暗闇に潜む |
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【こちらのお話はホラーになります。】 【暴力表現、グロテスクな表現があります。】 【苦手な方はお気を付けくださるよう、お願いいたします。】 浅い眠りから目を覚ますと、部屋はまだ暗闇に満ちていた。 夜中に目が覚めてしまったようだ。何気なく顔を触ると指先にぬるり、と嫌な感触がした。 「やだ……また……?」 智子は隣に寝ている娘の紗智を起こさないように、静かに布団から出て洗面所の扉を開けた。 洗面台の鏡に映る智子は、驚いた表情をしながら鼻血を流していた。指で触れてしまった為、口から頬の辺りまで筆でなぞったように血にまみれていた。無意識に口元を舐めてしまい、生臭い匂いと、血液特有の嫌な味が口に広がる。 智子は顔を洗い、常備してあった清潔なガーゼを鼻に詰めた。 このところ毎日だ。 いくつかの病院で精密検査を受けたが、特に異常は見られなかった。医者は「ストレスでしょう」と言い放った。腑には落ちないが、他に体の異常が無いことを考えると、現代の医学と医者の言葉を信じるほかなさそうだ。 ストレス。確かにそうなのかもしれない。 離婚しシングルマザーとなってからというもの、胃の痛くなる毎日を送っている。五才になる娘の幼稚園への送り迎え。安い時給で働かされるパート。日々の生活。智子の両親はすでに他界している為、援助も受けることができない。さらには過去の夫との生活を夢で見ることがある。悪夢だ。何度か夜中に飛び起きることがあり、それもストレスに拍車をかけているのかもしれない。 洗面台に手をかけ、大きくため息をついた。 「ママ。大丈夫?」 その時、娘の紗智が心配そうな声を出し、智子の顔を見上げていた。 智子はしゃがんで紗智の頭を優しく撫でた。 「ごめんね。起こしちゃった。ママ大丈夫だからね」 そう言うと、紗智はすぐに踵を返しリビングへと入っていた。何かをひっくり返すような音が聞こえたかと思うとすぐに戻ってきた。小さな手にはおもちゃの聴診器。 紗智はしゃがんだままの智子の鼻におもちゃの聴診器をあてる。 「痛いの痛いのとんでけー」 医者の真似事だろう。 この時期の子供はいろいろなものを見て学習する。娘の成長を見られるだけでこれ以上の喜びは無いはずだが、様々な不安は拭えない。 自分がしっかりしなければいけない。智子は紗智を優しく抱きながらそう思った。 見上げると、暗く厚い雲が空を覆っていた。天気予報では晴れだった為、洗濯物をベランダに干したが、取り込んだほうがいいのかもしれない。どんよりとした空色も相まって気分も落ち込んでくる。 どうしようかと悩んでいると、リビングの方から紗智の声が聞こえてきた。おもちゃの聴診器を手に持ち、お医者さんごっこをしているようだ。 「今日はどうされましたか? いっぱい血が出ていますね。どれどれ……。痛いの痛いのとんでけー」 普通一人でごっこ遊びをするときは、ぬいぐるみや人形を相手にするのではないだろうか? 紗智は何もいない空間に話しかけている。しかし、紗智はまるで誰かがそこに存在するかのように、聴診器を空に掲げている。紗智はぬいぐるみや人形を持っていないわけではない。うさぎやくまのぬいぐるみ。可愛らしいブロンドの髪の人形。そういったものはいくつも持っている。少し心配だ。 些細なことに不安を覚える。これも日頃のストレスのせいだろうか? 智子はどんよりとした雲を眺め呆けた。 築四十年ほど経っているアパートの二階から見る町並みは、学生の頃からほとんど変わってはいない。一カ月前に離婚をして十五年ぶりにこの町に戻ってきたが、両親とともに過ごした家はすでに処分していた為、少し寂しい気分になった。