夏の思い出 |
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夏になると、僕は山に登ることにしている。 夏といえば、海か山の二択が迫られることが多い。多くの場合、海を選ぶ。だけども、僕は違う。どちらかといえば山のほうがいい。海は人が多くて、どうにも好きになれないし、なによりも肌の露出が好きではないからだ。 山というのは、思った以上に身近ではあるが、思った以上に縁遠いものだ。 山中他界、という言葉があるほどに、日本人は山を神聖視してきた。死んだ人間は山に帰るという話もある。 もっとも、僕はそんな山に魅力を感じ、毎年夏が来ると親しみのある山に登ることにしている。 そんな山での話。 その夏は、とても暑い夏となっていた。都会では真夏日を連続して十日間記録し、熱中症で老人が死亡することも多く報道されていた。 しかし、田舎の山の夏としては涼しいものだった。それなりに整備された登山道を覆うように木々が茂り、直射日光はそれらの葉に遮られる。そして、標高が高くなるにつれて、どちらかというと肌寒さを感じるようになってきていた。 僕はちょうど、夏休みで一日ほど山にこもることを考えていた。背中に背負ったリュックサックには、キャンプに備えての装備があった。テントに寝袋、そして、ランタンと食料がほとんどだ。重さはそれなりにあるが、問題になるほどではなかった。 山の頂上に到達したのは、ちょうど、昼頃。そこにある山小屋で昼食にし、午後三時を目安に下山を始めた。そして、山道の中ほどで、人目がないことをうかがってから、登山道から逸れた。 本来ならば、登山道から外れるべきではない。登山というのは、考えられているよりもハードな趣味だからだ。理由としては、遭難の危険性や野生動物の存在がある。野生動物というのは、何であれ人間に対して好意的な反応を見せることは稀だ。そして、人間というのは野生動物に対して無力だ。 それがわかっていて、どうして、登山道を逸れて、山奥でキャンプをするのか、理由は簡単だ。それが、冒険心を満足させるからだ。安心安全に慣れ切っている自分の精神を、危険な野生にさらすことで鍛え直すとも考えていた。 登山道を外れて、獣道を進む。手にしている登山用の杖を握りしめながら、十五分もしたころ、ちょうど、沢に出た。十メートルほどの川幅で、ちょうど平らな地面も近くにあった。 これはいい、と僕はそこをキャンプ地とし、すぐにテントを張った。 テントのすぐそばでランタンをつけ、食事も済まして時が過ぎるのを体験していく。 すっかり、夜も更けてしまったが、あいにくの曇天で、満天の星空というのは体験できなかった。そろそろ、寝ようかとランタンに手をかけたそのとき、近くの藪がガサガサと音を立てた。 まさか、イノシシでもでるんじゃあないか、と僕は思い、無いよりはましだと焚火のために準備していた枯れ枝を握った。 「おや、誰かいるのか」 藪から現れたのは、オレンジ色のジャケットを身にまとった髭面の大男だった。まさしく、山男という風体で、腰から鉈のような刃物を鞘に入れてぶら下げている。 僕はぎょっとする。 山男の手には一丁のライフルと一頭のイノシシが握られていたからだ。 山男は僕の視線に気づき、口元の髭越しにもわかるようにニカリと笑う。 「さっきとってきたのさ。あいにく、まだ食えんが」 そういうと、山男は僕の前を横切るようにして、川へと近づく。 「今って、狩猟解禁してるんですか」 僕はとっさに聞いた。 「ん? この山は俺の知り合いの山でな。害獣駆除と山の整備を仕事にしとるのだ」 「僕は怒らないんですか」 「うろちょろ、山の中をうろついていて、変なことをしていなければな」 山男はじろりと僕を値踏みするように視線を向けた。 「まぁ、今はいい。俺はやることがある」 「やること? なんですか?」 山男は何も答えず、イノシシを川の中に沈めた。