魔王討伐前夜 |
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序:四天王の最期 少年の拳に顎を打たれ、山羊の頭をした巨漢は大地にくずおれた。 乱れた息を整える少年に、拍手が贈られる。 「やるではないか。さすがは異界より召喚されし女神代行」 上から目線のほめ言葉をかけたのは、少年と山羊頭の戦いを観戦していた男だった。顔立ちは同性でも見とれかねないほど美しいが、額から生えたねじくれた2本の角と3対の蝙蝠じみた翼が男が人間ではないことを告げている。 「しかし、モスティビルは我ら四天王の中でも最弱」 きしむような音で続けたのは、巨大な歯車だった。本体はてらてらと濡れた肉色をしており、歯は巨大な臼歯でできている。 「人間ごときにやられるとは魔族の面汚しよ。魔力が足らんから、神の力ごときに」 どこから声を出しているのかもわからないおぞましい姿。しかし、少年は心底馬鹿にしたようにふきだして見せた。 「あー、あんたら、死にフラグって知ってる?」 返事がわりに、歯車は大地を砕き散らしながら猛烈な突進を仕掛けた。少年は交差させた両腕で受けるが、圧倒的な体重差は越えられない。軽く3mは後ろに飛ばされる。 「リョウ!」 心配の悲鳴をあげたのは、黒髪の少女。 「らいりょうぶら、レイコ」 流れる鼻血を押さえながら、リョウは立ち上がる。 「死ぬのは貴様ら人間だ。見ろ」 3m後ろに飛ばされてなお、リョウは前線から突出していた。味方の戦士たちとの間に小型の魔族の群れが挟まっている。 初めからそうだったわけではない。軍勢と軍勢がぶつかり合うまでは、少年の前に3層の戦士の列があった。個々の戦力では、人間の戦士が魔族を上回る。しかし、数は明らかに魔族が多い。 初めは方陣だった人間の軍勢は、押しつぶされ、薄く広がりながらじわじわと後退させられている。特に、魔族の軍勢が集中する中央部がひどい。 「勇者ソルンを中央に配置しなかったのは失敗だったな。今頃レティビルに血祭りにあげられていることだろう」 「そんなことはありません!」 レイコの否定に合わせて、後ろでまとめられた髪の束が揺れる。レイコもリョウも、戦士らと違って兜を身に着けていない。鎧も着ていない。スカートとズボンの違いはあっても、明らかに同種のデザインで、体にぴったりとした変わった衣類。胸に縫い付けられた揃いの紋章に書かれた文字を、この世界のだれも読むことはできない。 「哀れな娘よ。異界から来た身ではわかるまい。神の力では魔の力には勝てん。それがこの世界の定め」 「哀れなのはあなたの方です」 レイコの口元に、淡い光がともる。女神の力を帯びた唇が、戦場全体に響く声を紡ぐ。 「見なさい、ニータケサの戦士たちよ! 勇者ソルンはそこにいる!」 少女の腕がまっすぐと前を指す。一拍おいて、戦士たちの間にどよめきが広がった。彼らにも見えたのだ。 魔族の群れの向こうに現れた騎馬の一団が、それを率いる彼らの勇者が、旗印代わりに掲げられた高位魔族の首が。 「馬鹿な! 何故レティビルが、グアァ!」 歯車が悲鳴をあげる。注意を後方にそらした隙にリョウの拳を打ち込まれたのだ。だが、それは己の魔力を信じてのこと。女神代行とはいえ、いや、神の属性を強く帯びた女神代行だからこそ、拳の一撃程度で致命打になるはずはなかった。 注意を戻した歯車が見たのは、鮮血に濡れたリョウの拳だった。リョウ自身の血ではなく、もちろん歯車のものでもない。人や魔の血は、自ら紅く煌いたりはしない。 「ドラゴン・・・ブラッドだと・・・」 「神と魔と竜の三すくみぐらい、この世界に来たその日に学んだよ。知っていればそれなりの対策がとれるもんさ」 神が竜を討ち、魔が神を殺し、竜は魔を屠る。世界の法則に従って、竜の血が歯車を内側から焼き尽くす。 歯車が地に倒れるのを見もせずに、玲子が号令を飛ばす。 「今こそ人間の力を、団結の力を見せるときです! アシェル隊! メティエ隊!」 女神代行の命令にこたえ、人軍両翼の後方にいた戦士たちが前に出て、騎士たちと合流する。 事がここに至って、ようやく美形魔族は計略にかけられていたことを悟った。中央の女神代行らを討ち取ろうとするあまり、魔族の軍勢は中央に固まり両翼がなくなっている。四天王の一人レティビルが率いていた遊撃隊は、同じ役目をしていた勇者に討ち取られ、真後ろの退路も封じられた。 