それでもこの町に戻ってきたのは、学生時代の友人がいると思ったからだ。しかし、その友人たちも結婚して地元を離れて、連絡が取れなかったりと、見知った顔はどこにもいなかった。 「智子さん。どうしたの? 浮かない顔して」 と、妙に明るい声が智子の耳に入った。 隣に住む高橋里美だ。このアパートは一階に三戸。二階に三戸の計六戸の部屋がある。二階には智子と里美。一階には小林さんと言う年配の女性が住んでいる。 里美はベランダの柵に手をかけ、こちらを覗きこんでいる。 茶系の明るい髪色に、くりくりとした大きな瞳。智子と同い年ながらやたらと幼く見える。 「ん……そう見える?」 「うん。見えるよ。なんだか疲れている感じ。今日、日曜だからパートお休みでしょ? 紗智ちゃん連れてこっちでお茶でもしない?」 確かに、このどんよりとした気分で折角の日曜日を台無しにするのはもったいない。おしゃべりでもしていれば少しは気分も晴れるかもしれない。 「じゃあ、お邪魔しちゃおうかな」 智子は急いでベランダの洗濯物を取り込み、風呂場の物干しざおにかけた。 「紗智。里美さんの家に遊びに行くから、お片づけしなさい」 居間にいる紗智に声をかけた。紗智は智子の声が聞こえていないかのように、誰もいない空間に話しかけていた。 雨粒が安アパートの屋根をしきりに叩いている。洗濯物を取り込んでおいて正解だった。 紗智は同じく五歳になる里美の娘――舞とお人形遊びに興じている。 「やっぱり考え過ぎじゃない? 子供の一人遊びだもの。そういうこともあるわよ」 里美が仲良く遊ぶ子供たちに視線を向けながら言った。 「私もそう思うけど……」 「小さい頃って空想上の友達っていなかった? ぬいぐるみじゃなくて自分の頭の中だけの存在。私はいたわよ。お金持ちでイケメンの男の子」 智子は思わず吹き出してしまう。 「まあ、子供は大人には理解できないことをいろいろやるものよ。そんな心配しなくてもいいんじゃない? ……私はそれより智子さんの方が心配なんだけど」 里美は机に頬杖をつき、智子の顔を覗き込んだ。 「なんかやつれてない? 初めて会った時も相当参ってたみたいだったけど、今はそれ以上よ」 「そ、そう?」 自分の顔を触ってみるが、いまいちよくわからない。 「まあ、離婚して小さな子供抱えてるわけだから不安になるのも分かるけど……。何かあったら私が相談に乗るから! あ、お金以外の事でね」 満面の笑みで里美が答える。 智子は本当に里美と出会えて幸運だと思った。身寄りが誰もいない智子にとって、里美は唯一ともいえる友人だ。もし、里美に出会うことができなかったら、自分は壊れていたかもしれない。 「あーあ。どっかにいい男ころがってないかな。お金持ちのイケメンで絶対に浮気しない男」 里美もシングルマザーだ。舞がお腹にいる頃に浮気され別れたそうだ。両親とは仲が悪いらしく、離婚後、一人で出産し、舞を育てているのだと言う。いつも明るく頼りになる里美だったが、壮絶な苦労をしてきたのだと思う。 弱音を吐いてはいられない。 そんな時、何気なくつけていたテレビから、神妙な面持ちのアナウンサーの声が流れてきた。 「――昨夜未明。○○公園敷地内にて、胴体の一部とみられる遺体が発見されました。損傷が激しく、性別、年齢などは分かっていませんが――」 その後もアナウンサーは、事件の詳細を視聴者に向けて語っていた。 「いやだ……この近くじゃない」 アナウンサーによると、まだ犯人は見つかっていないそうだ。また一つ不安の種が出来てしまった。母一人、子一人の今の状況では家にいるのも不安だ。こんな時、頼れる男性がいれば……とは思うが、男と暮らすなど二度とごめんだった。 