人生なんて、きっと誰もが、格好悪い |
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★男の子★ グラウンドから聞こえてくる、運動部の掛け声で目が覚めた。 放課後。まだ陽は高く、時計を見ると本日最後の授業が終わって一時間も経っていない。 なのに教室には俺しかいなかった。 みんな部活に行ったり、帰ったりしたのだろう。 大人に押し付けられる時間が終わり、ここからは俺たちの時間。誰もがそれまで抑圧されていたエネルギーを思う存分解放したいとばかりに、各々の居心地のいい場所へと急ぐのは当たり前だと思う。 俺だって、ほんの少し前まではそうだった。 耳を澄まさなくても聞こえてくる、野球部のボールを打つ音、サッカー部の掛け声、演劇部の発声練習などに俺の声も混じっていたはずだ。 「……」 でも今はこうして教室の片隅でひとり惰眠を貪っている。 自分でも青春の無駄使いなのは分かっているさ。 だけどどうしてもあの敗北が頭をよぎって動けないでいた。 ☆女の子☆ 「うおおおりゃあああ!」 掛け声も勇ましく、私はラケットを持つ右手を精一杯に伸ばしてボールに飛びついた。 ごろごろごろごろ。 飛びついた勢いのままコート上を転がる。 が、その甲斐あってラケットはボールを相手に弾き返したはずだ。ちゃんと手ごたえがあったもん。 「馬鹿め、甘いわっ!」 ところがそんな苦労してまで返したボールを、先輩は容赦なくスマッシュして私が転がる方とは逆側に叩きつけた。 「ふぎゃああああ! 頑張ったのに、ひ、ひどい……」 「酷くない! あんなに体勢を崩して返してもこうなるのは当たり前じゃない」 先輩が呆れたように言う。 「ぶーぶー、だったらもっと返しやすいところに打ってくださいよー」 「それじゃあ練習にならないでしょーが!」 そして先輩はあれぐらい普通に打ち返せるようにならないとダメだと鬼の形相を浮かべる。 「誰が鬼だって?」 うわん、先輩、人の心を読まないで。 「あのねぇ。私はあんたが上手くなりたいって言うから付き合ってあげてるのよ? このままじゃあんたたち、またこっぴどく負けるわよ。それでもいいの?」 「ヤダ!」 「だったら泣き言いってないで、続けるわよ!」 先輩に喝を入れられて私は立ち上がる。 そうだ、もうあんな惨めな思いはしたくない。させたくない。 「……あ」 そんな時だった。 テニスコートを囲むフェンスの向こう側に、ちらりと彼の姿が見えた。 ★男の子★ 最悪だった。 家に帰ったら、いつもはまだパートで働いているはずのおふくろが玄関で待っていて 「太陽(たいよう)、あんた部活は?」 と言ってきた。 「ちょっと調子が悪いから今日は早めに切り上げたんだ」 「ウソ言いなさい。あんた、最近は部活もせずに街をぶらついてるらしいじゃないの」 なんでもパート仲間の人から聞いたらしい。くそっ、バレないようにおふくろの職場とは駅を挟んで反対側のゲーセンで遊んでたのに。 「あんた、テニスやめるつもりなの?」 「おふくろには関係ねーだろ」 「……まったく情けない。ちょっとボロ負けしたぐらいで心が折れるなんて、そんなヤワな子に母さん育てた覚えはないわよっ!」 そして始まるおふくろの説教は延々と続き、解放されたのはその日の夜遅くだった。 「ここまで言ってもまだウジウジしている子に食べさせるものなんてありませんっ!」とおかんむりなおふくろが晩飯を作らなかったので仕方なくカップラーメンで済まし、お風呂に入るとすでに日付は変わっていた。 あ、宿題やってねぇ……ま、いいか。 疲れていたので寝てしまおうとベッドに入ろうとする。と、 「太陽、ちょっといいかい?」 親父が部屋の扉をノックしてきた。 