お隣の幽霊 |
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右隣の部屋に、幽霊が住んでいるのだという。 その名前は知らない。隣の部屋は最上階の角部屋で、私が下見をした部屋よりも日当たりも良く間取りもやや広い上に風通しも良さそうな位置にあった。 不動産屋とともに訪れた引っ越しの下見の際に人が住んでいないと聞いて「あちらの部屋が良いのですが」と頼み込んだところ「あちらには、幽霊が住んでいますので」と断られた。 そうして今日、私は幽霊の部屋の隣に引っ越すことになっている 引っ越したばかりの部屋は、がらんとしていた。 転居してすぐ後はやることは多い。電気水道ガスやネット回線などのライフラインの確保をはじめ、生活の基盤を整えないといけないのだ。この時期はばたばたしていてあわただしい。落ち着いて生活をしていると気が付かないが、人ひとりが住むと荷物は自然と多くなる。それをすべて整理しなおさないといけないのだ。 未開封の段ボールが数個おいてあり、洗濯機や冷蔵庫、電灯といった家具の類だけは設置した状態だ。帰って寝るだけはできるというどうしようもない状態ではあるが、やってないよりはましだろう。 引っ越しの荷解きのすべてを一日で片づけるのは億劫だ。生活に追われながら、必要な分だけ出していけばいいだろう。段ボールにしまわれたままのものがあるというなら、それは不要なものだということだ。放ってどけばよい。 それよりもまず、やらなければいけないことがある。 隣の部屋への挨拶だ。 今のご時世、引っ越しの挨拶はしない場合も多い。面倒だから、逆に相手に気を遣わすから、不審がられるから。何かと理由をつけて挨拶を行わない人が増えている。 しかし引っ越しのあいさつというのは、自分の存在を隣人に知らせる手段として有用だ。何より壁を一枚隔てただけの隣に住んでいる人がどのような人物なのか、気になる。 引っ越しの挨拶がてら、隣人の人となりを一目でいいから見ておきたい。それが私の偽らざる気持ちだ。だから私は、引っ越しの挨拶は欠かさず行っている。 特に今回は、右隣部屋のことがとてつもなく気になっていた。 『幽霊が住んでいる』 不動産屋にそういわれて、気にならない人間がいるだろうか。 少なくとも私は大いに気になった。言われてすぐは冗談か何かと思っていたが、それ以上言及することもなく話題が流れていったため、追及することもできなかったのだ。そのため、右隣の部屋がどんな状態なのか、私にはさっぱりわからない。 やはり何か手土産の一つでももって挨拶に行こう。幸い、もとから両隣と下の階には挨拶にいく予定だった。引っ越しの挨拶用に、無難な品としてタオルを用意してある……と、そこまで考えて、はたと気が付いた。 幽霊は、タオルを使うのだろうか。 わからない。いや、たぶん使わないだろうという気はする。なにせ幽霊なのだ。お風呂に入るのか。雑巾代わりに使うにしても、部屋の掃除をするのか。いや、そもそも手渡しで受け取れるのだろうか。 疑問が次々と浮かんでくるも、その解答の持ち合わせはない。当然だ。幽霊に対する礼儀作法など、どこを探してもあるわけがないのだから。 住んでいると聞いて、自然と家賃を払っているのだと思ってばかりいたが、そもそも噂の幽霊はどういう状態なのだろうか。よくよく考えてみれば、幽霊が家賃を払って賃貸物件にいるというのは考えづらい。もしや、何かしらの怨念をもって地縛霊さながら部屋にいつている状態なのではなかろうか。 考え込んでいると、恐ろしさからじっとりと汗をかいてきた。まだ夏の始まりで蒸した季節だというのに、心なしかひんやりと冷えてきた気がする。 ええい、ままよ。 迷っていても仕方がない。それは仕事でも私生活でも変わらない。基本的に迷っていてもいいことはないのだ。特に解決策がないとわかりきっている現状、迷っているだけ時間の無駄である。 私は粗品のタオルを手にもって、立ち上がった。 インターホンを押すのをこんなにもためらったのは初めてかもしれない。 左隣りと真下の部屋への挨拶は滞りなく終わらせた。幸いといっては失礼かもしれないが、壁一枚だけの近隣に子供や赤ん坊はいないようで、音に悩まされることはなさそうだと安堵している。 そうして最後に回していた問題の一室の前で、私はごくりと唾を飲み下した。 この部屋に、幽霊が住んでいるのだという。果たしてチャイムを押して、内側から扉は開くのだろうか。幽霊なのに、扉は開けられるのだろうか。そんな疑問に取りつかれつつも、インターホンを押した。 いい歳をして柄にもなくどきどきとして待つこと数十秒。 不意にドアから手が生えた。 ぎょっと身を引いたが、ほのかに燐光をまとった半透明の腕は、肘あたりまで飛び出たところで躊躇いがちに動きを止めた。そうして、遠慮深そうな仕草で手招きをする。 入って来てもいいという仕草だというのはわかる。