妖怪の森は紅に染まる |
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ついさっきまで聞こえていた蝉の大合唱が、気づけばぴたりとやんでいた。 周りに木がないわけではない。むしろ周囲はぐるりと緑に囲まれ、照り付ける日差しを和らげてくれている。俺は手の甲で、顎から滴る汗をぬぐった。これは暑さのせいか、それとも冷や汗だろうか。 ゆっくりと、木々の間の薄暗い闇へと歩を進める。奥へ一歩踏み出すたびに、空気が心なしか冷たくなっていくような気がする。散々歩いたあとなので体は喜んでいるかもしれないが、頭の中はそうはいかなかった。 なにせここは神社のそば、鎮守の森の奥なのだ。人は住んでおらず、冷房なんてあるはずもない。それなのに、まるでクーラーの効いた部屋のように涼しい風が吹いてくる。木陰だからではすまない。明らかにおかしい。 俺はごくりと喉を鳴らした。背筋をなでていく寒気とともに、胸にこみ上げてくる高揚感。この奥に何かがいる。人の理屈では説明できない何かが。体が震えたのは寒さのせいか、恐怖のせいか、それとも武者震いというやつだろうか。 鳥肌のたった足で、俺はまた一歩土を踏みしめた。 * 地獄の窯が開くころ、鎮守の森に妖怪たちが集まって、力比べを始める。 だから森には入ってはいけないよ。ばあちゃんはいつも、最後に強くそう念を押した。 それはきっと俺が、子どもを怖がらせるための伝説を聞いても、怯えるどころか目を輝かせていたせいだったのだと思う。 ばあちゃんは俺に何かものを言うとき――暗くなる前に帰れだの扉は閉めろだの――には、いつも怪談話を使っていた。父さんは幼いころ、それで言いつけを守ったそうだが、俺はそれを聞いてもケロリとしていて、しまいには続きをねだっていた。ばあちゃんの苦労は推して知るべし、だ。 ばあちゃんから語られた話がほとんどただの作り話だと知ったときには、ずいぶんがっかりした。しかしその分、鎮守の森の伝説がきちんとした由来を持つと知って、ダンジョンを見つけた勇者、殺人事件に出会った名探偵のような気分になった。これはもう行くしかない! と今朝、神社の裏に回ってこの森へとやってきたのだ。 「しっかし、本当にこの冷気はどこから来るんだ……?」 不安をごまかすようにつぶやく。当然、誰かから返事が返ってくるはずもない。一層際立つ静けさ。 俺は軽く首を左右に振った。気弱になってはいけない。伝説を確かめるんだ。妖怪をこの目で見てやる! 俺は勢いよく顔を上げた。それがいけなかった。 目の前には、ぽっかりと洞窟のような穴が広がっていた。 いや、穴じゃない。森の木々がちょうど門のように集まって、影を作っているだけだ。頭ではそう分かっているのに、どうしてもそうは思えない。 なぜなら道の続き、木々の門の間が、ただの木陰にはとても見えないほど暗いからだ。どれほど長いトンネルなら、ここまで暗くなるのだろうか。正直なところ、穴にすら見えない。漆黒に塗りつぶした板が立てかけてあると言われたほうが、まだ納得できる。奥行きがこれっぽっちも見えないのだ。入ればきっと、一寸先どころか一ミリ先すら見えないだろう。 体がぶるりと震え、続いてくしゃみが飛び出した。漂う空気は、肌を刺すほど冷たくなっている。もはや夏らしいのは葉の緑と、ランニングにシャツを羽織り短パンをはいた俺の服装くらいのものだ。 鼻の下をごしごしと手でこすっていると、地響きが聞こえてきた。 「誰だ?」 俺は肩をびくりとはねさせた。これは地響きではない。しわがれて低く、そして太いが、誰かの――何かの声だ。それを悟った瞬間、俺は反射的に踵を返し、激しく土を蹴った。 「逃がさぬぞ」 また聞こえた。今度は甲高い、子供か女の声だ。一層足に力が入る。何もかもを振り払うように走った。走った。走った。それでも体はけして熱くならない。俺を取り囲む風は、未だに冷たいままだ。 前すら見ずに走って、走って、ついに足がもつれて転んだ。荒い息を吐きながら体を起こす。地面についた腕が震えて、上手く起き上がれない。腹這いのまま顔だけ上げたところで、俺は凍り付いた。 そこには、先ほどまでと同じ漆黒の穴が待っていた。 「なんで……」 思わず漏れた声は、ひどく情けないものだった。 確かに、穴に背を向けて駆けだしたはずだ。一度も曲がらなかったし、そもそも神社からここまでは一本道を来た。反対方向を向いて、ここに戻ってくるはずがない。 「もう逃げられぬぞ」 くすくす、と笑いまじりの声がするのと同時に、俺の顔のあたりに何かの影が落ちた。 反射的に視線を上げると、子どもが俺の顔を覗き込んでいた。 逆光でよく見えないが、にんまりといたずらっぽい笑みを浮かべている。髪はおかっぱより少し短く、男の子か女の子かもよく分からない。しかしそんなことは考えるだけ無駄だと悟る。その子どもの頭からは、ぴょこんと二つ、黄色い獣の耳が生えていた。 