「なんだよ、もう寝るところなんだけど?」 扉を開けもせず、俺はベッドに寝転びながら応える。 俺は何かと五月蝿いおふくろが苦手だ。 そしてそんなおふくろの尻に敷かれている、万年平社員の親父が嫌いだった。 「来週な、学校が終わったら父さんとあるところに行かないか?」 「あるところ?」 「ああ、父さん仕事を早めにあがらせてもらうから、校門のところで待っていてくれ」 「おい、ちょっと待てよ。どこへ行こうってんだよ?」 「それは行ってのお楽しみだ。じゃあ、おやすみ」 いや、誰も行くとは言ってねぇし。 でも俺の返事も待たずに、親父は扉から離れていった。 ☆女の子☆ 「ありがとーございましたー」 練習が終わり、私は深々と先輩に頭を下げた。 「あー、はいはい。毎度のことながらマジで疲れたわ」 でもあんたと練習するとこっちもスタミナ強化につながるからねーと先輩がにっこりと笑ってくれた。 私も先輩も汗だらけ、さらに私は何度もコートを転がって土まみれだけれど、充実感もまたハンパない。 「ねぇねぇ先輩、あたし、最後の方はいい感じじゃなかったですか?」 「そうね。ようやく運動神経任せじゃなくて、相手の動きを予想した動きが出来てきたんじゃない?」 「そうなんですよっ! なんだか『あ、こっちに打つと見せかけて、あっちに打つな』とか感じるようになってきたんですっ!」 ふっふっふ、ついに私も神の領域に踏み入れたか。 「まぁ、まだまだ精度が低そうだけどね」 ……ソウデスネ、マダ正解率20%グライデスモンネ。 「それでも莉子(りこ)、あんたにはお父さん譲りのスタミナと運動神経があるんだから、そこに相手の動きの予測が出来るようになったら鬼に金棒よ」 「……だといいんですけどねぇ」 あ、いけない、咄嗟に弱気の虫が出てしまった。 せっかく先輩が褒めてくれたんだから、ここはもっとさっきみたいなノリノリに答えるべきだった。 「……まだあの試合のことを引き摺ってるの?」 「え? いや、別にそういうわけじゃ……」 「確かにね、あの時のあんたはまだまだあいつの足を引っ張るところがあった。でも、あれからずっと私にシゴかれてきて、ぐっと力をつけてきたわ。今ではあいつのパートナーとして堂々と一緒に戦えることが出来るはず。いや、それどころか練習をサボってばっかのあいつより今では力が……」 「……」 私が苦笑いを浮かべているのに気付いて、先輩もそれより先は口を噤んでくれた。 「あー、さて、さっさと着替えて帰りますか。そだ、帰りにどっか寄ってく?」 そして空気を換えようと、明るくそんな提案をしてくれる。 本当にいい先輩だ。 「はい、ラーメン! あたし、ラーメンが食べたいです!」 だから私も元気で明るい私に戻る。 「えー、ラーメン? 今そんなの食べたら晩御飯食べられなくなっちゃうわよ?」 「いいんですよ。うち、ここんところはお父さんに合わせて晩御飯のカロリーがめっちゃ低いんで」 「うん? ああ、そうか、莉子んちのお父さんって確か……」 「はい、そろそろ試合が近いんで、私たちも巻き込まれているんですよー」 育ち盛りの莉子ちゃんにはこれがつらいのなんのって。 「そっかー。大変ねあんたも。いいわ、ラーメン食べに行きましょう!」 「やったー!」 「お父さん、勝つといいわね」 「はいっ!」 私は元気に頷いた。 ★太陽★ 「え、ここって……」 翌週の親父と約束をした日。学校が終わって校門に出ると約束通り親父が待っていた。 目的地も告げられないまま電車に乗り、JR水道橋駅で降りて歩くこと一分。東京ドームを右手に見ながら入っていったビルの五階には、テレビでしか見たことがない光景が広がっていた。 