「さあ、包囲網が完成だぜ、最後の四天王さん」 「ふん、四方を囲んだ程度で勝ったつもりか。むしろ一か所に纏まってくれて好都合というもの」 三対の翼を広げ、美しき魔族が宙に舞い上がる。 「魔族のプリンスたるこのアルティビルの極大魔術で、全員まとめて焼き尽くしてくれる!」 アルティビルの両手の間で、闇色の光としか言いようのない何かがバチバチと音を立ててうごめく。 だが、彼は気づくべきだった。見上げる人間たちの顔に、恐れがまるでないことに。配下の魔族たちの顔に驚愕が浮かんだことに。 「だから、フラグ立てすぎだっての。ハンニバル・バルカの名に懸けて、そんなずさんな包囲を敷くわけないだろ」 リョウの呟きに応えるように、空が陰った。アルティビルに認識できたのは、そこまでだった。 一拍遅れて追いついた風が人と魔族の間で渦を巻く。 その中心に着陸した巨竜は口の中のモノを悠然と咀嚼し、飲み込んだ。人の背丈ほどある巨大な爪で、食べこぼしたアルティビルの左足を器用に拾い上げて、一飲みにする。 爬虫類に似た縦に裂けた銀の目が、食後のデザートを求めて魔族の群れに向けられる。 「リョウよ。わが契約者よ。別に、のこり全部食べてしまって構わんのじゃろう?」 戦闘は、そのあと半刻も続かなかった。 壱:会議は踊る 大会戦から一夜明けても、祝勝の宴は続いていた。早めに潰れていた者が起きだして、飲みの席に戻っているのを見ると、今夜もまだ続くに違いない。 そんな宴を見下ろす砦の二階に、4人の男女が集まっていた。 「四天王はすべて死亡、魔族軍も約半数の5万までは死体を確認できている。こちらの被害は死者312、重傷者約1000、軽傷者約3000といったところだ」 報告したのは金髪の美丈夫。高い上背とそれに見合った筋肉が、鎧兜がなくても彼が熟練の戦士なのだと主張している。纏った鎧下の肩に4つ並んでいる紋章は、彼が三つの王家と教会の全てから代理人として認められている証。そして、腰に下がった聖剣は女神自らが彼に与えたもの。 すなわち、彼こそがこの世界の勇者であり、魔族軍に対抗するためこのニータケサ砦に集結した戦士たちの指揮者、ソルン・エレスサリオン二世である。 その表情は外の宴と相反するように生真面目だが、軽く日に灼けた小麦色の肌にいつもより赤みがさしていることが、彼も昨夜は宴の中にいたことを物語っていた。 一方、報告に合わせるように卓上の地図から駒を取り除いていたリョウには一切酒の跡は見られなかった。 「思ったより少ないな。包囲完成までの間にもっと削られると思ったが」 しかし、彼も宴に参加しなかったわけではない。理由は彼の胸にあった。ブレザーの胸ポケットにつけられた紋章には、三田学院と書かれている。例えそれを読めるものがこの世界に二人しかいなくとも、自分は未成年で飲酒は禁じられているとリョウは周囲に説明していた。その理由は半分真実だが、残り半分は単に自分が酒に弱いと知っているだけだ。みっともなく潰れた姿を見せることは、女神代行としての権威に傷がつきかねない。 「レイコが中央軍勢にかけておいてくれた守護の加護のおかげだ。重傷者の治療も手伝ってもらってほんとうに・・・レイコ?」 ここれはじめて、ソルンはもう一人の女神代行が青ざめた顔つきで、何もしゃべらず座っていることに気付いたらしい。強い酒と、幾種類かのハーブの匂いが彼女の周りに漂っていた。この世界で最も強いとされる竜火酒の匂いだ。 事情を知っているリョウも、少し眉をしかめる。 「レイコ、辛いなら解毒の加護を使ったほうがいい」 「ダメだよ・・・解毒しちゃうと、治癒の回数が減っちゃうもん」 頭痛と眠気と吐き気に苦しみながらも、自身より怪我人の方を優先するのは彼女のやさしさの表れ。しかし、それも時と場合によりけりだ。 「レイコ、もう重傷者の数は多くない。今日は君の加護を使い果たすまで治癒をかけて回らなくても大丈夫だ」 「大体、ソルンでも気づくような調子悪い顔で治療院にいってみろ。すぐに術師の誰かに解毒の加護を使われるぞ。結果は一緒だ」 二人がかりの説得に折れ、レイコは自分の酒毒を抜くために女神の力を開放する。淡い光が手から胸のほうに入り込むと、たちまちレイコの頬に赤みがさす。眠気を頭を振って払うと、二日酔いの跡はもうどこにも残っていなかった。 その治りっぷりを見て、これまで黙っていた4人目の女性が口を開いた。 「効き目のほどは流石じゃな。リョウも治してもらっておけばどうじゃ?」 