「……っ!」 原理不明の迷子に加えて、狐の耳を持つ子ども。俺の脳内は完全にパニックに陥った。上がりそうになった叫び声は、しかし喉のあたりで凍り付いた。 急に全身を、ぐっと締め上げられるような感覚が襲った。ちょうど腕を強くつかまれている時のような圧迫感。しかしそれが、今は体中に広がっている。 まるで大きな手が、俺を握りしめているような。 それに気付くのとほぼ同時に、周りの景色がすごい速さで動き出した。一瞬のうちに視界は黒に染まる。 何かに、あの木々の間の闇へと引っ張り込まれたのだ。さほど長くはない俺の髪が、音をたてて風に踊っている。かなりの速さだ。すぐ近くから、また先ほどの笑い声がした。暗すぎて姿は見えない。 俺を嬲る空気は依然として冷たいが、肌一枚隔てた内側では血が激しく巡っていた。心臓は激しく鼓動を打ち付け、逆に突然止まってしまいそうなほどだ。頭の中ではサイレンがけたたましく鳴り響いているが、体のほうはちっとも動かない。これは恐怖のせいか、それとも他の何かが原因なのだろうか。 真っ暗だったのは刹那のことにも、悠久のことにも思えた。急に視界に光が戻り、その眩しさに思わず目をつぶる。 「おお、本当に人間じゃないか!」 「いや待て、ヤコの悪戯かもしれんぞ」 「化けるのは狐の専売特許じゃからな」 ざわざわと、大人数の騒ぐ声が聞こえる。十人、二十人、いやもっとたくさん。老いた男のしわがれ声、子どもや女らしき声、動物のような鳴き声。 ふっ、と俺をつかんでいた力が消えた。地面にべしゃりと投げ出される。見えなかったせいで背中をしたたかに打った。 「いて!」 思わず声を上げると、どよめきが聞こえた。 「おい、今しゃべったぞ」 「当たり前だろう、人間だぞ。しゃべりはむしろ我らよりうまいはず」 「この程度で悲鳴を上げるとは、やはり軟弱じゃなあ」 好き勝手話す中に、俺のすぐそばから甲高い声が響いた。 「ほら、ヤコの言った通り、人間がいたじゃろう? 誰じゃ、ヤコのことを嘘つきなどと言うたのは」 俺はおそるおそる、細目を開けた。 そこには先ほどの子どもが立っていた。背はあまり高くない。俺が立ち上がれば、その腰まであるかないかだ。しかしそれにしては話し方も動作もはきはきしていて、幼さがあるのは見た目と声の高さくらいのものだ。来ているのは一見巫女服のようだが、よく見るものと色が逆転している。上が赤、下が白という具合だ。黒い髪を耳の少し下あたりまで伸ばしている。そして、頭の上のほうから黄色い耳が二つ。白い袴から黄色いふさふさの尻尾が一本。仮装かなにかだろうと楽観的に考えるには、場所と状況が異常すぎた。ヤコ――野狐か。 「ん、そいつ、どうやら目を開いたようだな」 老人らしき細い声がした。目の前の赤と白が翻り、二つの金色の目が現れる。ばちりと目が合った。しまった。金の瞳に強い光が宿る。 ヤコと呼ばれた子どもの唇が大きな弧を描いた。 「愚かよのう、人間よ。この地で何がなされておるか、知らなんだか」 ぶるりと体が震えた。目の前にいるのは、耳と尻尾以外は幼い子どもだ。しかしこの威圧感はなんだ。包丁を持った殺人鬼を目の前にしても、ここまで強い寒気は感じないのではないだろうか。 「ヤコ、やめてやれ。怯え死んではもったいないぞ」 また先ほどと同じ、細い老人の声がした。ヤコの瞳からぎらぎらとした光が消える。 「サトリ……」 つられて起き上がると、そこにはひどく痩せこけた、骨と皮に布きれをまとった老人が立っていた。白髪と白いひげがゆらゆらと揺れている。 サトリ、という名には覚えがあった。知り合いだとか、そういう意味ではない。妖怪の本で見たことがあるのだ。『覚』、人の心を読む妖怪だ。 「その通りだ、人間よ」 いきなり呼びかけられてどきりとする。サトリが、長い白髪の向こうから俺を見ている。 「逃げようとするでないぞ。わたしのことを知っておるなら、わかるだろう」 俺が逃げようとしたところで、考えを読まれてまた捕まるだけだ。あんなに激しく体を流れていた血液が、さあっと冷たく引いていく。俺の絶望を感じ取ったのか、サトリはため息をつくように顔を前に傾けた。 サトリの肩越しに見えたのは、まさしく異形の者たちだった。一言では表現できないほど多彩な、人とは離れた者たちが、俺をぐるりと囲む形で集まっていた。 あれは天狗、あれは鬼と分かりやすいものもいれば、大きな気味悪い肉団子のようなものや、鬼のやせ細ったようなのもいる。地面に座り込んだ姿勢では見えづらいが、どうやら後列にもそうとういるらしい。さながら百鬼夜行のようで、俺もこんな命の危機にさらされていなければ大興奮しただろう。しかし今はその数が多ければ多いほど、絶望しか感じない。奥歯がガチガチと音を立ててぶつかる。 見えない後列から、若い男が叫んだ。 「ジャパニーズの方々! まだ準備はできませぬか!」 アクセントがどこか外国人じみている。妖怪たちの塊が動いて、後ろのほうからまた何か近づいてきた。