「そういえば……」 ふと、思い出したように里美が話し出した。 「下の階の小林さんから聞いたんだけどね。昔、この辺りでもバラバラ殺人があったみたいよ。腕、腰、足……バラバラにされてこの辺り一帯に隠されていたんだって」 「……っ」 喉の奥から小さな悲鳴が漏れる。猟奇的な内容に反し、部屋の中は子供たちの楽しそうな声で満ちていた。妙に不釣り合いな雰囲気に不気味さを覚える。 「すぐに犯人は見つかって、切断された体も探したんだけど……頭部だけはどうしても見つからなかったんだって」 「でも、犯人が隠したんじゃ……」 「その犯人も捕まってすぐに死んじゃったらしいわよ。それで、警察もずいぶん捜査したらしいんだけどね……」 「いやだ……」 「まあ、このアパートが建設中の時の話らしいし……。小林さん、人を驚かすのが好きだから、話をでっちあげてるだけかもしれないしね」 このアパートの建設中の凄惨な事件。四十年ほど前の話だ。そんな事件があったなど知らなかった。 里美が「しまった」という表情をして智子を見た。血の気が引いている智子を見て察したのだろう。 「ごめん! 智子さん。こんな話するんじゃなかったわ。テレビも消しましょう。もっと楽しい話しましょうよ」 里美はそそくさと立ち上がり、冷蔵庫からプリンを取り出した。ポットでお湯を沸かし、紅茶も用意している。 子供たちはプリンとみると、急にそわそわしだし、テーブルの前に集まりだした。 紅茶のさわやかな香りが不安で凍った心を少しだけ溶かしてくれる。外の雨はいよいよ本降りになりだした。 この雨が自分の心の不安も洗い流してくれたらいいのに……と思いながら、智子は子供たちの笑顔を眺めていた。 深い闇の中にいた。どうやら壁に背を預け座り込んでいるようだ。後ろに回されている腕を動かそうとするが、何かで縛られているらしく動かす事が出来ない。硬い縄のようなものが手首に食い込み痛みが走る。 周りを見渡してみると、うっすらと部屋の輪郭が見えてきた。風呂場のようだ。洗面台の下にある扉の取っ手で、手首を縛られているようだった。 自分はなぜこんなことになっているのだろう。紗智は? 紗智はどこに? 「助けて!」と声を出そうとしてみるが、なぜか声が出てこない。歯がカチカチと鳴り、体の奥底から恐ろしい程の寒気が襲ってくる。 強盗だろうか? 夜中、寝ている間に侵入されて縛られてしまったのだろうか。 ふと視線を下に落とすと、花柄のスカートが目に入った。暗くてよくわからないが、上は暗めの地味なトレーナー。いつも智子が寝るときはパジャマのはずだ。それにこんな洋服は持っていない。何が何だかわからない。 泣いていいのか、叫んでいいのかわからずにいると、隣の部屋から誰かが動き回っているような足音が聞こえてきた。 紗智のような軽い足音ではない。誰かが隣の部屋にいる。 紗智は……! 声を出そうとしても、まるで喉に栓をされてしまったかのように、音を発することができない。 すると、床を踏み鳴らしながら風呂場へと何者かが入ってきた。暗くて顔は良くわからなかったが、体は大きく男のようだった。 「……っ! ……!」 声にならない叫び声をあげると、男は真っ直ぐにこちらを見据えた。次の瞬間、顔にすさまじい衝撃が走った。 男は手を痛そうに振っていた。殴られたのだ。 顔全体が電流を流されたようにしびれている。しびれは次第に顔の中心に集まり、痛みへと変わっていく。暖かい何かが鼻を伝い、口を通り顎から垂れている。 男は怒りに体を震わせ、何かをわめき散らしている。しかし、男の声はこちらには届いていない。 男はズボンのポケットから取り出したものを智子の首筋にあてた。冷たい感触が肌を刺激する。小さいがナイフのようだ。