「おーい、太陽、こっちだ」 俺が呆気に取られていると、いつの間に移動したのか、親父がすり鉢状となった会場の真ん中ぐらいの席で手を振っていた。 「いやぁ、今日は津島のデビュー戦ってこともあって、この時間でもお客さんがたくさん入っているなぁ」 人波をかきわけてなんとか親父の隣の席に辿り着くと、嬉しそうにそんなことを言ってくる。 「いつも以上って……親父、そんな頻繁にここに来るのか?」 「そうだなぁ、もうかれこれ五年近く、数ヶ月に一度ぐらいのペースで見にきてるよ」 知らなかった。平凡で、なんの特徴もない、うだつのあがらない親父に、まさかボクシングの試合を観戦する趣味があったなんて。 「どうだ、太陽、初めてのボクシングホールは?」 「どうだって言われても、スゴイとしか……」 会場そのものは思っていたよりも小さい。が、その分、ライトに照らされたリングが近く感じられて、実際グローブをつけて殴りあう音が想像以上に大きく聞こえてきて臨場感がある。 そしてそんな選手たちの奮闘に刺激されたかのように、試合を見つめる観客の熱気がすごい。大声で選手を応援する者。一緒に戦っているつもりなのか、拳を振り回す者。ラッシュに会場が震えるほど歓声が鳴り響き、ゴングと共に皆が一様にふぅと深く息を吐く。テレビで見たことはあるけれど、実際に会場で体験すると否応もなくこの世界に飲み込まれてしまいそうだ。 「太陽、今日は凄いぞ。メインは松浦の世界戦だが、その前にもオリンピックで金メダルを取った津島のデビュー戦もあるからな!」 「松浦? 津島?」 「ああ。どっちも凄い選手だ。でもな、父さんが太陽に見て欲しいのは……おっ、出てきたぞ!」 前の試合が終わってややテンションが落ち着いた会場が、次試合の選手の登場で俄かに活気付く。 「桜内-っ、頑張れよーッ!」 突然親父がこれまでに聞いたこともないような大声をあげた。 「桜内?」 親父の口から意外な名前が出てきて驚く。 「ああ、太陽、この選手の戦いをよく見るんだ! きっと今のお前に勇気をくれるから」 あ、なんだ、桜内って今出てきたボクサーの名前か。 俺は思わず苦笑しつつ、リングに登った親父オススメの桜内という選手をじっと凝視する。 「……え?」 そして驚いた。 親父が見ろといった桜内って選手。引き締まった体はしているものの、頭の頭頂部は禿げ上がっていて 「よっ! 中年の希望の星! 頑張れよー!」 「おっさん、今日もいい試合を期待してるぞー!」 会場に鳴り響く観客の応援どおり、どこからどう見ても中年のおっさんだった。 ☆莉子☆ 初めて見たお父さんの試合を、私はいまだによく覚えている。 確か五歳の時だった。 大きくて、いっぱい人がいて。 騒がしくて、でもドスンドスンって殴りあう音や、キュッキュッとマットを駆け回る音ははっきりと聞こえてきて。 全体的に暗いのに、中央のリングだけはライトに照らされていた。 そこでお父さんは必死に戦っていた。 なんでも初めてのタイトル戦だったらしい。 近所のスーパーで働きながらようやく掴んだ日本チャンピオンへの切符。勝ち取れば長年の夢が叶い、一家の生活も少しは楽になる。 だからお父さんは死に物狂いで頑張った。 倒されても倒されても何度も立ち上がり、相手に向かっていった。 私の隣でお母さんが両手を握り、泣きそうになりながら、何度もお父さんの名前を呼んでいた。 だから私も声を張り上げて、お父さんを応援した。 だけど届かなかった。 結果は大差での判定負け。顔はぼこぼこ、血だらけになり、相手に何度も倒されたのだから仕方がない。 それでも。 「桜内、いいガッツだったぞー!」 「負けたけど次の試合も頑張れよー! 応援してるぞー!」 「今日の試合でお前のファンになった! 