体がこわばる。 見えてきた姿は、一見普通の男のようにも見えた。ただ、服装がおかしい。たしかにこの場所はうすら寒いが、今は夏真っ盛りである。それにもかかわらず、男は厚手の黒マントをすらりと高いその身にまとっていた。黒髪を後ろになでつけ、鋭い青の目でサトリたちを見据えている。少しへの字になった唇は血の気がなく、その端から白い牙が覗いている。 サトリの隣あたりに立っていた天狗が、赤い顔をさらに赤くして怒鳴った。 「ええい、先刻からまだかまだかと、やかましくせっつきおって! 西洋のもののけはこれだから!」 「おや、これは失礼。いくら言ってもお返事がございませんもので。ひょっとしてジャパニーズの皆様は、お歳を召している分耳が遠いのかと」 「お前、我らを馬鹿にしておるのか!」 天狗の怒号に、地面までもが震えた気がした。俺は小さな悲鳴を漏らしたが、黒マントの男は涼しい顔で続けた。 「馬鹿になどしておりませんとも。……ああ、まあ」 男はそこで言葉を切り、わざとらしく周りにいる妖怪たちを見渡した。 「この程度で私たちヨーロピアンと戦おうなどとお考えになるのは、けして賢いとは言えませんがね」 男のさらに後ろのほうから、大笑いが聞こえてきた。反対に、俺の視界にいる妖怪たちは、それぞれに目つきを鋭くさせて臨戦体勢に入っている。空気がまた冷たさを増した気がした。俺の頭のあたりに立つヤコも、耳と尻尾をピンと立てて男を見据えている。怒りのあまり絶句した天狗に代わって、赤鬼が金棒を持った手を震わせながら口を開いた。 「おい、吸血鬼……。あまりふざけたことをぬかすでないぞ。同じ『鬼』の名を持つものとして恥ずかしい」 「おや、それはこちらの台詞でございますよ」 「何!」 鬼の体から、ゆらりと炎のようなものが立ち上る。頼むからこれ以上挑発しないでほしい。 「おい、赤鬼。落ち着きなさい」 日本の妖怪たち皆が吸血鬼をにらみつける中、サトリが赤鬼と吸血鬼の前に立った。サトリはくるりと吸血鬼のほうを向く。 「お前さん、とっととわたしたちを蹴散らして帰りたいと思うておるな」 吸血鬼はその通りと答える。地面に横たわり怯える俺には、妖怪たちが今にも跳びかからんと足に力を込めたのがよく見えた。 「だが、勝ってももらえるのが供え物だけでは物足りぬとも思うておるな」 「ええ、まあ」 「そこで、別のものも用意したのだ。それに少々手間取っての。……おい、一反」 サトリがこちらを振り向くと同時に、俺の体に白い布のようなものが巻き付いた。しかしただの布ではない。それは、明確な意思を持って俺に巻き付いた。俺の体はふわりと持ちあがる。 「うわ!」 こいつ、一反木綿か! 俺はじたばたともがいたが、一反木綿は意にも介さず俺をサトリと吸血鬼のそばまで運んだ。吸血鬼が青い目を見開く。 「これは、人間ですか! 今のご時世でどうやってお捕まえに……」 「自らやってきたのじゃ。西洋にもおるじゃろう、好奇心に駆られる輩が」 吸血鬼は顎に手をあてて、俺に顔を近づけてきた。のけぞろうとしたが頭をつかまれる。長い爪の先が俺の肌を破りそうだ。痛みに顔をしかめる。涙がこぼれる直前にやっと手は離れていった。 「なるほど……これを賞品に加えようというのですな? 今年の『東西妖怪大戦』の賞品に」 『東西妖怪対戦』? 「なんじゃ、知っていてきたのじゃろう? 地獄の窯の開くとき、もののけが力比べを始める、と」 俺の頭に疑問符が浮かぶのと、サトリが不思議そうに言うのはほぼ同時だった。 じゃあ、鎮守の森の伝説は本当だったのか! すっかり冷え切っていた体に、ほんの少し熱が戻る感覚。サトリは小さくため息をついた。 「人間というものは、まこと愚かじゃな……」 普段の俺ならサトリに同意しただろう。自分の命の危機なのに、そんなことで喜んでいる場合か、と。けれど今は、恐ろしさやら昂ぶりやらが混ざって自分でも混乱している。もしかすると現実逃避なのかもしれない。俺はただ、伝説に立ち会えることに胸を高鳴らせていた。 「ええい、いつまで話しておるのじゃ! とっとと始めるぞ!」 ヤコが白い袴をひるがえして、気味の悪い妖怪の頭に乗った。 その妖怪は俺より何倍も大きいが、どうやら上半身しかない。赤みの強い肌に少ない毛。やたら大きい目がぎょろりと東西の妖怪を見回した。ヤコが頭の上からとんとんと叩くと、妖怪は応えるように口を開いた。三本指の両手を振り上げた姿には見覚えがある。 まるで楽隊が指揮に応じるように、手が上がると同時に妖怪たちはそれぞれ構えた。ボクサーさながらファイティングポーズをとるもの、飛び上がろうと足に力を込めるもの。一反木綿は俺をヤコの隣まで運んで行った。視界が高くなり、全体がよく見えるようになる。東西合わせて百は超えているだろう。 「はじめ!」 ヤコが叫び、足元の妖怪に手刀をかます。妖怪「うわん」はその伝承通り、地響きのように大きなうなりを上げた。 