こーして人類は敗北しました。 |
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「どうすればいいんだ! このままじゃ……全滅だぁ……!」 東の果てにある、魔界の城の最上階で。 若い男が、泣き出しそうな顔をして、頭を抱えておりました。 その者、光の剣を携え、ここまでたどり着いた、人間の勇気ある若者――勇者。 ……それなら、よかったのですが。 残念ながら頭を抱えているのは、勇者ではなく、魔王様その人でした。 「無理だよぉ……。勇者って、普通、少数精鋭で来るものだろう?」 円卓に突っ伏し、頭に生えている角をぷるぷる震わせながら、魔王様は問いかけました。四天王のうち三人の魔族が席についていましたが、皆目をそらすばかりで、誰も答えません。 円卓の中心には、魔力のこもった水晶玉が輝いています。遠くで起こっている物事を映す、優れ物のアイテムです。そこから、腹の底が痺れるような、緊張を孕んだ喧騒が聞こえてきます。 聞こえるのは、人間の大群が、この城へ近づいて来る行進の音。 魔王討伐軍の、軍靴の足音です。 「こっちが五千の軍しかいないのに……っ! 五万で攻めてくるとか、バカか、もう! 手加減してくれよぉ!」 とうとう、本式に泣き出してしまった魔王様を傍目に、四天王たちはヒソヒソと話し合いを始めました。 「おいおい、どーする? 逃げちゃう?」 「お前なぁ」 逃げ腰のミノタウロスを、一つ目の魔物・サイクロプスがにらみました。 「今俺たちが逃げ出したら、この人が指揮をとるんだぞ? 全滅の時間が早まるだけだっての」 本人を目の前にして、お互いひどい言いようです。 「先代様が生きておられたら、こんなことにはならなかったのに」 悲しそうに、色男のヴァンパイアがつぶやきました。 「魔族にして、偉大なる魔導士だった先代様さえ、生きていてくだされば。人間が五万人攻めてこようが、隕石が落ちてこようが、僕たちは何も怖くなかったのに」 ヴァンパイアのため息に、ミノタウロスとサイクロプスが小声で言い返しました。 「その先代様が、強すぎたせいで人間はこんな手段に出たんだぞ?」 「今まで何人もの勇者が来たけど、全部返り討ちにしちまったんだからな。代替わりしたのがバレて、人間どもはこれ幸いと攻めてきたんだ」 「……なんで死んじまったんだよぉ、パパー!」 いきなり話に参加してきた魔王様に、びくりと側近三人は跳ね上がりました。 鼻水を垂らして号泣する魔王様を、冷や汗をかきながらなだめ、三人は思案します。 「どうする? 今の魔王様に、先代様のような魔法は使えん」 「地形を変えるほど爆発を起こしたり、軍隊の人間全員を錯乱させたりはできん」 「魔族の兵士個々の兵力に頼るとしても、数が違いすぎる」 「今さらわかりきっていることを言うな。討伐軍は、あと三日程度でここにたどり着いてしまうぞ」 「……やっぱり、この手しかないか」 ふう、と息をつくと、ヴァンパイアはまだ泣いている魔王様を横目で見、腕を組みました。 「僕に考えがある。人間の兵五万人に、勝てる方法がある」 ミノタウロスとサイクロプスが目を見張り、びっくりした魔王様が泣き止みました。 「どっ、どんな?!」 「どうすればいい!」 「早く言え!」 注目を浴びたヴァンパイアは、暗い表情で告げました。 「四天王の一人、デビル・ゴットマザーを叩き起す」 「なっ……何を言うか、貴様っ!」 かっと一つ目を見開き、サイクロプスが真っ赤になって怒鳴ります。 「デビル・ゴットマザーは、先代様の死の原因だぞ! そいつを……」 「おい!」 ミノタウロスの制止に、はっとしてサイクロプスが口元を覆いました。魔王様を見ると、頬に涙の跡をつけたまま、あんぐりと口を開けていました。 