男はにやついた表情で、智子の頬にペタペタとあてる。 怖い。 男は躊躇いもしないまま、智子の太ももにナイフを突き立てた。焼けた鉄の棒を突き立てられたようだ。体が反射的に跳ねる。それを見た男が大きく口を開け笑った。 体が尋常じゃないくらいに震える。顔から流れる液体が床を濡らす。既に、血なのか涙なのかわからない。 男は暴れ回る智子の頭を床に押し付けた。縛られている手足が妙な方向にねじ曲がり、激痛が走る。再び男は智子の首筋にナイフを押し付けた。そのまま力を込め――。 「きゃああぁぁあ!」 起き上がると自分の部屋だった。まだ夜中のようだ。肩で息をしながら暗闇を見つめていると、次第に頭が働いてきた。 離婚をし、夫の暴力から逃れたと思っていても、こうして悪夢となり智子を精神的に追い詰める。 それにしても今日の悪夢は強烈だった。 いつも見る悪夢は、精々、夫に平手で顔を打たれる程度だった。さすがの夫も刃物を持ち出す事は無かった。 一つ、大きくため息を漏らした。少しでも温もりを得ようと、隣に寝ている紗智に手を伸ばした。 しかし、そこにいるはずの紗智に触れることは無かった。 「紗智?」 照明を点けるが、部屋の中に紗智はいなかった。 ――トイレだろうか? しかし、五歳になっても紗智はまだ一人ではトイレに行けない。暗闇を怖がるので、いつも智子が付き添っている。 「紗智? どこなの」 トイレを見てみるが、誰もいない。 「紗智!」 声が震えているのがわかる。こんな夜中にどこかへ行ってしまうのは考えにくいが、妙に心にざわめきを覚える。 不安に心を押しつぶされそうになりながら、洗面台の扉を開けた。 そこに紗智はいた。 暗闇にまみれながらも、紗智はただ立ちつくしている。 「紗智? どうしたのこんな所で……」 何も反応が無い。洗面台の照明を点けても紗智はなんの反応も示さない。 紗智は子供らしからぬ無表情で、智子の方を見ずに洗面台の鏡を指し示している。 「出してほしいんだって」 「え?」 「寂しいんだって。暗いんだって。出して欲しいって言ってるよ」 「っ……! 何を言ってるの?」 紗智は顔だけをこちらに向けた。 「ネェ。オネガイ。ダシテ。オネガイ。ダシテ」 抑揚のない声で、智子に懇願する。 「さ、紗智っ! 一体どうしたの?」 娘の明らかに異様な様子に困惑し肩に手をかける。紗智は感情の無い瞳で智子を見据えた。 突然、紗智の黒目が瞼の裏へと消えた。白目の血管が寄生虫のように蠢いている。 「ネェ。オネガイ。ダシテ。オネガイ。ダシテ」 紗智の口からはドロドロとした黒い液体が流れ出した。目、鼻からも流れ出たそれは、次第に床を覆い、智子を求めるように、足の指先に絡みついてくる。 「紗智! いやぁっ! 紗智っ!」 「紗智!」 朝日が差し込み、目覚めたばかりの智子の瞳を刺激している。外からは雀の鳴き声が聞こえ、新聞配達のバイクの音が遠ざかって行った。 夢うつつなままの頭で、隣を見てみると紗智が可愛らしい寝息を立てていた。智子は紗智の顔を確かめたが、特に血が流れている様子は無かった。 「また……夢……」 智子は布団に倒れ込んだ。丁度視線が洗面台の扉を捕える。智子の背中に冷たいものが走った。 太陽が真上よりも少し、東側に傾いている。今日のパートは午前中までだ。紗智のお迎えまでしばらく時間がある。 智子は妙に心に引っかかることがあり、アパートの下の階の小林さんの部屋に訪れていた。 小林さんとは何度かゴミ出しの際、話したことがある。印象としては話好きなおばちゃんと言った感じだ。七十を超えているらしいが、全くと言っていい程衰えは見られない。 手土産を持って訪れると、嫌な顔一つせず招き入れてくれた。旦那さんを早くに亡くし、子供もいないため暇を持て余しているそうだ。 