「うわん!」 その声がゴング代わりらしく、妖怪たちはいっせいに動き始めた。大小さまざまの影が走り、ぶつかり、吹っ飛ぶ。ついに戦いが始まったのだ。 「すげえ……!」 俺の唇から、思わず感嘆の呟きが漏れる。耳ざとく聞きつけたヤコが腕を組んで胸を張った。 「人間などでは足元にも及ばぬ戦じゃろう? まあ、それも当然のことよ」 ヤコはしばらく自慢げに話し続けていたが、俺は聴覚より視覚のほうに集中していた。肌に衝撃が伝わってくるほど近くで繰り広げられる異形同士の戦い。 ゾンビらしき青い人影を、鬼の金棒が一閃し吹き飛ばす。しかしゾンビは体が折れてもなお動き、鬼の足にまとわりついた。振り払おうと鬼がうつむいた隙に、澱んだ色をしたスライムがその頭に飛びつく。鬼がもがいて膝をつくと、猫又がスライムに噛みついて追い払った。ゾンビが猫又のほうに手を伸ばすと、天狗が団扇で青い体ごと吹き飛ばす。一進一退の攻防、といった感じだ。 その向こう側では、ろくろ首がその長い首を吸血鬼にきつく巻き付け、高笑いを上げている。吸血鬼はわずかに眉を動かし、そのまま体を伸ばして首にかみついた。途端にろくろ首の顔から笑みが消え、みるみる顔色が悪くなってくる。首の力も抜け、吸血鬼は何食わぬ顔でそこから抜け出した。鮮やかな脱出劇。 砂ぼこりを巻き上げて暴れているのはゴーレムだ。その巨躯に追われて、足元で何やら小動物のような影が動いた。と思えば、ゴーレムが突然尻餅をついた。重い巨体が倒れ込んだ衝撃が、地面から浮き上がっていても伝わってくる。続いて、鈍色の人形に深く鋭い切り傷が付いていく。先ほどの小さな獣は、かまいたちだったのだ。 「いてて、おい人間! 放さんか!」 体を締め付ける力が強くなる。はっとして見ると、俺はいつの間には一反木綿の端のあたりを強く握りしめていた。客席から身を乗り出すような気分で、ついつかんでしまったらしい。あわてて放すと、一反木綿は拘束を少し緩めた。両腕が自由になる。 「また捕まれてはかなわんからな……」 一反木綿がその頭らしき部分を俺に近づけてきた。 「おぬしはわし等が恐ろしくないのか?」 俺は手と首を両方とも大きく横に振った。 「そうよのう……先ほどまでずいぶん震えておったし。しかし戦が始まるとそれも治まった」 「サトリも言うておったじゃろう。そいつは阿呆なのじゃ」 ヤコが口を挟んでくる。腕を組んでいるのはさっきと同じだが、今度は尻尾がぴんと張って毛を逆立てている。ぷくっと頬を膨らませた姿は、まるっきり子どもだ。 「ヤコの話を聞かぬとは、阿呆も阿呆、大阿呆じゃ!」 金色の瞳で睨みつけられる。離れているせいか、それとも俺が興奮しすぎて麻痺してきたのか、さっきほどの気迫は感じない。それも気に障るらしく、ヤコは顔を赤くして地団太を踏んだ。踏みつけられたうわんがかすれた声でうわん、とつぶやく。 「ヤコ、やめてやれ。うわんが痛がっておるぞ」 「うるさい! 一反お前、人間をかばうというのか!」 「そんなことは言うておらぬ。……わしの話を聞いておらぬな」 一反木綿は頭とおぼしき部分を小さく前へ動かした。戦いより俺の拘束に駆り出されたり、どうやらこの一反木綿、苦労しているようだ。 「……なんだ人間、その目は。わしを哀れんででもおるのか?」 「え、いや、そんなつもりは!」 存在していない目に睨まれた気がして、慌てて否定する。俺の体は今、この妖怪に包まれているのだ。こいつが本気になれば絞め殺されてしまうかもしれない。 「……まあよい。どうせこの戦が終われば、東西どちらかの妖怪の腹へ散る身。短い時を好きに楽しめ」 一反木綿の言葉に、俺は両手をぐっと握りしめた。不自然な肌寒さが思い出したように俺の体を襲う。俺の震えを感じ取ったのか、一反木綿は視線を俺から眼前の合戦へと移した。 妖怪たちの数は半分ほどに減っていた。残り半分は死んだわけではなく、東西それぞれ後ろに下がっている。腕を押さえているもの、地面に倒れ込んでいるもの。戦闘不能となったものは退くというルールらしい。 未だ戦い続けている妖怪たちは、一見して強そうな有名なものが多かった。素早く動き回る吸血鬼めがけて金棒を振り回す鬼。二本足で立って遠吠えをするあの獣は狼男だろうか。頭上では日本の龍と西洋のドラゴンが、互いの体を絡めるように飛んでいる。そのさらに上からも、重い打撃音が降ってきた。 「止まれ!」 突然鋭い声が響き、妖怪たちは困惑しながらも動きを止めた。戦場の中央を突っ切るようにして、何かがこちらへ近づいてくる。 それはサトリだった。その能力ゆえ体には一つも傷が付いていない。しかし皺の刻まれたその顔には、焦りが浮かんでいた。 「どうしたのじゃ、サトリ。ヤコはまだ終わりなどと言うておらぬぞ?」 「ヤコ、そんなことを言うておるときではない。ここにいる皆を脅かす危険が迫っておる」 戦いの前に見せた落ち着いた振る舞いとは違うサトリの剣幕に、ヤコは一歩足を引いた。