「死の原因って……。皆、パパは、病死だって……」 気まずい沈黙が広がりました。 申し訳なさそうに、ヴァンパイアが立ち上がって魔王様の肩に手を起きました。 「申し訳ございません、魔王様。先代様の名誉のために、我々が秘密にしていたのです」 「殺されたの……? 仲間に?」 こわごわと尋ねる魔王さまに、皆気まずそうに目をそらしました。 「殺されたわけではありません。ただ……そのぅ、原因にはなった、と言いますか……」 ヴァンパイアが答えてくれましたが、妙な空気です。 気を取り直すように、ミノタウロスが咳払いをしました。 「確かに、ゴットマザーなら、強い魔法が使える。加えて、奴の一族の手を借りれば、兵力差も埋まるだろう」 納得できるところがあったのでしょう、サイクロプスが悔しそうに唸りました。魔王様は涙を拭うと、興味深そうにヴァンパイアを見上げました。 「そんなに一族に兵士が? ゴットマザーって、何者?!」 「お会いになってみますか」 ヴァンパイアの提案に、複雑な表情で魔王様は少し考えたあと、こくりと頷きました。 「デビル・ゴットマザーは悪魔の一族の長で、先代様の右腕でした。不死身の悪魔で、先代様に次ぐ高度な魔法の使い手です」 四天王のうちの三人と、魔王様は、連れ立ってお城の地下牢へ歩を進めていました。 先頭のヴァンパイアが蝋燭を持ち、じめじめした地下牢へつながる石階段を降りていきます。 魔王様は珍しく真剣な表情で、ヴァンパイアの背中を見つめて問いかけました。 「さっきの続きだけど。なんで……パパは死んだんだ?」 「……知りたいですか。先代様がお亡くなりになるまで、ずっと、離婚したお母様のお城にいらしたのに?」 「いちいち解説すんなよ」 うるさそうに顔をしかめ、魔王様は言いました。 「あんまり繋がりはなくても、やっぱ親だし。どんな最期でも、そりゃあ……知りたいよ」 階段を降りきった一同は、厳重に施錠された扉の前へたどり着きました。ガチャガチャと音を立てて鍵を開けながら、ヴァンパイアは沈黙の末に、言いました。 「一言で言えば……ゴットマザーは、先代様の愛人でした」 「えっ、そこから教えちゃう?」 ミノタウロスの驚きの声に対し、魔王様は目を見開いたまま無言になっています。最後尾のサイクロプスが、気の毒そうに目を伏せました。 振り向いたヴァンパイアが、嫌そうにミノタウロスをにらみつけます。 「僕だって教えたくはないが、魔王様が知りたいなら伝えねばなるまい。そもそもの原因はここからなのだから」 「……それって、痴情のもつれ、とか? だんだん仲が冷え切って、喧嘩で……?」 「いえ……仲はよろしゅうございました。良すぎたのです」 軋む音を立てて、ヴァンパイアは扉を開きます。彼の言葉に疑問を持ちながらも、鉄格子の部屋が両脇に連なっている空間に気を取られ、魔王様は口を閉じました。 右側の真ん中の鉄格子へ進み、ヴァンパイアは蝋燭をかざします。 「こちらが、デビル・ゴットマザーの牢です」 薄暗い牢の中を、魔王様は覗き込みました。中には、牢屋には似合わない、豪奢なベッドが置いてあります。その上には、横たわる人影が見えるのですが……。 「……ねぇ」 「なんです?」 「ゴットマザーの、牢屋なんだよな」 「そうです」 もう一度、マザー、の発音に力を込めて、魔王様は確認しました。 「ゴットマザーなんだよな」 「そうですってば」 目を精一杯凝らし、魔王様はおそるおそる口を開きました。 「ベッドで寝てるの、男に見えるんだけど」 魔王様の問いかけに、誰も口を開きません。 振り向くと、ヴァンパイアは自身の枝毛を探し、ミノタウロスは女子のように爪を磨き、サイクロプスは何もない宙に、視線をさまよわせている真っ最中でした。 