「残念なことに、僕は、昨夜酒乱のドラゴンに竜火酒をぶっかけられなかったんだ」 二日酔いの原因は、それを露骨に皮肉られても微塵も気にした様子はなかった。この褐色肌の妙齢の女性は、昨日の会戦で四天王を食べ、宴でうっかり竜火酒の盃を取り落としてレイコをずぶ濡れにした巨竜が姿を変えたものであった。 竜であることを示す特徴は、縦に裂けた銀の眼と、指の先に円錐状の爪が生えていることぐらい。祖たる竜の孫たるレウはとがった爪で形の良い鼻を指して見せた。 「いやいや、こっちじゃよ。昨日、派手に鼻血を吹いておったろう」 「ああ、あれか。あれじゃまるでソルンだよな」 「お、俺がそんなに鼻血ばかり出しているかのような言い方は・・・」 「しかし、妾が見ただけでも、両手で数え切れぬ程度は出しておる。うん、妾を見ただけでもと言うべきか」 人の姿に化けたレウは、かなり肉感的なプロポーションをしている。そして、もともと竜に被服文化は存在しない。レウが味方になってから、純情勇者が鼻血を吹く頻度は3倍になった。 ちなみに、現在来ている服も、長い布を巻き付けて所々ブローチで留めているだけだ。竜の姿に戻っても破れないことを考えると、これが限界である。 「でも、本当に治しておかなくて大丈夫?」 何とか笑いをこらえたレイコが、遠慮なく肩を震わせるリョウに問う。 「もう止まっているから問題ない。まだちょっと血の臭いがするが」 「治りかけはそんなものだ。運動や飲みすぎで血の巡りが早くなると、また出血することもあるから気を付けておけ」 「さすが、慣れておると詳しいのう」 生真面目な助言まで茶化され、さすがにソルンが顔をしかめる。それを見て、リョウは手を叩いて話の軌道修正を図った。 「さて、勇者いじりはこれぐらいにしておいて、そろそろ本題に入ろう」 「本題って、魔王戦の作戦?」 「任せておけ、女神より賜りしこの聖剣にかけて!」 レイコの前で張り切るソルンをリョウの言葉が抑える。 「実際のところ、我々の戦力とドラゴンブラッドがそろえば、魔王討伐自体はそれほど難しいことじゃない」 「殺すことはできんがの」 女神、魔王、祖竜の三柱は世界を成り立たせる諸力そのもの。倒すことで一時的に無力化はできるが、すぐにどこかにある己の聖域で再生し、時を経て力を取り戻せば、再び世界に戻ってくる。 祖竜は自ら定期的な再生を行っているし、魔王や女神が討ち取られたことも一度ではない。リョウが魔王に勝てると言い切るのも、そうした記録を分析してのことだ。 「魔王復活が百年後か千年後かは知らんが、それはその時の人間に任せる。僕が問題にしたいのは魔王討伐の後の話だ」 「ふむ、魔王と決着をつける前に、つけた後のことを語るのかえ?」 気が早いと言いたげなレウの言葉に、レイコもうなづく。 「つける前だから語るんだ。つけた後で揉めたくない」 「えっと、でも、私たちは帰るんだよね?」 「ああ、僕もそのつもりだった。だがソルンにはどうやら違う意見があると聞いたんだ」 3人の視線を浴び、ソルンはしばらく言葉に詰まる。 だが、やがて意を決して顔をあげ、リョウの目を正面から見据えた。 「……俺も、永遠に二人にこの世界にとどまれと強制するつもりはない」 「一時的にはある、と?」 「女神の力で召喚された二人をもとの世界に返すには、膨大な魔力がいる。そんな魔力を貯めているのは魔王が持つアンティルパの宝玉しかないだろう」 リョウとレイコが頷く。その宝玉の話こそが、二人が魔王討伐に積極的になった最大の理由だった。 「だが、その魔力があれば、人類の復興は飛躍的に早くなる」 「その代わり、僕らは帰れなくなるわけだが?」 「ずっとではない。魔術師ガンダクロウが既に街全体に魔法陣を組み込む都市計画を立てている。街が栄えるほどに魔力を蓄えて」 早口でまくしたてるソルンを、リョウが机をたたいて止める。 「何年だ。僕らは既にほぼ1年この世界にいる。この上あと何年いろというんだ」 たっぷり三呼吸する時間を空けて、ソルンの答えが会議室に響く。 「・・・十年」 「話にならない。僕もレイコもまだ17だ」 「いや、十年というのはあくまで最長での話だ。レイコたちが残ってくれれば、もっと短縮できる。君らは、女神代行なんだから」 「ふむ、戦火で街は焼け、女神もおらぬ、女神代行も帰ってしまうでは、人間の士気はかなり酷いことになるであろうな」 まあ、竜たる妾はそれでも構わんのじゃが、とレウは喉の奥でくつくつと笑う。 