一反木綿やうわん、切り合った姿勢のまま立ち止った妖怪たちも、怪訝気に顔を見合わせている。 「来るぞ!」 サトリは天を指差した。 瞬間、それに呼ばれたように、巨大な赤い球が降ってきた。 「な、なんじゃこれは!」 ヤコの悲鳴が、おそらくその場にいた皆の想いを代弁していた。 運動会の大玉転がしを思わせるそれは重力に従って戦場へと落ち、そしてそのまま弾けた。戦っていた妖怪たちの体が赤に染まる。戦場の端のあたりで浮いている俺たちのほうへも飛沫が飛んでくる。球はどうやら、真っ赤な雫だったらしい。 「こ、これは血だ!」 吸血鬼が汚れたマントを見て叫ぶ。その間にもまた、血の雫が一つ二つと降ってくる。 「逃げるのじゃ!」 サトリの号令で、妖怪たちはいっせいに動き出した。飛ぶ力を持つものは自力で、持たないものは他の妖怪の背に乗って地を離れる。一反木綿は赤いしみのできた体をさらに高みへと上昇させた。地面がさらに遠くなり、俺は先ほどまでとは違う恐怖に体をこわばらせる。 「動くでないぞ、人間」 一反木綿が念を押してきたが、そもそも動こうなどと思えない。この高さから落ちたら、妖怪に殺される前に死んでしまう。 「おいサトリ、これはなんじゃ!」 ヤコが顔についた血をぬぐいながら、八咫烏に乗って近づいてきたサトリに尋ねた。サトリは天を仰いで答える。 「うむ、どうやら、巨人が怪我をしたらしいの」 「きょ、巨人!?」 俺は思わず叫んだ。空を見上げると、先ほどまで戦っていた龍たちは背に多くの妖怪を乗せて飛んでいた。さらにその上から、赤い点がだんだんと近づいてくる。頭上でしていた轟音は、巨人の戦いだったということか。 「ではその怪我を癒さねばならぬということか」 天狗が烏と同じ黒い翼で羽ばたく。サトリは頷いた。 「血の勢いが増せば、赤い滝がこの地を襲うじゃろう。自然に止まるのを待っていては、飛ぶ力が尽きるものが出るやもしれぬ」 「ならばとっとと血を止めるのじゃ!」 マントをひるがえし近づいてきた吸血鬼が、大袈裟なジェスチャーでため息をついてみせた。 「フォックスは賢いと聞いておりましたが、どうやらデマだったご様子」 「な、なんじゃと!」 ヤコは黄色の尻尾の毛を逆立たせた。吸血鬼は涼しい顔のまま続ける。 「巨人は我々より大きな体をしているのですよ? その体全体に血液を巡らせるため、彼らの血圧は相当のもの。ちょっとやそっとでは止まりません」 「ふん、西洋のものではそうであろうな」 大きなカモメのような化け物に乗った赤鬼が、勝ち誇った笑みを浮かべた。 「おおい、かまいたち! 末のものをこっちへよこせ!」 龍の背から小さな獣が一匹、うわんの頭の上へと飛び降りた。それは大きなイタチのように見えたが、よく見ると両手がひれのようにつるりとして湿っている。ヤコはかまいたちの頭を撫で、毛を逆立てていた尻尾をゆっくりと揺らした。 「こやつの手の薬はどんな怪我でもたちどころに治してしまうのじゃ」 かまいたちは誇らしげに高い声で鳴いた。ひれの湿り気は薬によるものらしい。かまいたちはサトリと交代で八咫烏の上に乗る。 「では、頼んだぞ」 サトリの言葉に、獣と鳥はそろって頷いた。小さな影が上空へとさらに小さくなっていく。 「これで一安心じゃな」 ヤコは吸血鬼を横目で見て鼻を鳴らした。吸血鬼は青い血管を浮き出させている。八つ当たりや流れ弾が来るんじゃないだろうな。俺は肩をすくめた。 日本の妖怪たちはもうすっかり安心した様子で、かすんで見えない上空を見上げていた。しかしそこから、また血の大玉が落下してきた。真下にいた妖怪たちが慌ててその場を離れる。 「どうした!」 鬼の叫びに応えるように、上空から違う影が降ってきた。かまいたちと八咫烏だ。 「む、なんと……」 サトリが二匹を見つめた。吸血鬼が急かす。 「どうしたのです」 「うむ、傷口に薬が塗れんらしい」 「何故じゃ!」 ヤコが黄色い尻尾をゆらめかせた。今にもとびかかりそうな姿に、いたちと烏は怯えている。 「どうやら傷口が、鼻の穴にあるようじゃな。それは入りたくないじゃろうて」 「鼻の穴?」 俺も含めた皆が思わず反復した。つまりそれって……鼻血? 「巨人でも、喧嘩で鼻血とか出すんだ……」 ぽつりとつぶやいた言葉に、丸くなっていたヤコの黄金の瞳が細くなってこちらを向いた。 「馬鹿にするな人間! 普段、我らはちょっとやそっとでは傷つかぬ! まして鼻から血など、そんな間抜けなこと……」 ヤコの台詞を、天からの悲しげなうなり声が遮った。それに続いてまた、赤い大雫が一つ、二つ。 「ヤコが間抜けなどというから、巨人が悲しんでおるぞ」 天狗がたしなめた。ヤコは頬を膨らませてそっぽを向く。 「鼻の中の怪我など、前に見たのはいつだ?」 「さあ……ここ数百年はないのではないか? 西洋はどうじゃ?」 「いえ、こちらでも……そもそも昨今、血を見るようなことがあまりありませんもので」 「人間と戦うこともないしのお……戦いといえばこの東西戦くらいのもので」 妖怪たちががやがやと騒ぎ始める。