「おい! 答えろよ!」 魔王様の怒りの声に、皆やっと目を合わせてくれましたが、誰も何も言いません。 苛立ちながら、魔王様はもう一度ベッドの上の人物を観察しました。鉄格子からベッドは近く、三歩ほどの距離。毛布も何もかけず、ただ仰向けになって横たわっているだけ。見間違えるはずがありません。 そこにいるのは、間違いなく男でした。 それも、だいぶガタイのいい、大男です。 眠っているのでしょうか、彼は長い睫毛を固く閉じ、騒がしい魔王様たちには反応しませんでした。 チリチリした黒髪を枕へ横たえ、がっちりした太い腕を、厚い胸板の上に組んでいます。ただなぜか、身につけているのは、袖にレースと刺繍の入った、乙女チックな白のネグリジェ。 「これが……真実です」 ようやく重々しく口を開いたヴァンパイアは、辛そうに言いました。 「し……しん、じつ?」 聞き返して、魔王様は、自分の声が震えているのに気がつきました。自身の顔から、血の気が音を立てて引いていきます。 (い……嫌だ! 何だ、真実って! 聞きたくない! 誰だ……親の最期だから聞きたいって言ったのは……!) ご自身です。 真っ青になってしまった魔王様を放置し、ヴァンパイアは牢へ鍵を差し込みました。 「ゴットマザーが特に好んで使っていたのは、変身の魔法です。タイプの違う美女にその都度変身しては、その……先代様とラブラブしていたのですが」 ガチン、と重い音がして鍵が開きました。 「最中に変身が解けてしまったらしく。ゴットマザーの真の姿を見てしまった先代様は、ショックのあまり敢え無き最期を」 「いっ……いやぁぁぁぁああああああ!!!」 奇声をあげて顔を覆ってしまった魔王様を、雨に濡れた子犬を見るような目で、側近たちは見下ろしました。 「さすがに……刺激が強すぎるんじゃないか?」 「せめて、マイルドに腹上死って言ってやれよ」 「それのどこがマイルドなんだ?」 サイクロプスをにらみ、ひょいと身をかがめてヴァンパイアは牢屋の中へ入りました。さあ、と残りの二人に促され、足を引きずりながら魔王様もあとに続きます。 「そんな性癖を持っているゴットマザーですが、彼は男の中の男でした」 「見りゃわかるよ! 見た目がガチムチすぎるだろ!」 魔王様の半泣きのツッコミに、生き方の話をしているのですよ、とヴァンパイアは苦笑いを浮かべました。 「責任を取って、自身をこの地下牢に封印したのですよ。一族もそれまで都会に暮らしていたのですが、遠方に島流しして」 一同はベッドの横に並び、ゴットマザーの寝顔を眺めました。かすかにゴットマザーの体が、青白く光っています。勉強不足の魔王様でも、時を止めたり、魔力をとどめたりする強力な魔法が、ゴットマザーの体にかかっているのがわかりました。 ふと嫌な考えが浮かび、魔王様はまた質問しました。 「ねえ……なんで、ゴットマザーって、呼ばれてるの、この悪魔」 「……」 「もしかしてだけど……美女に変身して、自分で産んだの? その……一族を? だから、ゴットマザー?」 「……あなたにしては、察しがいいですね」 「えっ……えーっ?!」 じゃ、じゃあ、とわなわなと口を開き、蒼白になって魔王様は叫びました。 「この人の一族って、皆、パパとこの人の子?! お、俺と異母兄弟?!」 気が遠くなってよろめいた魔王様を、あわてて横にいたミノタウロスが支えます。そのとおり、と暗い顔でヴァンパイアが頷きました。 「優れた魔道士であった先代様と、もともと高度な魔術を持つ悪魔の血がかけ合わさって生まれた子供達。正直な話、失礼ながら遊んで生きてきた魔王様よりも、魔術のポテンシャルが高いのです」 「そ……そんな……」 「悪魔は長寿で成長も早い。一般的な魔族とは、生きる時間軸がちがうのです。