小林さんが里美に話したという、アパートの建設中に起きたバラバラ殺人事件。見つからない頭部。 その事件を自分の悪夢に結び付けるのは少々無理やりな気がするが、何かが引っ掛かる。このところ不安も多く、些細なことでも気になってしまうのは自分でもばかげていると思う。 小林さんは智子が持ってきた手土産のショートケーキを皿に載せ持ってきてくれた。紅茶のカップを智子に差し出しと、小林さんはうきうきとした笑顔で対面に座った。 「今日はどうしたんだい? 聞きたいことがあるって」 妙にうきうきとした表情だ。おしゃべりできることが嬉しいのだろう。智子も心配事を抱えていなければ、おしゃべりに付き合っても良かったが、今はとにかくバラバラ殺人事件の事を聞いておきたい。 「あの……少し気になっていることがありまして。四十年前。このアパートの建設中に起きた殺人事件の事をお聞きしたいのですが」 紅茶を飲む小林さんの手が止まった。そのまま、静かにカップを下ろした。 「ああ、その事かい? かなり昔の事だけどしっかりと覚えているよ」 そう言うと、小林さんは古いアルバムを持ってきた。開いて一枚の写真を指し示す。 「ほら、この人。静子さんって言うんだけどね。この人が殺されちゃったのよ」 写真には四人の男女が映っていた。後ろには基礎と骨組しかできていない建物が映っていた。当時、まだ建設中だったこのアパートだろう。写真の人物は随分と若いが、そのうち一人は小林さんだということが分かった。その隣には、優しそうな男性。この人が若いころに亡くなった小林さんの旦那だろう。静子の隣には、大柄で気難しそうな男性が映っている。 大柄な男性の顔を見ていると、智子の鼻の辺りがツン、と痛んだ。 小林さんは、ススと大柄な男性の方に指を滑らせた。 「この男が静子さんを殺したのよ」 「え……」 「当時私たち夫婦は、結婚したばかりでね。新築のこのアパートに住む計画を立てていたの。見学に立ち寄った際に、同じくこのアパートに引っ越してこようとした静子さん達夫婦に出会ったのよ。同じ新婚同士だったものだから、記念で建設中のアパートを背に写真を撮ろうということになってね。その後すぐだったかな? バラバラにされた遺体が建設中のこのアパートに捨てられていたのよ」 智子の喉に酸っぱいものがこみ上げる。 「こんな幸せそう見えるのに……なんで」 「幸せそうに見える?」 「え?」 「少なくとも私は幸せそうには見えなかったね。写真からは分からないだろうけど、顔には青あざや何かをぶつけた様な跡があったし、腕にもタバコを押し付けられた様なやけどがあったから」 「まさか、夫から暴力を?」 智子の胸が重苦しくなる。この静江と言う人も夫から暴力を受けていたのだろうか。 「そうだろうねぇ。私も夫も変だとは思ったけど、会ったのはこの一回きりだし、変に人さまの家庭に茶々いれるのもどうかと思ったし……。でもあの時、警察にでも連絡を入れていれば静子さんも殺されなくて済んだかもしれないね」 小林さんは眉尻を下げ、申し訳なさそうな顔をしている。目がしらを揉み一つ大きく息を吐いた。 再び、智子は写真に映る静子に目を落とした。柔和な笑顔と落ち着いた雰囲気を醸し出した女性だ。じっと静子の表情をみる。 ――静子が履いているスカート。 花柄のスカートだった。 先日、夢を見た際に智子が履いていたスカートは花柄だった。花柄はあまり好みではない為、洋服も含め花柄は持ってはいなかった。偶然だろうか? 「せめて体が全部見つかっていれば、しっかりと供養できたのにねぇ。ひょっとしたら、まだこのアパートのどこかでさまよっているのかもしれないね」 夕食を終え、湯船にゆっくりと浸かりながら智子は今日、小林さんから聞いた話を思い出していた。 