どうも出血、それも鼻血というものは、妖怪たちの間ではかなりレアなものらしい。確かに妖怪は、見る限りヒトより屈強な体をしているものが多い。一通り戦い終えた今でさえ、弱っているものはいても血を流しているものは見受けられない。 雫の量は少しずつ増えているように思えた。雨が降り出したときのように、ゆっくりと勢いを増していく。違うのは雨粒が赤いことと、おそろしく巨大なことだ。 「おい吸血鬼」 女の細い声に視線を向けると、日本髪を結った女の顔だけがすぐそばにあった。思わず体を大きくのけぞらせてしまい、一反木綿に頭を軽くはたかれる。 「お前、先ほど私の血を吸うたな。血には多少なりと慣れておるのではないか」 ろくろ首が龍の上から首を伸ばしている。全員の視線が赤茶に汚れたマントに集まった。 「わ、私にどうしろと言うのです」 ヤコがぽん、と右の拳で左手を打った。 「お前が全部飲めばよいのじゃ!」 「無茶を言うな、ヤコ」 即座にサトリが却下する。ヤコは耳をまっすぐ立てて、またうわんを激しく踏みつけた。 「何故じゃ! 仮にも妖怪じゃろう、それくらいできなくてどうする!」 「よく言うわ、供え物の油揚げをくすねては食べ過ぎて、腹を壊しているくせに」 鳥のような獣のような、よくわからない妖怪が笑う。ヤコは顔を真っ赤にした。 「黙れこの馬鹿狸!」 どうやら狸が翼を持つものに化けているらしい。ヤコも鳥に化けて自力で飛べば、うわんも踏みつけられずにすむだろうに。 吸血鬼は胸に手を当てて、気取ったポーズをとった。 「そこのおチビちゃんと一緒にされてはかないませんね」 「え、全部飲むのか? それはさすがに無理では……」 ペガサスに乗った狼男が止めるが、吸血鬼はマントをひるがえして上空へと上がっていった。どの世の中でも見栄っ張りはいるらしい。 吸血鬼が俺たちより十メートルほど上に上がったとき、また青空に不自然な赤い影が見えた。しかしそれは先ほどまでの球体とは違い、それらの連なった流れの形をしていた。 「なっ……!」 風に乗って息を呑む音が聞こえたかと思うと、黒い男の影は血の濁流へと飲み込まれた。狼男が叫ぶ。 「まずい! 吸血鬼は水の流れに弱いんだ!」 「なんだと?」 鬼が聞き返す。 「流れは穢れを落とすもの……吸血鬼の弱点の一つなんだ!」 「物の怪の血でも駄目なのか?」 「それは……ただの気の持ちようではないか?」 ヤコと一反木綿がツッコミを入れるが、狼男は仲間の危機が心配らしく、ペガサスを駆って血流へと近づいていく。吸血鬼は赤い滝の中から手を伸ばしていた。颯爽と飛んでいた吸血鬼が溺れている姿は、なんというかすごく残念だ。 しばらくして、吸血鬼は体中赤黒くなり、鉄の匂いをさせながら戻ってきた。乗せているペガサスは体を汚す血に心底不服そうな顔をしているが、狼男は仲間を救った達成感で気付いていないらしい。吸血鬼が乱れた髪をくたびれた様子で撫でつけるのを見て、ヤコは腹を抱えて笑っていた。 「ははは、体中ごちそうまみれじゃなあ! よかったなあ吸血鬼! あははははは!」 吸血鬼は反論する気力もないらしく、白い馬の首にもたれかかっていた。マントの端からぽたり、ぽたりと血の雫が落ちる。 「なんというか、その、……すまん」 ろくろ首が自分の長い首を、顔を隠すようにぐるりと巻いた。そらした目線がなんとも言えない憐みを宿している。 鬼が手をたたいて仕切り直した。 「さあさ、誰か考えのあるものはおらんのか!」 妖怪たちは東西ごちゃまぜに顔を見合わせるばかりだ。やはり血になじみがないものばかりらしい。血、ことに鼻血なんて日常茶飯事の人間からしたら、どうやったら血は止まるのかと首をかしげる妖怪たちの姿はなんとも異様だ。 「なんじゃ人間、血を止める術を知っておるのか」 急にサトリに話しかけられて、俺は自由になっている腕を胸の前にきつく畳んだ。黒金赤青、色とりどりで大きさや数もバラバラの瞳が、いっせいにこちらを向く。やけに乾く口に、申し訳程度ににじんでくる唾をごくりと呑む。 「え、ま、まあ……」 どもりながら肯定すると、ろくろ首ののっぺりとした白い顔が迫ってくる。 「なぜ早く言わぬか!」 「まあ抑えろ。こやつはずいぶん怯えていたようだ、仕方なかろう」 「そうでもないがな」 天狗がろくろ首をなだめるが、一反木綿がぼそりと呟いた。こちらを見たような気がするが、一反木綿には目がないので、ただ布がはためいたようにしか見えない。 「なんでもいい! 早く止める方法を教えてくれ!」 妖怪たちからせっつかれるが、恐怖と焦燥で頭がうまく回らない。俺はしどろもどろになりながら、なんとか止血方法をひねり出した。 「ええと、鼻血が出た時には、人間は鼻にティッシュを詰めたり……」 「『てっしゅ』とは何じゃ?」 ヤコの疑問に、俺より先に天狗が答えた。 「見たことがあるぞ。