから、小声で興味深げに聞いてきた。 「え。それで結果は? おっけー? それとものっけー? ミーに話してプリーズ!」 「のっけーってなに」 「えっとさ、よーするにふられた?」 「…………ふられては、ない」 引きつる頬を隠すため、私は顔を背ける。 「やー。でも、ほら……ふられたんでしょ?」 「私がふられたと思ってないから、まだふられたことにはならない」 「なーに? その理屈ー」 えー、と諏訪井は引き気味に笑うけれど、知ったことか。実際ふられていないんだし。 「ってかさー、かざみん。何度か言ってるけど、あんなのやめといたほうがいーよ? いまいちぱっとしないし、いい歳して独身なんてろくなもんじゃないよー? きっと変な性癖もってるんだよ」 「変な性癖って……」 なんてひどい言われよう。 でもわからなくもない、と思ってしまう私もまた同罪だろうか。 「なんでそこまであやつにご執心なのか、ミーにはわかりかねますなー」 「別にいいよ。わかられてもそれはそれで困るし」 「わー、独占欲ぅ~」 そう諏訪井は揶揄するけれど、好きな人を独占したい気持ちなんて、きっと誰もがもっているはず。それは決して、私の専売特許なんかじゃない。 「でもさ、ちょっと安心したよー」 「……安心、って?」 「二人とも変なことにならなくて良かったってこと」 「私は変なことになりたかったんだけど」 「おおう、いうねぇいうねぇ」 まるで粋な江戸っ子のように、諏訪井はひじでつつく仕草をする。 「けどさー、それってマジメな話、二人ともどうなるかわかんないよ。それでもいいのー?」 「……っ」 言われて、私は言葉を詰まらせた。 わかってるよ。わかってるけどさ。 誰をいつ好きになったって、それは私の勝手じゃないか。 そう、私は思うのだけど。世間はそれを許してくれない。 人の恋路を邪魔するやつは、馬に蹴られて死んじまえと言うけれど、世間を蹴ることの出来る馬なんてどこにいるんだろう。 ぼうっとそんなことを考えていると、諏訪井が心配げに耳元で囁いた。 「ところで次、さわわの授業だけど、だいじょーぶ?」 「大丈夫じゃない…………かもね」 ぎゅっ、と。夏服の袖からのぞく二の腕を、握り締める。 ふられてはいないものの、体よくあしらわれたのだ。気まずくないはずがなかった。 「あっ、来たよ! さわわー!」 諏訪井の声に顔をあげると、丁度教室に入ってきた沢先生の顔が見えた。 途端に心臓が跳ねて、息が荒くなって、体温が二度は上がる。今すぐそばに走り寄って、もう一度告白したい衝動に駆られた。 なんとかそれを踏みとどまって、私は努めて冷静を装う。 「はい、みんな授業始めるぞー。席についてくれー」 そう言って、先生は教壇に立つ。 沢先生は、冷静に見ればそれほど格好良くはない。 三十三歳、独身。 顔立ちはそこそこなものの、おおよそ身だしなみに気を使っているとは思えない。ボサついた髪には、いつも寝癖が。ヒゲは常にそっているわけではないらしく、時々伸びている。そってきた時でも、あごの下に少しヒゲが残っていたりなんてよくあることだ。 それはいつも着ている白衣にしてもそう。 だいたいはよれよれで薄汚れていて、お世辞にも清潔感が漂うとはいえない。たまに綺麗なときもあるものの、それでもところどころシワが目立つ。 だからクラスの女子の間での評判は、決して良くはない。恋愛対象としてみるにはちょっと……との意見が大多数で。それは私にしても、少し前までは同じだった。 だけどその認識は、ある日唐突に変わった。 ――――それは、あくる日の授業でのこと。 嬉々として教室に入ってきた先生が、私の机にいきなりプラスチック製の箱を置いたのだ。 それはいわゆる虫かごというやつで、中には黒々とした大きな虫が入っていた。それがカブトムシだったのか、クワガタだったのかは私にはわからない。 ただわかるのは、先生がその虫を目の前で嬉々として見せびらかしているということと、私がその手の虫が大嫌いだということだけだった。 「すごいだろ。今朝、駐車場でこいつが歩いてたんだ」 虫が苦手な私にしてみれば、そんなものをすぐ目の前で見せられるだけで、拷問に等しい。 だというのに、先生はこともあろうにそれを虫かごから出して。 「ほら」 私の顔のすぐそばまで近づけてきたのだ。 その瞬間、私の心臓は本気で止まりかけて。 その瞬間、私は先生に殺意すら抱いた。 なのに、その一瞬後、先生はまるで子供みたいに、にこっと笑って、 「いや~、やっぱかっこいいよなー」 なんて、しみじみと言ったのだ。 そのあと延々とその虫について話をしていたが、中身は全く覚えていない。 ただ、先生の楽しそうな表情を見ていると、なぜか心のどこかにぐっと来るものを感じた。 そのことが妙に印象に残って、以後は先生を見るたびにその時のことを思い出すようになった。 そうして気になりだして。 そして好きになりだして。 やがて好きになっていた。 今にして思えば、あれは吊り橋効果というやつで。 大嫌いな虫を目の前にして生じた動悸や何やらを、恋心か何かと勘違いしたに違いなくて。 けど、だけど。 一度好きになってしまってからそれに気づいたところで、もうとっくに遅かった。 教壇に立つ彼を見るたび、動悸は止まらず、息は乱れ、けれどなぜだか、幸せな気持ちになる。ひと目をはばからず、抱きつきに行きたくなる衝動に駆られる時もあった。 