成長した子はまた子を産み、今やその数」 あっと、ミノタウロスが叫びました。 「四万五千!」 そう、とヴァンパイアが頷きます。納得の唸りとともに、サイクロプスがつぶやきました。 「確かに。成人以上の悪魔の数は、それだけいる。兵力差が埋まる……!」 ぱかっと口を開きかけた魔王様を遮り、ヴァンパイアは続けました。 「彼らは島流しになりました。ゴットマザーが責任を取り、魔法で別次元の空間に、彼らを移住させたのです。水晶玉を使って、その空間での出来事は、こちらでも把握はできます。しかし」 横たわったゴットマザーに視線を落とし、ヴァンパイアは言いました。 「その空間を行き来する道は、ゴットマザー自身が封じたのです。自分の封印とともに」 ふむ、とサイクロプスが顔を上げました。 「ゴットマザーの封印を解けば、一族を兵士として呼び込めるのか……」 「四万五千もの、高度な魔法を使える悪魔を……」 背後のミノタウロスのつぶやきに、絶叫して魔王様は首を振りました。 「い……嫌だーっ!!」 「文句を言っている場合ですか!」 「だ、だって嫌ぁあ! いろんな経緯が濃すぎて嫌ぁ!」 「その経緯を知りたいといったのは、あなたでしょう!」 「た、確かにそうだけど! 絶対やだぁ!」 「……魔王様」 「そんな奴ら味方にするの嫌だよぉ!」 女の子のように泣き叫ぶ魔王様に、呆れたため息をつくと、ふいにヴァンパイアは魔王様の胸ぐらをつかみ、鋭い声で怒鳴りました。 「我々は、先代様の死の謎を解きに来たわけではない!」 ひゅっと息が詰まった魔王様を、怒りに燃える目でにらみ、ヴァンパイアは続けました。 「我々の国の魔族が、犬死しない方法を探しに来たのだ!」 反論しようとして――魔王様は言葉を失いました。 先ほど水晶玉で映し出された、人間の、一糸乱れぬ兵士たちの行進。 五万人の、武人の群れ。ぶつかったら、きっと跡形も残らないだろうという絶望感。 水晶玉を見て感じた恐怖を思い出し、魔王様は唇を噛み締めました。魔王様の様子に、ようやく、ヴァンパイアが胸ぐらから手を離します。 ごめん、と急に恥ずかしくなって、魔王様は鼻の下をこすりました。 「俺の感情なんて関係ないよな……。戦争なんだから」 ええ、とヴァンパイアが小さく頷きました。 「手を打たねば、我々の兵士も、兵ではない魔族も、皆倒されてしまいます」 「……うん」 「ゴットマザーの封印を解く権利があるのは、魔王の地位を継いだ方のみ」 三人の側近は顔を見合わせました。彼らは頷くと、揃って跪き、頭を垂れました。 「人間五万人の軍靴を止められるのは、魔王様だけでございます」 「わかった。封印を解こう」 一拍間を置いて、しっかりと、魔王様は頷きました。ぱっと笑顔になり、側近たちは立ち上がります。でも、と魔王様は首をかしげました。 「どうすればいい? 特別な封印を解く魔法とか……」 「そんなものは、必要ないのです、魔王様」 なぜか、背後にミノタウロスが立ち、ぎゅっと魔王様の肩をつかみました。魔王様が振り返った瞬間、今度はサイクロプスが魔王様の右腕をつかみます。 「何?」 「あれです、封印を解く儀式として、必要なのです」 不審そうに眉をひそめた魔王様の、左手をつかみ、ヴァンパイアは真剣に言いました。 「封印を解く手段。それは――」 ふいに、三人に羽交い絞めにされ、魔王様は悲鳴を上げました。 「現魔王の、熱い口づけです!」 「うっ……うぁああああああああああああああーっ!!」 地下牢に、魔王様の絶叫がこだましました。 悲鳴を上げているあいだに魔王様の体は持ち上げられ、ゴットマザーの顔にぐんぐん近づけられてしまいます。 両腕を固定されているため、魔王様はなんとかのけぞってゴットマザーの唇と距離をとり、必死で叫びました。 