わかるが、ものすごく不気味だ。 だが同時に、その所作から悪意がなさそうな気もした。 人の仕草というものは、その一つとっても育ちと性格が出てくるものだ。特に人前であるならば顕著であり、他人に対してどう接する人間かというのがあからさまに表に出る。 その面から考えると、今の腕の持ち主からは悪い印象は受けなかった。一瞬見ただけだったが、押しつけがましくなく丁寧さを感じる。性別は、おそらく女性の腕だろう。ほっそりとした繊手に、爪先を丁寧に整えてあった指先は好印象だった。 あれだったら、問題はなさそうだ。幽霊ということはさておき、人格の信用は申し分ないのだろう。それでもおそるおそる、ドアノブに手をかける。鍵はかかっておらず、力を入れるとドアがわずかにきしむ音がした。 扉を開くと、そこには、幽霊がいた。 長く伸びた黒髪がよく似合う、上品な女性だ。やさしく儚げでいて、芯のある面立ち。わずかに地面から浮いた半透明な体は、ほのかに燐光を放っている。 わずかに微笑んだ彼女は、丁寧に頭を下げる。その最中で、彼女が口を利けないことを察した。 「あー……」 何を言えばいいのか。真っ昼間だというのに幽霊を目の当たりにしてしまった衝撃で真っ白になった頭で、それでも何とか言葉を絞り出す。 「隣に越してきた者です。これは、引っ越しの粗品なのですが……」 タオルを取り出して、渡すべきか悩む。 扉を突き抜けたこともそうだが、やはり物に触ることができないのだろう。一瞬手を出しかけた彼女は、途中で困ったようにさまよわせた。 それでも、私より彼女のほうが迷いは少なかった。 逡巡もわずかな間だけで、彼女は少ない身振り手振りで自分の部屋の中を指し示した。おそらく、中に入ってもくれと意思表示しているのだ。 初対面の相手の部屋に上がるのには、抵抗がある。相手が女性ともなればなおさらだ。 それでも上がったのは、ぶしつけながら興味本位と彼女の人柄にひかれてだった。 幽霊の彼女の背中についていく形で、靴を脱いで部屋に上がる。 中の部屋は、ひどく物がなかった。引っ越し仕立ての私の部屋と比べても、がらんとしている。衣装ケースの類も寝具もなく、あるいのは窓を遮るカーテンと、部屋の真ん中に置かれたちゃぶ台と、部屋の角に置かれた掃除機と、ちゃぶ台に置かれた一台のノートパソコンだけだ。入りざまに、失礼にならない程度に台所のシンクに視線を走らせたが、油汚れも水垢もほとんどなかった。 部屋を観察する限りでは、幽霊の彼女には食事も睡眠も必要ないようだ。 そうすると、果たして彼女がどうしてわざわざ居を構えているのか分からない。あるいは、何か怨念や未練があって部屋に居ついているのか。案内されて部屋にあげると、幽霊の彼女はちゃぶ台に正座して開きっぱなしになっているノートパソコンの画面を指差す。幽霊になってなおちゃぶ台の前で正座している彼女は、生前はさぞ折り目正しい性格であったのだろう。 促されるままに、パソコンの画面に目を落とす。 ――初めまして。幸子と申します。 ひとりでにテキストファイル開かれ、その文章が打ち込まれていく。 その現象に驚いて彼女の顔を見る。 幸子と名乗った彼女は、ほほ笑んで私の驚愕を受け入れた。 ――運のいいことに、触らずにパソコンのような電子機器を動かせるんです。 タイプキーすら押さずに画面に打ち込まれる文面に対し、知らず知らず自分のポケットに入れてあるスマートフォンに触れてその感触を確認してしまった。 その動きを察したのか、幸子さんはわずかに目を伏せて悲しげな表情をする。 無自覚にやってしまった失態にしまったと思う。他人を疑うようなそぶりをして、気を悪くしないはずがない。 だが幸子さんはわざわざ言葉にしてそれを咎めるようなことをしなかった。 ――ここの大家さんの娘さんと生前知り合いで、幽霊になってからいろいろとよくしてもらいました。部屋もその縁で借りて、ネット回線彼女に頼んでつないでもらっています。週に一度、掃除にも来てくれているんですよ。 何も見なかったふりをしてテキストの文面に書かれていく文字に、気まずい思いを引きずりつつもなるほどと頷く。 道理で部屋の隅に掃除機が置かれているわけだ。部屋の床もほこりっぽさはあまりなかった。幸子さんの友人は、まめに掃除に来ているのだろう。 しかし、無意識とはいえ失礼な警戒心を表に出してしまった。何とか挽回できないだろうかという焦燥が、ふつふつと胸から湧いて出る。 もしかしたら、彼女はその焦燥も見抜いたのかもしれない。 テキストに、また新しい文字が書かれていく。 ――身勝手で恐縮ですが、引っ越しのご挨拶の粗品でメールアドレスでもいただけたらと。あ、もちろん、フリーのアドレスで大丈夫です。 慌てたように付け足され最後の文面に、私はスマートフォンを取り出して、ブロバイダーで登録したメールアドレスを彼女に提示した。 右隣の部屋に、幽霊が住んでいる。 彼女の名前を、幸子さんという。 