イノシシが流れていかないように、腰に下げていた短刀で、川床に張り付けると男は川から上がり、僕のほうへと近寄ってくる。 「隣、邪魔するぜ」 「何が始まるんです?」 辛うじて、僕が聞けたのはそんな言葉くらいだった。 山男は沢の近くに、僕が拾ってきていた枯れ枝を組み合わせはじめる。 「お前さん、イノシシの肉、牡丹肉は食ったことあるかい」 ジッポーライターを取り出しながら山男は尋ねてきた。 「あります」 「美味かったかい」 「えぇ、とても。少々、獣臭いのがなかなか」 「なら、教えてやろう。イノシシの肉ってぇのは、牡丹肉ってぇのはだな。臭みがある。まぁ、それはどうしても仕方ないことだ。家畜用の豚とは違う。野生の臭いだ。獣臭い。気にはならなかったかい」 僕は首を振る。 確かに獣臭いとは感じたが、それも味の一つだと思っていた。 「実は、ここだけの話なんだがね。その臭みを和らげる方法というのが、俺たち猟師にはあるんだよ。もっとも、あまり、人に見せるのはよろしくないのでな。できれば、そこのテント。お前さんのテントに隠れているのをお薦めする」 僕はまた首を横に振る。 少しばかり興味があった。 山男は、ニカッと笑い、空を仰ぐ。 ちょうど、雲が切れ、月が見えるようになりつつあった。 「そろそろだ、川を見ろ」 いわれた通り、川を見る。 何もない。 「よく見ろ、もっとよく観察しろ」 山男は小さな声で言う。 いわれた通り、目を開いて、川の隅から隅までを観察した。 月明りがそっと川面を照らす。 ……いた。 何かが水の上を、水の中を這っている。それはまるでミミズのような、蛇のような細い生き物に見えた。月明りに照らされているためか、輪郭ははっきりとしない。気が付くと、その生き物はイノシシの毛皮を食い破って出てきているのだと見えた。川の下流から上流まで、川面をまんべんなくその生き物が埋め尽くしていた。 そして、川から溢れ出るかとその生き物は川べりから、這い上がって僕たちのほうへと近寄ってきていた。 「頃合いだな」 山男はそう言って、くみ上げていた枯れ枝に火を放った。 焚火は、すぐに大きくなり、煙を周囲に漂わせ始めた。目に染みるほどの煙だ。周囲一帯は、煙に覆われてしまった。ちょうど、沢が盆地の地形になっていたのだろう。煙は十分ほどそこにとどまって、数メートル先も見えないようになってしまっていた。 目の端に涙をため、咳き込みながら耐えていると、ふっと視界が通るようになった。 周囲は静まり返っていた。 先ほどの生き物はいない。 僕はあっけにとられ、立ったまま呆然としていた。 ざぶざぶ、と川のほうで音が聞こえ、慌てて顔を向ける。 そこには山男がいた。山男は川床に張り付けていたイノシシを両手で抱え上げている。 数分後、焚火の前にはずぶ濡れのイノシシがあった。 「見たか」 僕は黙ってうなずく。 「あれが、秘密だ。猟師仲間のうちでも、知ってるのは少ししかいない」 「あれはなんです」 「わからんよ。ただし、あれのおかげで、臭みがとれるのさ」 そういうと、山男は僕に寝るように促した。 「帰るとき一緒なら、イノシシ食わせてやるよ」 と、笑っていた。 テントに入り、寝袋に体を滑り込ませ考える。 あの生き物が臭みをなくす。どちらかというと、あの生き物は臭みの原因なのではないか。もしかして、僕が普段食べている肉で、時折獣臭いものがあるとすれば……僕が今まで食べてきた獣臭いイノシシ肉は……。 あの生き物を食べていたことになるのでは……。 |
藍沢円夏 bHh/MEOz5g 2016年06月11日 00時15分01秒 公開 ■この作品の著作権は 藍沢円夏 bHh/MEOz5g さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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