何やら白い布きれのようなものじゃ」 紙なんですけど、という訂正は、妖怪たちの感心した声に消えた。 「さすがは天狗殿、物知りじゃな」 「山に登ってきた人間が使っておったわ。そのまま捨て行こうとしたので、ちょいとこらしめてやった」 何をしたのか聞いてみたいような、恐ろしいような。 「へええ、布きれ……」 「ふうん、布きれ……」 和装の女の子が二人、顔を見合わせた。そして視線はぶつかった後、ゆっくりと俺のほうに向いていく。 俺に注目していた視線が、ほんのわずかにずれる。見られているのは俺ではない。 「わ、わしか?」 一反木綿が、白い体を風にはためかせた。確かに、布でできていることを覗けばティッシュに近い。 「無理を言うな! 巨人の鼻を、わしの体でふさげると思うのか!」 「何事もやってみねば分からぬ!」 ヤコが赤い袖をまくり上げ、腕を組んだ。一反木綿は周りを見回したが、誰も助け船を出さないことを悟ると、俺をゆっくりとうわんの上に下ろした。 「覚えておけよ、人間……」 恨めしげな声に、俺は恐怖より先に同情を覚えた。確かにこの体では、吸血鬼を押し流すほどの鼻血の流れはせき止められないだろう。しかしこの妖怪たちを前に意見する勇気は俺にはない。 「ほれ、早う行け!」 ヤコやその他妖怪たちにせっつかれて、一反木綿は足取り重く上空へと昇って行く。その間にも血は勢いを増し、もはや一滴二滴と垂れていた面影はない。流れと化した鼻血の源目指して、一反木綿は時折振り向きつつも近づいていった。 一反木綿の白い姿が雲に紛れたころ、わずかに流れが弱った。 「おお、やったか!?」 鬼が拳を握りしめて、その強面をほころばせる。 「いや、たぶん……」 俺には分かっていた。一反木綿では耐えきれない。となれば、一度抑えたあとにどうなるかは見当がつく。 予想通り、血の流れは一瞬の弱まりの後、元々よりも更にかさを増やした。赤く染まった一反木綿が、哀れにもしわくちゃのまま落下してくる。龍や八咫烏は反射的にそれをかわす。天狗が団扇で風を起こしてなんとか受け止めた。 「おぬしら……」 うめき声を漏らして、一反木綿はふわりと木の上に降り立った。ぐったりと風にあおられるそれは、もはやただの赤い布にしか見えない。 「さて、どうすればよいのじゃ?」 ヤコが何事も無かったかのように、あっけらかんと言い放った。 「血がどんどん多くなっているように見えるが、平気か?」 ドラゴンの上に立っていたミイラが、身を乗り出して上と下を見比べた。俺も倣う。 眼下にあったはずの緑色は、血にまみれて汚くなっている。どんどんと流れ込む真っ赤な液体は地面の吸収力を超え、赤い洪水が起ころうとしていた。 頭上は高さ故にかすんでよく見えない。雲も俺の視界を邪魔する。しかし血だけは激しい滝のように流れ落ちていた。 「こ、このままではまずいぞ! 我らの地が!」 妖怪たちはもはや阿鼻叫喚。人を脅かす存在が、鼻血に脅かされんとしている。なかなか気の抜ける光景だ。 「おいお前、何をぼうっとしているのじゃ!」 ヤコがこちらに、爪のとがった指を向けた。この地に妖怪たちほどの思い入れもない俺は、奴らよりいくぶん冷静だ。これはチャンス。 「あの鼻血を止めたら、家に帰してくれますか?」 「ええい、もうなんでもよい! 早く止めろ!」 鬼が怒鳴りつけてくる。 「早くしろ人間!」 四方八方から急かされる。俺は乾いて貼りつく唇をひと舐めした。 「鬼……さん!」 カモメじみた妖怪の上でこちらを睨んでいた鬼が目を丸くした。 「巨人の鼻の、根元あたりを押さえてください! 他の力の強い妖怪も一緒に!」 偉そうだと殴られやしないだろうな。俺の頬を冷たい汗が伝ったが、心配に反して鬼は頷いた。 「よし、姑獲鳥! 上がれ!」 鬼を乗せている妖怪が、人間の女の悲鳴に似た鳴き声を上げて舞い上がった。 ペガサスにもたれていた吸血鬼が、顔の赤を拭いながら合図する。 「ゴーレム! フランケン! お前たちも行くのです!」 鈍色の巨体と青ざめたネジ付き男が、ドラゴンに似た小さな獣に乗って天へ昇って行く。 残る皆がその背中を見送る。しばらくすると、血の勢いは弱まり、雫が垂れるほどに戻った。わっと歓声が上がる。 「ようやった、人間よ!」 ヤコがばしばしと背中を叩いてくる。その小さな体にそぐわない強打に、あやうくうわんから落ちそうになる。落ちたら、血の海がどうとかではなく普通に死ぬ高さだ。ひやっとする。 「しかし、まだ血がせき止められただけじゃ。怪我がふさがったわけではない」 サトリが落ちてくる赤い大玉を見て呟く。 「このまましばらくすれば、人の血なら止まりますが」 「それと鬼たちの力が尽きるのと、どちらが早い?」 「それは……」 鼻血はすぐ止まることもあれば、なかなか止まらずティッシュの山ができることもある。ましてや巨人の鼻血となれば、まったく予想が付かない。 「今、他にできることはないのか? 血を止める方法は?」 