間隙のラプソディ |
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「はぁ」 沢村(サワムラ)は水泳練習の締めにコーラを飲むことにしている。市民プールの自販機はなんと未だに百円で購入できるのだ。ありがたい。 しかし練習で疲れてか、沢村のふやけた手指は思ったように動かない。財布から百円玉を取り出そうとした時だった。 沢村の震える指の間隙を百円玉はくぐり抜け、無慈悲にも自販機の後ろ側に転がって行ってしまったのだ。小遣いの少ない中学生男子にとって、百円という金額は諦める訳にはゆかぬ大金だ。この夏の喉を潤すポーションが、ただの一日でもコーラから水道水に変わるのはあまりにも侘びしい。 沢村は自販機と壁の隙間を覗き込んだ。しかし、覗き込んでいる左側からは手が届きそうもない。 自販機の右側には密接してベンチが据え付けてある。これが問題なのだ。ベンチはコンクリートの床にボルトでガッチリと留めてある。力まかせに引っ張っても、動かざること山の如し、だ。 「ツイてない」 この時ばかりは万有引力を呪い、この仕打ちの苦渋に顔を歪めた。ベンチの背もたれと壁の隙間に横歩きで入り、身体を斜めに入れて手を伸ばしてみる。百円玉は遠く届かない。 しゃがもうとすると腿と尻が引っかかるのだ。長年の(とはいえ、小学生の頃の三年間と中学に入っての数ヶ月だが)バタフライのためのドルフィンキックで鍛えられた足腰は伊達じゃない。 一旦ベンチの隙間から出て、ベンチの脇から身体を潜りこませた。 「おっ」 この策は功を奏した。ベンチの座面より下は、背もたれよりも壁との空間が広かった。 バタフライのドルフィンキックで筋肉のついた腿と尻をギリギリねじ込み、腕を伸ばしたその時だった。 上から衝撃があった。 確かな質量と速度のある物質が、沢村の上に落ちてきた。 「んぐう!?」 「うわびっくりした。何よ! なんであんたがこんな所にいるのよ!」 蛯原(エビハラ)のボディプレスだった。理不尽にもコブシの追撃を食らう。沢村と同じ水泳部の、女子平泳ぎの選手だ。小学生の頃から沢村とともに練習し続けている泳ぎ。その技とパワーは全国レベルだ。パンチはその平泳ぎの伸びよりも鋭い。もう一発きた。 「うぐぅ……っ! お、おまえこそなんでこんなとこに飛び込んでくるんだ」 「う、動かないで、変な所に当たるでしょ!」 蛯原の鍛えられた肉体。その柔らかい部分と硬い部分のハーモニーが沢村に覆いかぶさっている。あまりの刺激に、沢村の男子中学生たる部分が騒ぎ立ち始める。密着した蛯原にもそれが伝わったらしく、顔を背けて身体を浮かせ、ついでと言わんばかりにもう一発、コブシを突き刺した。蛯原が身体を動かすたびに、沢村は濃い女子の気配に満たされて、ファンタジーへの階段を登り始めるが、ややもすると蛯原にコブシを頂戴して現実に引き戻される。 あまりの出来事に沢村は泣きそうになる。 なにゆえこの蒸し暑い日に、狭苦しいベンチの裏で同級生の部活仲間から、飴と鞭の生殺しパンチを食らい続けなければならないのか。 「くるしい」 沢村が呟くと、口をふさがれる。もちろん口で、というロマン要素は皆無である。さっきまで無慈悲にも沢村の脇腹を突き刺していたコブシと同じ、その手を無慈悲にも強引に押しあてられた。 蛯原の顔がぐっと近寄り、つい息を呑む。 突然に走る緊張。蛯原の薄く濡れた髪が沢村の頬をなでる。プールの塩素と、汗を帯びた蛯原の匂いが沢村の肺を満たす。 静かにして、と蛯原は真面目な顔でささやく。その吐息が沢村の額をくすぐった。 ベンチが薄く軋んだ。 誰かが座ったようだ。可愛らしいビーチサンダルを履いた足が見える。同じ水泳部の女子だろうか。 蛯原とこんな所に挟まっているのを見つかると流石にまずい。社会的に死ぬ。 沢村は蛯原に同調して息を潜める。自販機は突然低く唸る。 もう一人分、足音が近づいてきた。 「ごめん、待った?」 「ううん、いま来た所だよ」 声でわかった。男子自由形の師走(シワス)と、女子背泳ぎの金蔵(カネクラ)だ。沢村に、より強く緊張が走る。蛯原は動かない。 「あの、ね? 呼び出した理由なんだけどね」 歯切れの悪い金蔵。師走は金蔵が話し始めるのを待っている。沢村の鼓動は早まる。もしや、金蔵は、師走のことが……。 「こんど、日曜に、……水族館にいかない?」 「うん、いいよ」 即答だった。