次も絶対に見に来るからなー!」 負けたお父さんへのお客さんの歓声がとても嬉しくて、それは私の宝物となり、そして今の私を作ってくれた。 ★太陽★ 「おい、親父。これってどう見ても……」 一ラウンドを見終えて、俺は言わずにはいれなかった。 「いやー、さすがはメダリストの津島だな。桜内のパンチを簡単にかわして、逆に的確なパンチを当てていた」 親父が感心するように、津島とかいう選手の動きは見事だった。 突進してくる相手を上手くいなし、時には出鼻を挫くジャブ、時には鋭いカウンターで着実にダメージを与えていった。 「じゃなくて! おい、あの桜内っていうおっさん、全然ダメじゃねーか!」 対しておっさんボクサーの桜内は、素人の俺が見ても明らかに格が落ちる。 パンチの勢いはさすがにプロだけあって凄いが、相手にたやすく見切られていて、当たりそうもない。 逆に何度もカウンターを喰らって、遠くから見ても早くも顔が腫れあがってきていた。 「どう見ても桜内っておっさんの敗戦濃厚……こいつの何を見ればいいって言うんだよ?」 と言っている傍から第二ラウンドが始まる。 試合展開は先と変わらず、桜内が闇雲に攻め、津島が簡単にいなす。応援の歓声は意外にも桜内のほうが多かったが、会場が盛り上がるのは決まって津島のカウンターが入った時だった。 「あっ!」 そのカウンターがまた入る。と、これまではその一発だけで終わらせていた津島がこの試合初めての連打を見せた。 右ストレートのカウンターを皮切りに、ボディに左のショートフック。くの字に身体が曲がり、やや前のめりになった桜内の顎に、すかさず右のアッパーカットを繰り出す。 「おおおおおおーっ!」 見事な連打に会場がどよめく中、桜内が溜まらずダウンした。 「あーあ、やっぱりダメじゃねーか!」 予想通りの結末に俺は隣りの親父に愚痴る。 「太陽、それはまだ早いぞ」 「早いって、ここで立ち上がってもどうせ結果は一緒だろ。どう見ても実力差がありすぎる」 事実カウント9で立ち上がりはしたものの、桜内の足元はフラフラと心もとない。 そんな相手に勝機を見た津島はここで決めるとばかりに連打を重ね、桜内もなんとか踏ん張るものの、耐え切れずに片膝をついた。 「ほら見ろ! これで決まりだ」 「普通のボクサーならそうだろうな」 「え?」 「太陽、ここからだ。桜内の試合はいつだってここからが熱いんだ!」 親父が「さくらうちー!」と叫ぶ。 いや、叫んでいるのは親父だけじゃなかった。 会場にいる多くの観客が「さっくらうち、さっくらうち!」とコールする。 本来ならこういう場合って勝利目前の選手にこそコールが飛ぶものだろう。まさかの事態に津島も、その応援団も戸惑っている。 そして。 「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおーーーーっ!」 会場に割れんばかりの歓声が響く中、鼻血を出しながらも桜内は立ち上がった。 ☆莉子☆ 物心が付いてから分かったことがひとつある。 お父さんはボクシングが下手だ。 プロボクサーなのに下手ってどういうことなんだよって思うけど、本当にヘタクソなんだから仕方がない。 パンチは当たらないし、逆にいいのを喰らってすぐに顔が腫れ上がるし、何度もダウンする。おまけに鼻の粘膜が生まれつき弱いらしく、毎試合必ずと言っていいほど鼻血を出す。 娘としてはセンスがないんだからもう辞めたほうがいいよと言いたい。強く言いたい。試合の度に心配するこっちの身にもなれ。 だけど同時にそれでもボクシングを続けるお父さんを誇らしくも思う。 幾らヘタクソでパンチが当たらなくても。 何度もマットに這いつくばらされても。 顔が腫れ上がり、鼻血で真っ赤になっても。 