「女神が居られない今、女神代行である君たちは人類の希望なんだ。レイコ、君の言葉で、戦士たちがどれほど奮い立つのかはわかっているだろう。魔王を倒した後、彼らは剣を置き、鍬を、槌を持って平和な社会に戻っていく。そのとき、君の言葉がどれほど彼らを勇気づけるか、想像してみてくれ!」 自分の言葉に興奮したように、ソルンはレイコに近づき、手を伸ばす。その指先は、レイコの手を取る前にリョウにはたかれた。 「あ、の、な」 言葉に合わせ、リョウは三度指先でソルンの胸をつつく。 「それはお前の仕事だ。勇者、ソルン・エレスサリオン!」 女神が選び、主教会が祝福を授け、三王国が戦士を託す、その勇者が民を率いることを人任せにするのは間違っている。 ソルンはあっさりとリョウの指摘を認めた。 「わかっている。だが、復興が遅れれば民はその分苦しむ。今はまだ夏だが、北の方ほど秋は短い。人の手だけの復興では家の数が足りず、凍死するものが出るだろう。十分な魔力があれば、彼らを救える」 膝を床につき、両手を胸の前で組む。女神に選ばれ、主教会に祝福を受け、三王国から戦士を託されているからこそ、勇者は民のために頭を下げる。 「頼む。どちらか一人でもいい。しばしこの世界にとどまって、我々に魔力と希望を与えてほしい」 弐:夕焼けの砦 「どうしよっか」 砦の屋上で、沈むのを少し躊躇している太陽に照らされながら、レイコは呟くように問う。 「ソルンが言ってたことも、嘘じゃないよね」 「北方王国は去年の冬の間、魔族に占領されていた。僕らが奪還したが、被害が一番大きいのは確かだ」 答えながらリョウは思い出す。北方奪還の勝利に湧く戦士たちの中で、レイコだけが悲しげな顔をしていた事を。 魔族軍は撤退前に可能な限りの物資を略奪し、街を焼いていった。避難していた民衆が総出で復興に取り掛かっても、3年はかかるだろう。 「南方王国は魔族軍との最前線。西方王国は宰相の反乱を抑えきれていない」 どちらの国も、他国の民を丸ごと抱え込むような余裕はない。昨冬は対魔族軍の名目でなんとか受け入れさせたが、その反動が西方の反乱だ。 「もし、もしさ」 北方の惨状を思い出したのか、これからの犠牲者を想像したのか、レイコの目にうっすらと涙が浮かぶ。 「女神代行がお願いしたら、西方の反乱は終わるかな」 終わる。リョウの理性がそう答える。この世界で、女神というのはそれだけの権威がある。だが、それをレイコに告げることはない。 「レイコ」 女神の権威で無理やり反乱を終わらせれば、必ず不満が残る。西方王国は、再度の反乱を防ぐためにどこかで不満を解消しなければならない。その矛先が、どこに向かうか。 「この世界のことは、この世界の人間が決めるべきだ」 「でも、私たち女神代行なんだよ」 だから不味いのだ。魔王討伐が残ってもこの世界に残っていれば、必ず利用される。そうした人間の暗部を話したくないから、リョウは話の方向を変える。 「代行だ。女神じゃない。元の世界があって、家族がいる。キョウカさん、きっと心配してるぞ」 元々家族ぐるみで付き合いのある幼馴染だ。普段快活なレイコの母親が、娘のこととなるとひどく心配性であることも知っているし、レイコが母親のことを大好きなのも知っている。 事実、母の名前を出されたとたん、目じりに涙が球になった。 リョウが手を伸ばして涙をぬぐうと、レイコの指がすがるようにリョウの手に絡みつく。 「リョウは、帰りたい?」 「二人で元の世界に帰る。そのために、魔王を倒す。そう決めただろ」 見つめあう二人が最後の一歩を詰める前に、声がかかった。 「リョウ様、居られますか~」 弾かれるように離れる二人を見てから、その戦士は自分が何を邪魔したか悟ったらしい。しかし、今更なかったことにはできない。 「も、申し訳ありません。その、リョウ様を呼んで来いとレウ様の仰せで」 「ああ、アレか」 「アレ?」 要件を察したリョウにレイコが疑問の視線を向けるが、リョウは答えずにレイコの背を押して歩きだす。 「大したことじゃない。先に宴の方に行っててくれ。主賓がいないと盛り上がりに欠けるだろうしな」 参:血の採取 「おお、来たな。待たせおって」 私室に入ってきたリョウを笑顔で迎えて、レウは酒杯を傾ける。ワインではあるが、竜火酒を常飲する身には水のようなものだろう。 