夫からの暴力を受け、無残にもバラバラにされ殺された静子。女性として幸せにもなれず、しっかりと供養もされなかった静子の事を思うと、目頭が熱くなってくる。 智子も女性としての幸せを成就出来ているとは言い難いが、紗智もいるし、里美と言う友人もいる。 一人寂しく殺され、四十年間この世をさ迷っているのだろうか。あの悪夢や連日続く鼻血なども静子からのメッセージなのかもしれない。 少し、静子に同情してしまう。 しかし、幽霊などと言う非科学的なものを簡単に信じることはできない。悪夢も鼻血もただのストレスによるものと考えた方が現実的だ。 「痛いの痛いのとんでけー」 紗智の無邪気な声が風呂場にまで届いてきた。 「紗智ー。ちゃんとパジャマ着たの?」 返事が無い。 風呂嫌いの紗智は、湯船に入ることを嫌いそそくさと出て行ってしまった。着替えなさい、とは言ったものの、本当にパジャマを着ているのだろうか。 「もうっ」 智子は湯船から出て、バスタオルだけを体に巻き洗面台へと出た。 「……あそこから出たいの? いいよ。ママに言ってきてあげるね」 そんな紗智の声が聞こえたかと思うと、リビングへ続く扉が開いた。目の前には裸の紗智。 「紗智! 裸のままじゃない。それに、ちゃんと体も拭かないで……。風邪ひいちゃ……」 智子の苦言が全く耳に届いていないかのように言葉を続ける。 「ねぇママ。静子ちゃんのこと出してあげて」 静子。 「ね、ねえ。紗智? し、静子って一体誰?」 昼間の小林さんとの会話は紗智には話していない。静子という名前は知る由も無いはずだ。 「ママ。変なの。だって、このおうちに来てからずっと一緒にいるよ」 途端、部屋の雰囲気が異質なものに変わった気がした。 「そ、そんな人はママ知らないよ。この部屋の中には紗智とママだけだ……よね……?」 「んーん。違うよ。いるよ」 「ど、どこに?」 「ここだよ」 紗智は洗面台を指さした。洗面台には、恐怖と驚きが混じった表情の智子と、紗智の頭が映っている。 「オネガイ。ダシテ」 「紗――」 瞬間、部屋中の照明が落ちた。一瞬で明かりは削り取られ、辺りには暗闇が満ちる。明るさに慣れた智子の眼は暗闇の中、何も捕えることはできなかった。 「紗智……紗智……」 それでも智子は腕を伸ばし紗智を抱きかかえようとする。とにかくここから逃げ出したかった。少しでも静子に同情した自分が楽観的だった。 このような状況になれば、恐怖が体を支配し逃げ出すことしかできない。 智子は紗智を抱きかかえようとするが、まるで紗智の足から地に根が張ったようになり動かす事が出来ない。 「ダシテダシテダシテ」 「紗智ぃ……ううう」 出して、と懇願しているのは紗智ではないのだろう。静子が紗智に乗り移っているとしか思えない。 紗智を置いて逃げ出すなんて出来るはずがない。どうすれば良いのか分からない。 「ダシテダシテダシテ」 うっすらと暗闇に目が慣れてきた。紗智は相変わらず洗面台の鏡を指さし呻いている。 洗面台の鏡。ここには一体何が……。 洗面台の鏡は観音開きになっている。ドライヤーや歯ブラシ、歯磨き粉などが収納できるようになっている。毎日開けているが、特に変わったものは見られない。 智子は恐怖にかられながらも鏡を見据える。紗智を正気に戻す為には、開けなければならないのだろうか。涙と恐怖でぐちゃぐちゃになった智子の顔が映った。酷い顔だ。智子は腕を伸ばし、鏡を開けようとする。 その時、鏡に映る智子の顔がひどく歪んだ。鼻はひしゃげ、頬骨は陥没し、目は潰されている。顔中から赤黒い血液が流れ出し、人とは思えない顔になっている。 智子の中の何かが壊れた。 