お父さんは自分からは絶対に諦めない。試合終了のゴングが鳴るまで、あるいはレフェリーやセコンドが試合を止めるまで、ひたすら前へ前へと出て行き、拳を繰り出すのをやめない。 そんなお父さんに一度尋ねたことがある。どうしてそこまでしてボクシングを続けるのか、って。 そしたらお父さんったら笑顔でこんなことを言ったんだ。 「だって莉子、それが生きるってことじゃねーか」 って。 うん、出来ればもっと上手く生きて欲しいよ、お父さん。 だけどそんなお父さんの生き方が私は大好きだ。 ★太陽★ 隣りで親父が何かを叫んでいる。 でも、それすらもよく聞き取れないぐらい、会場は観客の声援でごった返していた。 全ては桜内というおっさんボクサーの奮闘が原因だ。 ボクシングに疎い自分から見ても、もうとっくに結果は見えている。何度も倒され、まぶたが腫れ上がり、ラウンド間に何度止血してもすぐに出てくる鼻血のせいで自分だけでなく相手のグローブすらも赤く染める桜内に対して、津島はほとんどパンチらしいパンチを貰っていない。 まず津島の勝利は揺るがないだろう。 しかし、ここにきてKO決着のビジョンが見えにくくなってきていた。 倒しても倒しても桜内が立ち上がってくるからだ。 いやこれもうレフェリーストップだろ、セコンドも早くタオルを投げてやれよと津島の表情が物語っている。 それでも倒されても倒されてもその度に立ち上がり、怯むことなく前へ出て、パンチを唸らせる選手を止めることは誰も出来ない。 そんな桜内の姿に、応援する声もどんどん大きくなっていく。 頑張れ、まだまだやれるぞとその背中を押す。 そして気が付けば、俺も出来る限りの声を張り上げて応援していた。 明らかに劣勢。間違いなく勝ち目はない。 なのに応援してしまう、この心情をなんと説明すればいいのだろう。 情け? いや違う。 そんなつまらない感情で、人はこんな必死になって応援したりはしない。 それでは弱者が強者に一矢報いるところが見たいのだろうか? これは多少にあると思う。さすがにここから桜内が大逆転するなんて奇跡は求められようもないが、ここまで来たら一発でもいいからいいのをぶちかまして欲しいと願う気持ちは俺にも確かにある。 だけど決してそれだけではない。 声を張り上げ、両手を握り締めて、心の底から「頑張れ!」と願うこの気持ち……一体どこからくるのだろう? 「あっ!」 その時だった。 KOを欲張ったのか津島のパンチの振りが若干大きくなった。 そこに桜内の我武者羅に放った右ストレートが、相手のパンチよりも一瞬早く津島の顔面を打ち抜く。 「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっ!」 この試合始まって以来初めての、桜内のクリーンヒット。津島が身体を一歩、二歩とよろけさせて尻餅をつき、会場はこの日一番の盛り上がりを見せた。 ☆莉子☆ 「以上3-0を持ちまして、勝者青コーナー・津島善人!」 判定が読み上げられ、レフェリーがお父さんの相手選手の腕を上げるのを私は黙って見ていた。 うん、まぁ、そうだよね。お父さんがダウンを奪ったのは一回だけ。相手はその何倍もののダウンを奪ったんだもん。そりゃあ判定で勝てるわけないわ。 でも久しぶりに相手からダウンを奪ったのは事実なわけで、お父さんはぼっこぼこにされながらもどこか充実したような笑顔を浮かべていた。 「桜内、よく戦ったぞー!」 「久しぶりにダウン奪うところを見せてもらったわー!」 「この調子なら次の試合で絶対に勝てる! だから頑張れー!」 そんなお父さんに会場のお客さんからも温かい声援が飛ぶ。 いつものことながら心がジーンとする。