「レイコはついてきておらんじゃろうな」 「先に宴に行かせた」 「ならばよい」 酒杯を置き、レウは服を留めているブローチの一つを外す。体に巻き付けた布のふちに指をかけ、ためらい一つ見せず引き開ける。 「そら、始めよ。器はそこに用意してあるでな」 露わになった下腹部、人間であればヘソがあるべき場所に、一枚の鱗が生えていた。通常とは逆に、天を突くように生えた玉虫色の鱗。 逆鱗と呼ばれる竜の弱点。リョウがその天辺に指をかけて少し引くと、付け根から紅く煌く液体が流れ出す。 「前も思ったが、痛くはないのか?」 「血が出ておるのじゃ。痛くないわけがなかろう」 リョウはレウの前にしゃがみ、滴る血を陶器の瓶に受ける。対魔王戦に、竜の属性を強く帯びたドラゴンブラッドは欠かせない。 「じゃが、我慢できないようなものではない。慣れてきて、少し気持ちよさすら感じる。それより」 レウが上体をかがめると、豊かな胸がリョウの頭の上に乗る。 「この格好でよいのか? 全部脱いだ方がやりやすいと思うのじゃが」 「いや、その必要はない」 鼻の奥に血の匂いを感じながら、頭に当たる柔らかな感触を無視して、リョウは何とか平静を装う。 しばらく乗せていてもリョウの反応がないので、飽きたレウは姿勢を戻して話題を変える。 「ソルンの提案はどうする」 「却下だ」 「だが、実際に帰還の術を組むのはソルンの配下の、ええと」 「ガンダクロウ」 「そう、それ」 それ呼ばわりされた人類最高の魔術師を憐れんで、リョウは大きくため息をついた。 「……昨夜も結構話し込んでたろう。いい加減名前ぐらい覚えてやれ。そんなだから狂うんだ」 年経て、己の死期を悟った竜は暴れ狂う災厄となる。現存するもっとも古い竜であるレウも後数十年でそうなると予想されている。 「妾にとって、名前を憶えておきたいと思う者はお前だけじゃ」 聞きようによっては愛の告白のようだが、この竜が言えばただの本気である。三種族の中では、竜が最も個人主義傾向が強い。 リョウは、それこそが原因だと考えていた。己が死した後、何も残せない虚無感こそが老竜を破壊に駆り立てる。己のいない世界に、意味などないのだと。 「ああいう魔術師は、後々まで細かく記録を残す連中だ。仲良くしておいて損はないぞ」 だから、何かを残せるようにしてやればいい。魔王殺しの竜の名を人はずっと語り継ぐ。それが二人の間で交わされた契約だった。 「そういうものかえ。では、覚えておくよう努力しよう」 意外なほど素直に、老いた竜は若い人の忠告を受け入れる。 「ふむ、ガンダええと、クロウ?が術を組むのじゃから、ソルンに命じられたとおりに組むかもしれんぞ。さすがに帰す気がない術ならば見抜くこともできよう。じゃが、どちらか一人だけ帰すようなものじゃったら?」 見えてはいないが、銀の視線が頭頂に突き刺さるのをリョウは感じた。 「リョウよ。お主は、どちらか一人しか帰れぬ時に、レイコを押しのけて帰るのかえ?」 「それはない。もし一人しか帰れないなら、帰るのはレイコだ」 思ったより声が大きかったことに自分で驚き、リョウは声を低めて理由を続ける。 「正直、レイコに女神代行は向いてないと思っている」 「そうかの? うまく人間たちを団結させることができておる」 「僕に言わせれば、女神の力は団結じゃない」 「ふむ? なかなか面白い。竜には力が、魔族には魔力が、人には団結があるのがこの世界の定め。もちろん、他者の力を借りてこれぬわけではないが」 レウが語るのはこの世界で一般的に信じられている三柱の三すくみ。しかし、初めに聞いた時からリョウはそれに違和感を覚えていた。 「人間の力は確かに団結だ。でも、女神は一人だ。団結できない」 「なるほど、一理はある。では、団結ではない女神の力とは何じゃ」 「知恵だ」 リョウとしても、確信しているわけではない。だが、自信はあった。あるからこそ、レイコには話せない。 「竜の力を、魔族の魔力を取り込み、元の種族より使いこなす。それができるのが女神の、そして人の本来の力である知恵だ。団結はそれを運用し後世に伝えていくための、副次的なものだ」 「ほほう。では、女神は己の力を巧妙に隠匿し、知恵を巡らせて人間をうまく団結させていたと」 騙している、と言われても否定はできない。自らの扇動で熱狂する民を見て、女神は何を思っていたのだろう。 「でも、女神は代行を二人呼んでしまった。人を惹きつける知恵と、その奥で冷徹にものを考える知恵が分かれてしまった」 どちらがどちらなのか、とは言わない。