「ちょ、ちょっとタンマ!!」 「タンマなしです!」 「無理だよぉ!」 「やってもみもしないで、何を言うのですか!」 「じゃあお前がやれーっ!」 「いや、俺、魔王じゃないんで」 「あっ、ああーっ! 無理やり近づけるなぁ! 卑怯者ぉ! さっきまでいい雰囲気だったのに……っ!」 「そのいい雰囲気の中で、封印を解こうとご決心されたではないですか!」 ジタバタ暴れながら、とうとう魔王様はむせび泣きました。 「だって……だってぇ……知らなかったんだもん。俺の初キッスを、こんなおっさんに捧げ……うぅ」 魔王様、とヴァンパイアは努めて穏やかな声で言いました。 「王とは自身の身を切って、初めて一族の上に立てるのです」 先代様――あなたのお父様のお言葉です。 はっと、魔王様は目を見開きました。その脳裏に、幼い頃、父と手をつないで歩いた記憶が蘇ります。 「それ、聞いたことがある……」 夕暮れの中、父は、幼き魔王様に王としての在り方を説いたのでした。 何もせず、権力を笠に着て、威張るような男にはなるな、と。 背中を押すように、ヴァンパイアが声を張り上げました。 「あなた様の行動で、兵士五千人が、国の魔族が助かるのです!」 「う……うぁあああああああ!! ちっくしょーっ!」 自分を奮い立たせるように魔王様は吠えました。顔を振って涙を払うと、きっとまなじりを釣り上げて、静かに眠るゴットマザーをにらみつけました。 彼の、青々としたヒゲの剃り跡に気がつき、心が折れそうになりました。 再び絶叫。 しかし。魔王様はギュッと握りこぶしを握り締め、懸命に自分の心と戦います。 「お、俺がやらなきゃ、五千人が、その家族が、皆が」 声に出して言ううち、ガクガク震えていた顎が、流れ出ていた涙が、止まります。 興奮のあまり、魔王様の鼻からは、鼻水に混じって真っ赤な鼻血が垂れていました。 荒い息を吐きながら、魔王様は、自分に言い聞かせるように、声を張りました。 「この国が、終わる。せっかく魔王になったのに、誰にも、何もできないまま、跡形もなくなっちゃうんだ……! そ、そんなこと、させない! 俺が!」 側近の三人は、顔を見合わせました。不思議と、鼻血を垂らして決意を固める魔王様が、若き日の先代様に重なって見えたのです。 怯えながらも、誰かの為に行動する意志を持った横顔――。 それは、国のために、身を切る覚悟を決めた男の顔でした。 ふっと、誰が漏らしたのか、小さな笑い声がしました。ヴァンパイアも、サイクロプスも、ミノタウロスも、見れば笑顔を浮かべています。 ゆっくりと、彼らは腕の力を緩め、魔王様は床に下ろされました。 自分の足で硬い床を踏みしめると、魔王様は鼻血を拭い、枕元に歩み寄りました。鋼のような硬い表情で、ゴットマザーに声をかけます。 「現魔王として……お願いする。五万人の人間を止めるため、お前の力を貸してくれ!」 深呼吸すると、魔王様は息を止め、そのままゴットマザーの厚い唇に、ぶつかるような勢いで口づけました。 その瞬間――。 地下牢の中で、光が炸裂しました。 ◆◇◆ その夜。人間の軍の野営地にて。 牧草地に天幕を張り、集団で雑魚寝をしていた兵士は、異変に気がつきました。 草の露を吸って湿ったペラペラの寝具が、唐突にふかふかのベッドに変わったのです。 あまりの感触の違いにぎょっと跳ね起きた兵士は、あたりの風景が一変しているのに気がつきました。 天幕も、仲間の兵士たちも消え、なぜか彼は一人、豪華な部屋にいるのでした。 まるでお城の、王族の寝室のようです。 美しいシャンデリアと、天蓋付きの清潔なベッド。キョロキョロしながら、彼はつぶやきました。 「どこだ……ここは?」 