これだけ多くの人に応援されて、励まされて、負けたけれど声援が降り注ぐ中、リングを降りるお父さんは幸せ者だ。 「あ、桜内さん、ちょっと待ってください!」 すると会場のスピーカーから突然お父さんを呼び止める声が流れた。 トレーナーの人たちに開けてもらったロープの間から退場しようとしていたお父さんはなんだろうと動きを止めて、リングを振り返る。 そこにはさっきまで殴りあった津島選手がマイクを片手に立っていて 「桜内さん、今日は本当にありがとうございました!」 と、いきなりお礼を言ってきた。 「オレ、アマチュアで金メダルを取って、今日の試合も絶対KO勝ちするつもりでした。なのにKO出来なかった。倒しても倒しても立ち上がってくる桜内さんにプロボクサーの凄さって言うか、強さを教えてもらったような気がします」 再びありがとうございましたとお礼と共にぺこりと頭をさげる津島選手。 「どんな苦境でも心を折らず、自分を信じて前に出る桜内さんの姿をオレ、絶対忘れません。苦しい時には桜内さんのことを思い出して頑張ります! そしてそんな桜内さんと拳を交えた今日の経験を活かして、必ず世界チャンピオンになってみせます!」 突然津島選手から飛び出したチャンピオン宣言に、会場が「おおー!」と沸く。 私はデビュー戦を終えたばかりだというのに気が早い人だなぁと思ったけれど、そう言えばこの人、オリンピックで金メダルを取ったんだったっけ。だったらチャンピオンを目指すのは当然、妙にマイクパフォーマンスが上手いのも頷けた。 ただ、さ。 私が嫌な予感を顔を顰める中、四方の観客に向かって順に頭を下げる津島選手に、お父さんが近付いていく。 津島選手も気が付いて握手をしようと右手を差し伸べた。 だけどお父さんはその手を無視して、無理矢理津島選手の左手に握られたマイクを奪い取るのだった。 ★太陽★ 「おい、若造。てめぇ、なんか勘違いしてねぇか?」 スピーカーから聞こえてきた桜内の声は想像通りおっさんのそれだった。 だけどその第一声は予想と違って、穏やかなものではなかった。 てっきり津島に激励の言葉を贈るのかと思っていたのに、いきなりの喧嘩口調。津島も驚いてぽかんとしている。 「なにがチャンピオンになってみせます、だ。ムリムリ、てめぇはチャンピオンになれねぇよ。なぜならチャンピオンになるのは」 桜内がニヤリと笑って悠然と親指で自分を指差した。 「この俺様だからだ!」 津島だけではない。会場にいる誰もがこのセリフに一瞬ぽかーんとなった。 「ふっふっふ、この歳になっても衰えるどころか、むしろ最近はパンチ力が以前よりも増してきたんじゃないかと思っていたところに、今日の試合で見事なダウンを奪ってしまった。来ている、完全に俺様の時代が来ようとしている!」 皆が呆気に取られるのをいいことに、桜内がえらく調子に乗ったことをいい始める。 「見事なダウンって、単にラッキーパンチが当たっただけじゃねーかっ!」 いち早く我に返った観客の一人が野次った。 「ラッキーパンチじゃねぇーよ! 見事な計算の上に繰り出された必殺パンチなんだよっ!」 「計算ってどんな計算なんだよ!?」 「ふふん、その名も死んだ真似作戦! あともうちょっとでKO出来そうという擬態をしてみせることで相手の大振りを誘い、そこに蟻地獄のようなカウンターを決めるという、まさに頭脳的な」 「ウソつけっ! 擬態もなにも完全に死にかけてただろうが!」 この頃になるとさすがに多くの観客が桜内の強がりにツッコミを入れまくっていた。 「そもそもパンチ力が増したって言っても、津島には全然効いてなかったぞ!」 「なんだとっ! だってコイツ、ダウンしたじゃねーか!」 「思わぬ攻撃に面食らって、驚いて尻餅をついただけだ!」 