この戦争の間、作戦を立てるのはいつもリョウの仕事だった。 「僕は、312人を少ないと思った。レイコはたぶん、そうじゃない」 レイコは、自分が女神の加護を使うことで戦士たちの士気が上がるのを知っている。士気の上がった戦士たちが勇敢に戦い、傷つき死んでいくのを知っている。 「優しくて真面目だから、自分という旗印の下で死んでいく者たちに耐えられない。戦闘が大規模になってから、笑顔が減った」 「ふむ? まあ、そうやも知れぬな」 四本目の瓶がいっぱいになったのを見て、リョウは逆鱗から指を離す。そもそも物理攻撃担当のリョウとソルンにはドラゴンブラッドが必要だが、元々りゅうであるレウや援護役のレイコには必要ない。一人二本あれば十分だ。 「それに、どちらか一人と言っているが、ソルンの奴は露骨にレイコ狙いだろ」 「おお、気づいておったか」 「当たり前だろ。わかってないのはレイコ本人だけだ。あいつは昔から色恋沙汰は鈍いから」 「果たして、そうかのう」 そうなんだよ、とリョウは心の中でだけ返答して、瓶のふたを閉める。 一年前、レイコに「付き合ってください」と告白した生徒会長が、「いいよ、どこに?」の一言で撃沈したのをリョウはまだよく覚えている。自分がする時は、もっとしっかり理解させてからにしようと心に誓った。 「まあ、ソルンの方も口にしてしまった以上は後に引けぬ」 「だろうな。口先でごまかすんじゃなくて真正面から言ってくるあたりがソルンらしい」 実のところ、リョウはソルンのことを嫌いではない。女神の悪知恵を継いだ身として、良くも悪くもまっすぐな勇者はからかい甲斐のある弟のように感じている。もっとも、実年齢も体格も向こうが上なのだが。 「準備を整えているとはいえ、不和を抱えたまま魔王に挑んで返り討ちに合うのは妾も嫌じゃ」 瓶を置いたリョウの手を取り、レウはその指先を口に含む。指についたままになっていた己の血を丹念に舐めとって、竜は魔族よりも悪魔らしい笑みを浮かべる。 「ゆえに、さっさとケリをつけてしまうことを提案する」 四:月下の決闘 勇者も素直に竜の提案に同意したため、ケリはその日の夜につけられることになった。 「では、これより魔王討伐後の方針を決める決闘を執り行う」 砦から少し離れた森の中。泉があるので、使いやすいよう木を切り倒し、下草を刈って作られ、ちょっとした広場になっているところだ。満月に照らされ、昼には劣るがかなり明るい。 「審判である妾を除き、初めに血を流した者が敗者であり、血を流させた者が勝者である」 いるのは4人。決闘をするリョウとソルン、審判をするレウ、そしてレイコ。宴から離れる4人を目ざとく見つけた魔術師は、戦士の一人に足止めされて飲まされているところだろう。 「ファーストブラッドか」 「戦力として欠けてもらっては困るからの。武器も無しじゃ」 レウの言葉に、レイコは胸の前で手を握りしめ、ソルンが少し眉をしかめるのが見えた。 「聖剣無しじゃ不安か、ソルン?」 素手での戦闘となると、普段から格闘をしているリョウの方が剣士であるソルンより経験が多い。それを踏まえた挑発にソルンはいつもの真面目つらで返す。 「ちょうどいいハンデだ。でも、守護の加護は切れ」 「自身の肉体以外の何かで流血をさせても流血を防いでも、無効とする。魔術や加護とかな」 ソルンはともかく、リョウは女神の加護で多少の傷は受けないし、攻撃用の魔術も使える。高位魔族相手では牽制にしかならないが、人間であるソルンなら当てれば傷つけるのはたやすい。 「勝者が提示した方針に、敗者は従う。誓え」 「誓う」 短く答えたリョウに対し、ソルンは聖剣を引き抜き、立会人であるかのように地面に突き立てる。 「女神より賜りし聖剣クリストークにかけて、ゴルンの息子ソルンはこの決闘の勝敗にこの世界の人類の行く末を託すことを誓う」 言い直さなくていいのかと目で問うレウに、リョウは顎をしゃくる。思いつめた表情のレイコに大丈夫だと頷いたが、これは通じなかったらしい。 「では、はじめ」 レウの言葉で、弾かれるようにリョウから仕掛ける。 わざと見え見えの軌道で顎を狙った左拳を防がせ、ガードの影で脛を蹴り上げる。 下に向いた意識の逆を突いて右拳で顔を狙う。 だが、これは浅くしか入らなかった。ソルンの左拳が、カウンター気味にリョウの脇腹を叩いていたからだ。 