「私の部屋」 急に聞こえた女の子の声と、足を掴まれる感触に兵士は悲鳴を上げました。 「な、何っ?!」 ふわふわの毛布をめくると、赤い髪の、可愛くて若い娘が、いたずらっ子のように笑って手を振っていました。 ぽかん、と口を開けた兵士は、次の瞬間、口を閉じられなくなりました。 身を乗り出した娘に押し倒され、深くキスをされたのです。 そのとき、幻のように、娘の体が淡く光りました。瞬きするあいだに光は消え、兵士はキョトンとしながらも、ついうっとり娘の感触に身をゆだねておりました。 ふんわり、石鹸のいい匂いがします。 娘は、唇を離すと、兵士の体の上に寝そべったまま、照れくさそうに笑いながら言いました。 「お兄さんってば、いけない人。女の子の部屋に忍び込むなんて」 え、と絶句した後、真っ赤になった兵士はあわてて抗議しました。 「し、忍び込んでなんか」 「そう?」 ぎゅっと抱きしめられ、兵士はあわわ、と声にならない悲鳴を上げました。柔らかい胸の感触が、直に伝わってきたのです。娘を見下ろした兵士は、今度は悲鳴すら上げられなくなってしまいました。 娘の着ている服の、大きく空いた襟口から、胸の谷間がはっきりと見えてしまったのです。見ないのが礼儀とわかっていても、視線は縫い付けられたように胸から動きませんでした。 「ふふ。泥棒にしちゃ、お兄さんかっこいいね」 「ど……泥棒なんかじゃ……ないよ……」 何を言っているんだこの娘は、と思いながらも、兵士はドキドキが止まりません。 ねえ、と恥ずかしそうに、頬を染めて娘が口を開きました。 「もう一回……キスしていい?」 ◆◇◆ 「すごい……。五万人が、撤退していく」 水晶玉を覗き込んで、魔王様は喜びの声を上げました。へろへろと、ある者は剣にすがり。ある者は馬の背に寄りかかるように。人間の軍は恐ろしく疲れているようなのに、なぜか表情は幸せに満ちていました。 ほほほ、と野太い声で笑い、ゴットマザーは胸をそらしました。 「悪魔の本質は誘惑と魅了。一族で五万人、三日三晩搾り尽くしましたわ。戦争する気も起きないくらいにね」 「これも全て、魔王様の犠牲のおかげです」 「お前なぁ!」 ヴァンパイアににこやかに言われ、魔王様は音を立てて椅子から立ち上がりました。 「あらぁ、失礼しちゃう。悪魔にキスできる機会なんて、実はそうそうないのよぅ」 唇に手を当て、無駄に可愛いポーズをとるゴットマザーを、うんざりと魔王様は見上げます。 「もう一回、封印しますか」 はたで見ていたサイクロプスが、苦笑いとともに言いました。ミノタウロスも、悪ノリで唇を指差します。 「でもまた人間が攻めてきたら、キスしなきゃいけないんですよ」 「うぁああああ!」 真っ青になって身を引くと、魔王様は叫んで部屋を飛び出しました。 部屋の中では、あたたかい笑い声が続いています。 こうして、人類は敗北し、魔族は勝利しました。 誰も死なず。五千人の魔族の兵も、五万人の人間の兵士も、誰も血を流しませんでした。 流したのは、魔王様の一筋の鼻血。 「くっそー! あいつら、俺の青春を犠牲にしやがって! もう困っても、四天王なんか頼らないぞ。キスだって絶対しない! 次こんなことがあったら、俺ひとりで何とかしてやる!」 一人で肩をいからせながらバルコニーへ出ると、青空へ向かって魔王様は吠えました。 「見てろ! 四天王を……いや、パパだって超える、最強の魔王になってやる!」 |
中梨 涼 2016年08月28日 22時29分00秒 公開 ■この作品の著作権は 中梨 涼 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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