あまりにも早く、金蔵だけでなく、師走も緊張していることが伝わった。 背中に嫌な汗が流れ落ちた。 金蔵が、師走を……? 沢村は目をきつく閉じた。 まぶたの裏には金蔵の笑顔が浮かび上がっていた。照れくさそうに笑う、とびきりの笑顔だ。 沢村はよく金蔵を見ていた。プールの真水に逆らわず、滑るように泳ぐ金蔵。昼寝から起きて背伸びをするような、自然で滑らかな背泳ぎ。 異性として惹かれていたか、と聞かれると少し悩む。しかし、あの美しさに魅せられていたのは間違いない。 200メートルを泳ぎ切り、顔の水を拭う金蔵の笑顔は、快晴の日のプールよりも輝いていて、目が合ってもとっさに背けることが出来ないくらい、それほどに見とれてしまう笑顔だった。 沢村の心臓は跳ねた。おそらくは師走も沢村と同じだったからだ。師走も金蔵の笑顔に釘付けになっていた。沢村は師走が金蔵を見ていることを知っていた。 金蔵の笑顔が、師走に独り占めされるかもしれない。そう感じるだけの説得力が、さっきの二人にはあった。 水族館。水族館で、もしやファンタジーへの階段を登ってしまうのか。ベンチの裏に挟まった沢村は金蔵の綺麗な笑顔が煤けてしまうように感じた。 ふと、水滴が顔にかかった。沢村はきつく絞ったまぶたを開けた。 蛯原の涙だった。 あまりにも強く目を閉じていたためにぼやけているが、蛯原はしゃくりあげるのを我慢しているように見えた。 (もしかして蛯原は師走のことが好きだったのか?) ぼやけたピントが徐々に合い、下唇を噛む蛯原の表情が段々とはっきりしてくる。 蛯原は苦しそうにして、目尻から涙を落としている。肩は震えていた。 プールで見る力強い泳ぎからは想像できないくらいに、震える肩は小さく見えた。 蛯原の手が沢村の口から除けられ、蛯原は急に身体を起こした。立ち上がる蛯原の、体重が乗った膝は、沢村の腿に刺さった。 鈍い痛みに沢村は、それでやっと金蔵と師走が立ち去ったことに気づいた。両腕がしびれている。ポロシャツは汗に濡れていた。 沢村は思い出して、落ちていた百円玉を拾い、しびれた手に握った。ベンチの裏から抜けだす。 蛯原はベンチに腰を掛けて震えている。 「おい」 沢村が隣に座り、声をかけても反応しない。 「まあ、わかるよ。なんだろう、師走はいいやつだからさ」 蛯原は驚いたように沢村を見る。 「体格もいいし、クロールも綺麗だ。金蔵もおまえも惚れるのはわかるよ」 蛯原は見開いていた目を今度は細そめ、眉を八の字に曲げた。そして両手で顔を覆う。 さっきまで沢村の口をふさいでいた手も、蛯原の口元を覆っていた。 「まあ、良かったじゃないか、相手が金蔵で。お似合いだよあいつらは」 蛯原があまりにも息を詰まらせているので、沢村は反対に落ち着いてきた。 沢村は、蛯原の手が間接キスなのではないか、という事実にまたファンタジーへの階段を登りかけた瞬間であった。 水風船が破裂した。 否、そう感じたのは沢村だけだ。 蛯原が弾けるように笑い始めたのだ。腹を抱えて咳き込むほどに笑っている。 「ど、どうした」 沢村は蛯原の豹変ぶりにあたふたするしかない。 蛯原は、沢村に肩を借りても前のめりになるほど、腹筋を震えさせている。 「あーくるし……」 ひとしきり笑い続けた蛯原は、一つ大きく息を吸い、吐く。 「あの二人見た!? やっとよ!!」 「ど、どういうことだよ」 蛯原はまた少し笑ったが、すぐに収めて説明を始めた。 蛯原が泣いている、と思っていた沢村だが、それが勘違いであることをまず説明され、そこでまた笑われた。 恥ずかしい。蛯原は笑いをこらえて涙を流していたのだ。 金蔵と師走は、いわゆる両思いだった。しかも小学生の頃から続く、長年の(とはいえ、小学生の頃の三年間と中学に入っての数ヶ月だが)両思いだった。 しかし、一向にくっつかない二人に焦れったく思った蛯原が、様々に策を弄し、そのうちのひとつとして二人を水泳部に勧誘したそうだ。 ところが二人は水泳の才能を発揮して、ともに代表選手になるまで水泳がうまくなってしまう。そのせいで肝心の恋の方が一向に進まなかった。 そこで、蛯原が二人を呼び出したらしい。 金蔵には、水族館のチケットを渡して誘うように促し、師走には金蔵から話があるらしい、と呼び出した。 「やっとよ! あんなにバレバレでわかりやすいのにね! もう、焦れったかったぁ」 再び笑い出した。