ナイフでも持っていれば、この時点でソルンの勝ちだったろう。だが、素手で腹を叩いても流血には中々至らない。 叩かれた勢いにそのまま乗り、リョウは少し距離を取る。 「なるほど」 「何がだよ」 叩かれたわき腹を庇うように、リョウは右半身を下げて半身に構える。 「いや、前から魔族たちがリョウの拳をやすやすともらっているのが不思議でな」 「殴られる身になればよくわかるだろ」 鼻の奥に濡れた錆の匂いを感じながら、リョウはソルンの周りをまわるように間合いをはかる。今にも泣きそうな顔になっているレイコが視界に入った。 「そうだな。今度はこちらから行くぞ!」 律儀に宣言し、ソルンが前に出る。拳ではなく開いた手で、リョウの腕を取りに来る。 体格に勝るソルンに掴まれれば、リョウの勝機は一気に減る。 だが、あえてリョウはソルンに腕を取らせる。その代わりに、逆の手でソルンの襟首をつかんだ。 踏み込みの踵を外に蹴りだされ、バランスを崩したソルンが倒れる。 腕をつかまれているためリョウも一緒に倒れるが、ポジションは上。襟を離した手で拳を握り、ソルンの顔面目指して拳を振り下ろす。 ソルンはあえてそれを額で受ける。 拳を受けたソルンと、硬い骨を叩かされたリョウが共に苦痛に顔をゆがめる。 それをこらえてもう一打入れようとしたところで、ソルンがつかんだままの腕を強く引く。 リョウは上下入れ替えを嫌い、身をもぎ離す。 結局、数mの距離を置いて二人とも立ち上がる。 「レスリングは経験者だっけ?」 「騎士の修練にある」 地面を踏みしめるソルンの右足が、少しぎこちない。脛を蹴ったし、さっき倒した時にも体重をかけておいたのが効いてはいるのだろう。 「お前の拳は軽いな」 「戦闘訓練なんて受けてないんでね。僕は文科系なんだ、本来」 授業でかじった程度の柔道と、幼いころの喧嘩の経験だけでも何とかここまで来れたのは、女神の加護で身体能力が補われているせいだ。 「じゃあ、なぜ決闘に乗った」 「得意分野で叩きのめされたら、さすがにあきらめるだろ?」 軽口を止めて、リョウは思考する。 さて、どう攻めるか。 結局、素手で流血させようと思えば鼻や口を狙わないと厳しい。だが、両方がそれをわかって警戒すれば有効打はなかなか入らない。 長期戦は嫌だなと思ったところで横やりが入った。 「注目!!!」 決闘の最中だというのに、視線が無理やり横を向く。レイコが使う、女神の加護だ。 二人の目に入ったのは、シャツをまくり上げたレイコの姿だった。 少し日に焼けた肌、レウには劣るとはいえしっかりと女を主張する胸のふくらみ、ブラシャーを外した今は、その先端の桜色の蕾まで夜気にさらされていた。 何をしていると言おうとしたところで、レウの裁定が下った。 「勝負あり」 「何!? 鼻血でか?」 横を見ると、確かに勇者の鼻からは血が流れていた。なるほど、これもファーストブラッドかと笑いかけたところで、レウの指摘が続く。 「リョウもな」 言われて鼻の下をぬぐうと、手に赤い液体がついた。 「二人とも血を流したんだから負け。私が勝ち」 そそくさと服を直したレイコが宣言する。その顔は、耳の先まで真っ赤に染まっていた。 「ちょ、ちょっと待て。俺たち二人の決闘だろう」 「妾は、そんなこと言うておらん」 断言するレウの言葉を聞いて、リョウは決闘前の宣言を思い出す。 『審判である妾を除き、初めに血を流した者が敗者であり、血を流させたものが勝者である』 「確かに、レウは審判だから除外されてるが、レイコに関しては何も言ってないな」 「しかし、加護は反則と」 「直接傷つける加護はな。しかし今回は視線を向けただけじゃからのう」 鼻血も拭かずに食い下がるソルンに、にやにや笑うレウ。 「ちょっと詐欺っぽいけど、私の勝ち。剣にかけて誓ったでしょう」 誓いの事を持ち出されると、誇り高い勇者はそれ以上反論できない。 「で、勝者であるレイコはどうしたいんだ」 リョウに促されても、レイコはしばらく答えなかった。 二,三度喉をならして唾を飲み込んでから、やっと一言絞り出した。 「まず、リョウはこの世界に残ること」 今度はリョウが黙る番だった。もちろん、いざという時にレイコを先に返して自分が残る覚悟はしていた。しかし、レイコからそれを強制されるのは想定外だ。 「……理由ぐらいは聞いてもいいか」 「だって、その」 言いにくそうにうつむいて、レイコはなんとか言葉を続ける。 「見ちゃったんだもん。