伸ばした腕は、力を失いだらりと下ろされた。足腰はがくがくと震え、立っていることができない。智子は力なく尻もちをついた。 「ごっ……! ごめん、なさい! 私、ムリっ! あなたを助けることは、できないっ! ごめんなさい。許して!」 智子は力の限り叫んだ。このどこかに居るのかもしれない静子に向かって。 「……シテ」 今まで虚ろに呟いていた紗智が力なく床に倒れた。 「紗智っ!」 智子は乱れたバスタオルを巻きなおし、紗智を抱え玄関に走り出した。浅い呼吸しかできずに息が苦しくなるが、かまってはいられない。 裸の紗智を抱え、玄関を出た後、里美の家のチャイムを鳴らした。 「お願いっ! 入れてっ!」 迷惑とかそうういった感情は残っていなかった。とにかくあそこではない違う場所へ逃げたかった。 部屋の中から、激しく床を踏み鳴らす音が聞こえたかと思うと、すぐに鍵を外す音が聞こえた。わずかに開いた隙間に指を入れ込み、智子は玄関を開けた。滑り込むようにして里美の家に入った。 驚愕の表情を浮かべる里美に説明する間もなく智子は気を失った。 「里美さん。今まで本当にお世話になりました」 智子が深くお辞儀をする。紗智がそれに習いたどたどしくお辞儀をした。 「うん。なんか大変だったわね。でも部屋が決まってよかった」 「本当に……一月も居候してしまいごめんなさい」 あの後、智子と紗智は警察の護衛の元、救急車で病院に運ばれたらしい。里美にとってみれば強盗に押し入られ、命からがら逃げてきたように見えたからだ。しばらくアパートの周りは騒然としていたものの、強盗ではないことが分かるといつもの静けさを取り戻していった。 外傷はなかったため、翌日には返されてしまったが、智子はあの部屋に帰る気にはならなかった。 智子は半ばパニックになりながら、しばらく里美の部屋に住まわせてくれと懇願した。最初は戸惑っていた里美だったが、智子のあまりの剣幕に了承した。 「あ、ごめんね。変な意味に取らないでね。最初は戸惑ったけど、何だかルームメイトみたいで楽しかったしね」 「うん。私も」 紗智と舞も子供同士、なかなか上手くやっていたようだ。 最初はまた鼻血が出たり、夜中に妙な現象が起こるのではないかと恐れていたが、ぱったりとそういった現象は起こらなかった。 やはりあの部屋に静子はいたのだろう。私は何もできなかった。何か出来なかったのかと考えるが、思い出すだけで体が震え動けなくなってしまう。 「私もね、引っ越そうと思うんだ」 「え?」 「智子さんのあの剣幕見ちゃったら、私もちょっと怖くなってきちゃって……今、他の部屋探してるの」 「そう……」 「これからはお隣さんじゃなくなっちゃうけど、いつでも連絡して。またお茶しましょうね」 「ええ。いろいろありがとう」 引っ越し業者のトラックがアパートの外で待っている。名残惜しいが、そろそろ行かねばならない。小林さんとも別れのあいさつを交わし、紗智と一緒にトラックへと乗り込む。 里美がいなくなれば、二階は誰もいない空間になる。あの部屋にいるのかもしれない静子は、だれかあの部屋に入居するまで一人ぼっちで待ち続けるのだろう。たった一人で。 静子を救うのは智子ではなかった。ただそれだけだった。 雲の切れ間から、光が差し込み街全体を包み込む。 トラックが走り出すと、アパートはどんどん小さくなって行った。 |
たかセカンド 2016年08月28日 20時52分38秒 公開 ■この作品の著作権は たかセカンド さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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