「そんなことは断じてない! ふっ、津島、お前からもこの素人連中に言ってやれ。実はあの時のパンチでいまだに脳が揺れている、と」 「え? いや、だってオレ、カウント3で立ちましたし」 「いかん! 俺のパンチがあまりに強すぎて記憶障害を起こしてしまっている。ドクター、早くこいつを医務室に連れて行ってやってくれ!」 お前こそ脳に蛆虫でも湧いてるんじゃねーのかと会場全体から桜内にツッコミが入ったのは、まさにその直後のことだった。 ☆莉子☆ 嫌な予感があたってしまった。 お父さん、恥ずかしいからもうやめて。 ★太陽★ 「いいか、お前ら、よく聞け!」 会場からの「ひっこめ桜内」コールに、トレーナーも桜内をリングから降ろそうとする。 が、トレーナーたちに羽交い絞めにされながらも、桜内はマイクを離さずに話し続けた。 「今日も応援ありがとうよ! おかげでいい試合をさせてもらった、感謝してるぜ! けどよ、ひとつだけ言わせてくれ!」 おっ、それまでの流れに反してなんだかまともなことを言い始めたような……。 「何で俺のファンはお前たちみたいな、しょぼくれたおっさんばかりなんだ!? どうして若い女の子のファンが俺にはいないんだっ!?」 ……言うにことかいてそれかよ。 当然、会場からは「ふざけんな」「応援してやるだけでもありがたく思え」「若い女の子のファンなんて、お前には贅沢すぎる」と野次が飛ぶ。 ああ、もうめちゃくちゃだな。トレーナーの皆さんよ、早くこのおっさんを控え室に連れて行ってやってくれ。 「だからその理由を俺、真剣に考えたんだよ、この前。そうしたら分かったんだよ。お前らさ」 でも、桜内は話をやめようとしない。 「俺の戦う姿を見ても、何も行動してねぇだろ?」 その、たった一言に、それまで騒然としていた会場がしーんと静まり返った。 「俺もさ、お前たちみたいなおっさんだよ。しかもいつまでたってもうだつのあがらねぇ、ボクサーって言うよりかは殴られ役って言う方がぴったりくるようなボクシングバカだよ。そんなバカが必死になって戦っている姿に、お前らが自分たちを重ねて見るのは分かるけどよ。だけど、それで不遇な立場にいる自分たちを慰めてるだけなんじゃねーか?」 桜内が何を言いたいのか、咄嗟によく分からなかった。 が。 「あんたは俺たち中年の星だ! あんたが戦う姿は俺たちに勇気をくれるんだ! こんな俺たちみたいな奴でも戦えるんだって。だから俺たちはあんたを応援する。それ以上、俺たちに何をしろって言うんだ!?」 誰かが吠えた。 「応援はホント感謝してるよ。あんたたちが応援してくれるから、俺はどんなに苦しくても戦う事が出来る。だけどな!」 桜内がリングから会場全体を見回してから言葉を続けた。 「俺はこんな歳になっても本気でチャンピオンを目指して戦ってんだ。だから俺の戦いに勇気をもらえるって言うのなら、お前たちも本気でもう一度自分の戦いに立ち向かえ! 年齢がなんだ! 現実がなんだ! そんなものクソ喰らえ! 人生なんてな、きっと誰もが格好悪いものなんだ! ボコボコにされ、鼻血にまみれ、周りから笑われ、心をズタボロにされる。それでも前を向いて、どんなに不恰好でも拳を振り続けなきゃ、本当に自分がなりたい自分になんかなれやしねぇんだ!」 自分がなりたい自分……。 ああ、そうか、と思った。 さっき、あれだけ桜内を応援していたのは、きっとこのおっさんの姿に自分のあるべき姿を見ていたからなんだ。 挫折して逃げ出してしまった俺。そんなのは本当の自分じゃない。 本当の俺はもっと頑張れるはずなんだ。このおっさんのように、どんなにぼこぼこにされても挫けず前を向けるはずなんだ。 なのに俺は逃げてしまった。