いままで長年(とはいえ、小学生の頃の三年間と中学に入っての数ヶ月だが)こらえていた感情が爆発したようで、制御不能に笑ってしまったらしい。 「気ぃつかって損したよ」 肩を落とす沢村。立ち上がり、握りしめてぬるくなった百円玉を自販機に突っ込む。 コーラのボタンを押したが出てこない。売り切れていた。 ため息をひとつ、深く、深くついた。 コーラ以外になにが並んでいるか、目を上げて眺める。 財布から百円玉が転がって、 ベンチの裏に挟まって、 蛯原ボディプレスを食らって、 音速のコブシを何回も食らって、 蛯原の女子たる部分にモヤモヤして、 部活仲間の決定的な瞬間に立ち会って、 勘違いをして気遣って、 それを笑われ恥かいて、 鈍感な自分に気付かされ、 挙げ句の果てに、コーラは売り切れである。 疲れきってしまった。 行き場をなくした人差し指が宙をさまよう。 ふと、視界の端に指が出てきて、グレープフルーツジュースのボタンを押した。 「あっごめん、つい」 ガコン、と自販機が音を立てる。ピンクグレープフルーツとホワイトグレープフルーツのミックスジュースだった。 「喉乾いちゃっててさ。いつもこれ飲んでるんだ。ついついね、ごめんね」 蛯原は自販機からジュース缶を取り出した。棒立ちしている沢村に手渡す。 手持ち無沙汰に、沢村はジュースを開けて飲む。 甘酸っぱくて、ほろ苦い。 沢村も喉が渇いていたようだ。一息で半分以上飲んでしまう。 「ああ、災難だった」 ようやっと、脳みそに思考が戻ってきた。水分不足と不幸で頭が回っていなかった。 「あーいいなぁ、わたしも飲みたかったなぁ」 蛯原の視線は沢村のグレープフルーツジュースに注がれている。 「飲むか?」 「いいの!?」 即答だった。あまりにも早く、沢村だけでなく、偶然に通りがかったおじさんにも響いた声が伝わった。 冗談のつもりだった沢村は一瞬たじろいで、ジュースの缶を持て余す。その一瞬の隙を突かれて缶は奪われた。 蛯原の動きは水中の鋭い掻きを彷彿とさせた。 「ありがと!」 蛯原は奪いとったグレープフルーツジュースを問答無用で飲み干した。空になった缶を沢村に渡す。 「かーっ! 半分だけど満足!」 しばらく水道水しか飲めないと思ってたからなー、と蛯原は続けた。もしかして水族館のチケットは蛯原の自腹を切ったのか。 「そういえば金蔵と師走は水族館でデートするのか」 「気になる? あの二人だよ、絶対面白いのになー」 今月余裕ないしなーと、蛯原は沢村にわざとらしく目配せしている。 「なんだよ、出歯亀はやめとけよ」 今回みたいなのはうんざりだ。気を遣うだけ遣って得るものなんて何もない。 蛯原は眉を吊り上げて頬を膨らませた。 「いいじゃん、水族館おごってくれたってさー。ふーん、だ」 蛯原は沢村に背を向けて歩き始めた。 ブルーのペンキをぶちまけたように雲ひとつない空。 ド真ん中にハイテンションの太陽が、地面と沢村と蛯原を刺す。 「あっついねー」 そう言う割に涼し気な笑顔の蛯原はキラキラと汗を輝かせている。 そうだな、と沢村は相槌を打ちながら蛯原の隣を歩く。手にはうっかり捨てる機会を失った空き缶があった。 すっかり熱くなった空き缶をおもむろに傾ける。口の中には甘苦い雫が落ちてきた。 「あーっ、やらしい!」 そうだった、うっかりしていた。先ほどこれを飲み干したのは蛯原だった。間接キスだ。 「そんなつもりでは……」 「この変態!」 空き缶を奪われ、走り去られる。しかし、あまりの暑さにへばったのだろう。 蛯原は立ち止まり、膝に手をついている。 沢村が歩いて追いつく頃に、蛯原は息をついて身体を起こした。 蛯原はふと、缶を見つめ、おもむろに口にあてた。 はっと、我に返った蛯原は、顔を真赤にして沢村の方を振り返り、空き缶を投げつけてきた。缶はぶつかって足元に転がる。 「わざとじゃないんだから! つい、つい間違ったんだから!!」 転がるグレープフルーツジュースの空き缶が、笑いをこらえているように見えた。 走り去る蛯原。 それを目で追う沢村は、顔が暑くて、口の中は甘苦かった。 |
ゆまのふ W6A9WVxIBw 2016年06月11日 23時45分24秒 公開 ■この作品の著作権は ゆまのふ W6A9WVxIBw さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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