部屋からめったなことで出てこない彼女と顔を合わせる機会はない。生活のリズムが合わなければ、隣人の顔を見ないことなんてざらだ。珍しいことでも何でもない。 それでなくとも、いまの住まいに引っ越した翌日、幸子さんの友人らしい大家さんの娘さんから血相を変えて問い詰められたのだ。どうやら、初日部屋に上がったことを幸子さんから聞いて、どうしてそうなったと泡を食ったらしい。 そもそも不動産屋が知ってるくらいなのだから大げさな、と思ったが、その不動産屋も大家さんの親戚筋だということで、うっかり漏らしてしまっただけという。彼女たちなりに、幸子さんのことは周囲に漏れないよう気を使っていたそうで、私も口を閉じるように求められた。 面倒ごとを呼び込む気はないし言いふらすようなことでもないので、もちろんと頷いた。それに考えてみれば、確かに初対面の女性の部屋に上がったら何があったのだと問い詰められても仕方ない。ただ、大家さんの娘さんは、少々幸子さんに対して過保護ではないのだろうか。幸子さんは、間違いなく自立している一人の大人の女性である。 とはいえ、隣人関係など他人に等しい。大家さんの娘さんの言も一理あり、軽々しく他人の部屋に上がりこむようなことはできない。 だからそのまま疎遠になるかと思いきや、今回の隣人とは一風変わった交流手段を得た。 引っ越しの挨拶で渡したメールアドレスの縁から、いまではSNSで頻繁に言葉を交わしているのだ。 この類のコミュニケーションツールはいままで使ったことがなかったが、これが意外と便利で楽しい。言葉を話せない幸子さんのためにしぶしぶ始めてみたものが、今では盛んほかの人とも交流できている。それもこれも、交流の広い幸子さんからのつながりだ。幽霊ゆえか、部屋から一歩も出ない幸子さんも電脳世界では活発で人脈が広い。彼女と話していると、自然と話の輪が広がるのだ。 そうして幸子さんと今日もそうして言葉を交わしていく中で、勇気を出して一歩踏み込んだ質問を投げかけた。 『幸子さんは、どうして家を借りているのですか?』 公開されるメッセージではなく、プライベートの通信で言葉を贈る。 幸子さんは幽霊だ。特に、部屋に縛り付けられている地縛霊でもないということは聞いた。そんな彼女はネット金銭を稼ぎ、その稼ぎのほとんどを賃貸費に充てている。 けれども、果たしてそこまでして住まいを確保する必要はあるのだろうか。 実際、体のない彼女では部屋の清掃などもできない。建造物は、ある程度人が整えなければ驚くほど古びていく。実際幸子さんが住んでいる部屋も、大家さんの娘さんが頻繁に訪れて手入れをしていっているのだ。 ほんの少しだけ間があったが、さほど待たされることもなく返答が来る。 ――野ざらしは、辛いですから。 きっと実体験だろうとわかる、ずしりとした一言だった。 胸に沈殿する苦みのある答えを見て、同時に長年の疑問が腑に落ちた。腑に落ちて溶けて消えたのは、幸子さんに対する疑問だけではなかった。 私が、いいや、私たちが、どうして住まいに多大な金銭を費やしているか。 私は月収の三分の一近くの金額を毎月部屋の賃貸費として振り込んでいる。口座振替で自動的に引き落とされる度に、小さくないその金額を見て少なからず肩を落としている。私に限らず日本人は、住まいというものに多額を費やしているのだ。 だが、それでも、私たちはどこかに住むということを決してやめはしない。土地に値段をつけ、建物に住むのにもお金をかける。それはなぜなのか、今の問答ではっきりしたのだ。 住まいとは、尊厳なのだ。 人間を人間足らしめる三つの要素の衣食住。 幸子さんは、物に触れない性質から服飾の楽しみを喪失し、食の必要もなくなった。そんな幽霊の彼女は、住まいを得ることによって人としての最後の尊厳を守っているのだ。 『そういえば、幸子さんは、どうして幽霊になったのですか? やはり、未練などが?』 生きる上の命題が、いままで聞けなかった、一歩踏み込んだ質問を投げかける。 電脳空間でタイムラグなく行われるやり取り。今度はすぐに答えが返ってくる。 ――いいえ。 短い否定。 ではなぜ、と思ったのを見計らったように、テンポよく答えが提示される。 ――私は、電気で動いています。 それは、なんというべきか。 納得できるような、できないような。 区切って紡がれた文面に、幸子さんの得意げな笑みを幻視した私は、とても微妙な心地になって、一言。 ――とても、現代的ですね。 ――はい。 おおいばりの様子が見える答えがおかしくて、コミュニティーが広がる画面の前で小さく笑った。 |
とまと 2016年06月11日 00時01分29秒 公開 ■この作品の著作権は とまと さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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