そんな状態になってから気づいたところで、どうにか出来るわけが、ない。 「あー、それじゃあ今日は三十九ページからな」 先生の声が、心地よく耳朶をくすぐる。 …………熱い。 クーラーはきいているはずなのに、こんなにも体が熱いのは、きっと私の席が窓際にあるせい。頭の芯がぼうっとしているのは、その暑さのせい。 全部、夏の暑さが悪い。 暑さで脳みそが溶けてしまったから、その日の授業はちっとも頭に入らなかった。 「――――先生、好きです」 放課後になってから、もう一度告白した。 ただし、今度は職員室のど真ん中で。 昨日のことを警戒してか、先生がなかなか出てこようとしなかったからしょうがない。 別に曖昧な返事で誤魔化されたうえ、避けられているから逆上したわけでもなんでもない。きちんと他の先生方には聞こえないよう配慮し、カモフラに生物の資料も持っていった。カニの写真が載っているページに、ハートマークを書いておいたのはご愛嬌。全てが極めて冷静な行動、そう思いたい私である。 「か、風見……」 先生は一瞬面食らった様子だったものの、すぐさま何かを誤魔化すように、棒読みなセリフと共に立ち上がる。 「あー、そうだったな。悪い悪い、すぐ行く」 一緒に職員室を出るも、先生は何も喋らず歩き出す。私はその後ろについていく。 そうして理科準備室に場所を移して、中へ。 先生は、戸を開けておくか閉めておくかだいぶ迷ってから、結局閉めた。 「まあ、その、なんだ…………そこに座れ、風見」 ため息混じりにそう促され、大人しく従う。 けれど、先手はこちらから。 「わかってるんですよ。先生が次に言いそうなことなんて。けど、私そんなの聞く気ありませんから」 「風見……」 「ふるならちゃんとふってください。変に期待を持たせるようなこというのって、ずるいです」 「ははっ、ずるい、か。そうかもなぁ……」 苦笑を浮かべて、先生は額に手をやった。 「先生。私のこと、嫌いですか?」 「……嫌いじゃないよ」 「じゃあ、好きですか。恋愛対象として」 逃げ道を塞いで問いかけると、先生はまた困った表情を浮かべる。 「風見、昨日も言ったけどな。お前は先生にとっては、まだゾエアみたいなもので――――」 また、それですか。 その言葉を飲み込んで、 「先生、暑いですよね。夏って、どうしてこんなに暑いんでしょうね……」 セーラー服のスカーフをほどく。 先生の顔色が変わった。 「か、風見なにを……」 わかってる。 今の自分がかなり暴走気味なことを。 わかってる。 それでもなお、制御できないことを。 わかって欲しい。 それぐらい、私はあなたが好きなのだと。 ああ、そうだ。全部夏が悪いのだ。 夏の暑さが私をおかしくしたのだと、後付の雑な言い訳を自分にする。 おもむろに、セーラー服とスカートを脱ぎ捨てて、私は下着一枚になった。 「先生、これは脱皮です」 先生は露骨に目を逸らし、私を見ない。それでも私は、続けた。 「ゾエアは何度かの脱皮を重ねて、メガロパを経て、カニになる…………ですよね? じゃあ、私はあと何枚脱皮すれば、カニになれるんですか? 先生は、私のことゾエアぐらいにしか思ってないかもしれないし、確かにカニじゃありません。だけど、私は自分のことメガロパぐらいには思ってます」 そんなの子供っぽい理屈だと、自分でも思っている。 けれど、だけども。それ以上に、胸の奥底からマグマのように湧き上がる熱が、肉体を突き動かす。 そのまま椅子に腰掛けた先生に近づいて、そっとその肩に手をかけた。 「や、やめるんだ風見! もっと自分を大切にしなさい!」 「ええ、大切ですよ。大切ですから、好きな相手にしかこんな恥ずかしいことしません。……それより、先生は暑くないんですか?」 「暑く…………ない」 「いいえ、暑いはずです。ほら首のところ、汗かいてますよ。先生も脱いだらどうです?」 本能と理性がせめぎあっているのか、先生はどこか辛そうに目を逸らしている。 その様が、どうしようもなく、可愛く思えた。 と。 そんな彼の仕草を見ていて、私はふっとあることに思い至った。 「…………もしかして、先生ってメガロパですか? まだ、カニじゃないんですか?」 問いかけてから、数秒。しばしの沈黙のち、先生の顔がさっと紅潮した。 返答は、なし。 けれどおそらく、きっと、そういうこと。 「ねぇ、先生……」 先生の手をからめとり、私の胸元へと導いて、耳元に熱く囁く。 「私と一緒に、カニになりませんか?」 「けど、お前は生徒で…………」 「そんなの、みんな夏のせいにすればいいんですよ」 言って、私は先生と唇を重ねた。 その時には、先生はもう、私を受け入れてくれたみたいだった。 「風見…………風見っ!」 先生の唇が、私の首筋を這い回る。性急な手が私の体をまさぐり、残された下着を剥ぎ取る。ゾエアからメガロパになった私を、先生は少し乱暴に机へと押し倒し。 先生は熱のこもった目で私を見つめ、ズボンのベルトへと手をやっていた。 ――――ゾエアはきっと、今日カニになる。 |
ハイ 2016年06月12日 23時55分55秒 公開 ■この作品の著作権は ハイ さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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