自分のちっぽけなプライドがそれ以上傷つけられるのが怖くて、戦うことをやめてしまった。 でも、本当はそれじゃダメなんだ。 傷ついたプライドは自分の努力でしか直らない。 たとえ勝てるかどうか分からなくても、一所懸命に前に進むしかない。 そうだ、俺はそんな自分になりたいから、あんなにも我武者羅な桜内のおっさんに感情移入して応援したんだ……。 「応援してくれるのは嬉しいけどよ、出来れば俺もお前たちを応援してぇ! 俺のファンは、俺も応援したくなるほどに、自分自身の道を堂々と歩くヤツでいてほしいんだ!」 あの桜内も熱くなって応援するほど、自分の夢を貫き通す……そんなヤツに俺はなれるんだろうか? いや、ならなくちゃいけないんだ。 見れば俺は拳をぎゅっと握り締めていた。 その拳に、不意に親父も手を重ねてくる。 驚いた。 突然だったし、それに何より親父の手はびっくりするほど力強かったから。 その力強さに、もしかしたら親父は、今日始めて知ったボクシング観戦の趣味のように、俺の知らないところで黙々と自分の戦いをし続けていたのかもしれないと思った。 「俺の戦いを見て勇気を貰ったお前たちが本気を出せば、きっと人生、色々と変わるはずだぜ。そうすればよ」 そろそろ次の試合の時間もおしている。早くマイクパフォーマンスを終わらすようにと係員の指示に、これまで自由やりたい放題やっていた桜内も頷いて話を締めに入る。 「しょぼくれたお前たちの中にもひとりかふたりぐらい偉いさんになるヤツが出てくるだろう。で、囲っている若い女の子とかをここに連れてきて、俺の試合を見せるんだ。すると『きゃあ、あのおじさま、カッコイイ! 私、ファンになっちゃった!』と若い女の子のファンがっておい、やめろ、リングにモノを投げるなぶはぁ!」 誰かがリングに投げつけた、中身の入ったペットボトルがもろに桜内の顔面に入り、再びマットに桜内の鼻血が舞った。 ☆莉子☆ サイテー、お父さん、マジサイテー。 途中からいい話になったと思ったのに、何、あのオチ? 決めた。今日は晩御飯抜き。さらに減量させてやる。 ~エピローグ ふたり~ 次の日、莉子がコートで柔軟体操をしていると、太陽がやってきた。 「あ、日登(ひのぼり)君……」 「すまん、桜内!」 いきなり深々と頭を下げる太陽に、莉子は訳も分からず慌てふためく。 「な、なんでいきなり謝るのさ?」 「だって俺、ここんとこずっと練習サボってたし……」 「ああ、それだったらあたし全然気にしてないよ」 だってすごく身近にもっとひどい人、知ってるから。 なんせ人前では偉そうなことを言うくせに、試合が終わると一ヶ月ぐらいグダグダと怠け放題で、おかげで試合の度に減量でてんやわんやになるのだ。 「それよりも日登君がまたやる気を出してくれたことの方が嬉しいかな」 「ああ、俺、自分がなりたい自分になれるよう頑張るって決めたんだ!」 「へぇ、それはイイね!」 ぐーとサムズアップして答える莉子。 太陽に何があったのかは知らないけれど、挫折の壁を乗り越えてくれたのは素直に嬉しかった。 「よし、じゃあまずはこの前大敗した聖雪学園のペアにリベンジできるよう頑張ろう!」 「おう!」 コートにふたりの明るく力強い声が、他の部活動に精を出す生徒たちとの声に混じって、学校内に流れていった。 おわり。 |
タカテン 1nxaNUk4a2 2016年08月28日 23時31分41秒 公開 ■この作品の著作権は タカテン 1nxaNUk4a2 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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