レウが服をはだけてて、リョウとくっついて、血が出てるけど気持ちいいって……私そういうの疎いけど、そのぐらいの知識はあるもん」 呆気にとられて何も言えないリョウの前で、レイコはその細い肩を震わせ始める。 「レウにも聞いたけど、リョウはほかの人には見せられないところを見せられる特別な人だって。……責任、取らなきゃだめだよ」 「リョウ! まさかお前とレウがそんな関係だったとは!」 純粋に驚くソルンは無視して、リョウはレイコの両肩をつかむ。 「あのな、レイコ。違うんだ」 「私は、残るときっと邪魔しちゃうから。二人とも、幸せにね」 「だから、ドラゴンブラッドを取ってただけで、お前が思ってるようなことは何もしてない。見ろ、あのニヤニヤ顔を!」 リョウはレイコの顔を両手ではさみ、レウの方を向かせる。性悪竜は何とか噴き出すのだけは我慢して、自分の太ももを叩いているところだった。 「……レウ?」 「嘘は何も言うておらんが?」 「他の人には見せられないって」 「逆鱗は竜の急所じゃからな。滅多な者には見せられん」 「特別な人だって」 「魔王退治の契約なんて、妾の長い人生の中でも一度しかやっておらんしの」 「……私の早とちり?」 「うむ」 レイコの体から力が抜けたのを見て、リョウは手を放してレウをにらむ。 「いや、騙す気満々だろ」 「うむ」 まったく悪びれた様子はなく、レウは腰に手を当てて胸を張る。 「……忘れて」 「え?」 聞き返した隙に、レイコはするりとリョウの背後に回り、振り返れないように抱き着く。 「勝者は敗者に命令できるの。忘れなさい。ソルンも」 「「はい」」 何を、とは問い返さずに二人とも素直に従う。 「で、僕はまだ一人でこの世界に残らなきゃいないのか」 「ううん。帰ろう、一緒に」 見えないのに律儀に首を振るレイコの動きを背中で感じ、リョウはやっと一息つく。 だが、収まらないのはソルンの方だ。 「では、我らを、この世界の人類を見捨てるのか、レイコ」 「ううん」 「じゃあ、どうする」 帰るか、復興か、両方に使えるだけの魔力が無いことがそもそもの発端だ。どっちもやるなどという虫のいいことはできない。 「あのね、今回のことで分かったの。やっぱり、大事なことを決めるときにはちゃんとみんなで話し合わなきゃダメなんだよ」 「もう話し合いはやったろう」 「でも、一番大事な人の話を聞いてないでしょ?」 勇者と、竜と、女神代行が顔を見合わせる。この三人が、対魔族軍の代表であるはずだ。他に、だれが発言権があるというのか。 「大事な人?」 「うん、だから、女神さま」 終:次代の勇者 「かくして、翌日。ついに妾たち4人の前に姿を現した魔王はドラゴンブラッドを2本同時に使った勇者ソルンの聖剣で一刀両だ、もがっ」 最高潮に達しようとしたテンションは、口に詰め込まれた編み棒に阻まれる。 「レウ、小さなソルンはもう寝てますよぅ?」 編み棒の主は、ほんわかした口調でレウをたしなめる。子供用のベットで、確かにかつての勇者の面影がある幼子がすやすやと寝息を立てている。 「むぅ、自分から先祖の話をせがんでおいてこれか」 「仕方がないですよぉ。レウの話はあっちこっちに飛んでいくから、無駄に長いんです」 やわらかい頬をつつくことも止められ、レウは自分の頬を膨らませた。 「しかしな、ここからが面白いところじゃろう」 「まあ、私も自分が召喚した女神代行に召喚されることになるとは思いませんでしたがぁ」 レウの背を押して子供部屋から出つつ、女神は自分が元の世界へと送り返した少年少女に思いをはせる。 「どうしてるでしょうねぇ、あの二人」 「もう死んでおるじゃろ。勇者ソルンが逝ってもう百年は経っておるんじゃぞ」 「あぁ、そうでもないんですよぅ。あっちの世界よりこっちの世界の方が時間の進みが早いみたいなんですねぇ。だから」 子供部屋の扉がそっと閉じられ、女神の言葉がふんわりと床に落ちた。 「小さなソルンが、あの二人と冒険するって事も、あるかもしれませんよ」 |
ワルプルギス 2nPB2./RMA 2016年08月28日 21時14分30秒 公開 ■この作品の著作権は ワルプルギス 2nPB2./RMA さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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