天狗が重ねて尋ねてくる。俺はまだ混乱している脳内を端から端まで検索した。 「ええと、あとは氷で冷やすとか……」 そう言うと、サトリと天狗は顔を見合わせた。 「あいつじゃな」 「しかしあいつが来てくれるか……」 「こやつを使えばよい」 言うが早いか、天狗は俺の両腕をむんずとつかんだ。足がうわんの頭を離れ、空中に浮く。 「ええ!? ちょ、ちょっと!」 思わずもがくが、天狗の赤い指が俺の腕にしっかりとくいこんでいて離れない。 「暴れるな人間。落ちるぞ」 天狗は俺をつかまえたまま、森の上を飛んだ。俺は声にならない悲鳴を上げながら、天狗の腕につかまる。宙ぶらりんの足と顔に当たる風に、ジェットコースターに似た不安感を抱く。安全バーなんてない分、こちらのほうが何倍も肝が冷える。 天狗は森を抜け、見覚えのある田舎の風景を越え、むわんとしたアスファルトの熱気を感じる都会まで飛んだ。なかなかの眺めだが、もちろん楽しむ余裕なんてない。 やや古ぼけた一軒家や蔦にまみれたアパートの並ぶ住宅街まできて、天狗は高さを落とした。 「わ、み、見つかる!」 「馬鹿者、舐めるでない。隠密の術くらいは心得ておるわ」 天狗は人通りの少ない道路に降り立った。久しぶりに踏みしめるアスファルトの感触。天狗は暑い暑いと団扇で顔を仰いでいた。 「ええと、ここで何を……?」 俺はあらためて周りを見回す。見えるのは家とアパートばかり。離れたところにコンビニチェーン店の看板が見えるくらいだ。いったい天狗は、何を思って俺をここに連れてきたのだろう。 天狗は団扇を動かすのとは逆の手で、すぐそばにあるアパートを指差した。 「ここの二階に用がある」 それは特別古ぼけたアパートだった。錆びた急傾斜の階段の上には、薄汚れた色のトタン屋根がある。亀裂の入ったコンクリートの壁には、すっかり文字の薄れた看板がネジで留められていた。 天狗はその頼りない階段を上り始めた。かなりシュールな光景を思わずじっと見つめていると、早うしろと急かされて慌てて追う。 天狗は二○三と書かれたドアの前で止まった。表札に名前は出ていないが、そう厚くないらしいドアの向こうからは物音がする。誰か住んでいるようだ。天狗はドア横のインターホンを押した。 「はーい」 中から女性の声がして、足音が近づいてきた。俺は一歩後ずさる。天狗はまったく気にしていない様子だ。いったいここに誰が住んでいるというんだ? 鼻血を止めるのとどんな関係がある? 疑問が解決されないうちに、ドアは開いた。 中から出てきたのは女性だった。まず目を引いたのは腰までの長さのある髪だ。白髪、というよりは銀髪というほうがふさわしい輝き。夏の陽光をきらきらとはね返している。タンクトップと短パンという無防備な服装。むきだしになっている手足は白く、日差しで雪のように融けるのではないかとさえ思ってしまう。青く大きな瞳が、天狗を見て大きく見開かれた。桃色の唇が開く。悲鳴でもあげるんじゃないだろうな。 「天狗、どうしたの? なんでここに……!」 しかしその口から漏れたのは、想像とは大きく離れたものだった。手を口に当て、驚きの表情をしているものの、それは異形のものの来訪に対するものではない。 天狗が俺のほうを見て、その女性を手で示しながら言った。 「こやつは雪女じゃ」 「あ――――!」 俺より先に、雪女と呼ばれた女性が叫んだ。 「何を考えてるの天狗! 私が男に素性を知られたらどうしなきゃいけないか、分かってるわけ!?」 雪女は天狗に怒鳴りつけた。天狗はやや気圧された様子で体を引く。 雪女の伝承は地域によってさまざまだが、その中でも有名なものというのは存在する。若い男が雪女に出会い、見逃される代わりに雪女のことは誰にも話してはならないと言われる。そののち男は妻を持つが、ある日うっかり妻に雪女の話をしてしまう。実はその妻こそが雪女で、男が話をしたことを嘆いて去ってしまう、というものだ。 「雪女は素性を知った男が、他の人間にそれを話すまでそばにいねばならない。そうじゃな」 天狗は何食わぬ顔でそう言った。雪女は今にも吹雪でも吹かせそうな勢いでかみつく。 「そうじゃな、じゃないわよ! この暑いのに外に出ろっていうの? というかなんで天狗が人間を連れてくるのよ!」 部屋から流れる冷たい空気は雪女のせいかと思っていたが、どうやらクーラーの風らしい。雪女の肩越しに見える部屋の中からは、洗い物の溜まった流し台や散らばったチラシなど、生活感が見て取れた。 「お前の力が必要なんじゃ。ただ、普通に呼んでも来ぬじゃろう? そこで雪女の伝承の力を借りようと思っての」 「そのせいで私はこいつについていかなきゃいけないんですけど!?」 「別にいいじゃろう、すぐ他のものに話をするよう言えば」 その相手は人間じゃないといけないんだろうか。話した相手から気が狂ったと思われたらどうすればいいんだろう。しかし俺以上に、雪女が困った様子で怒鳴り散らした。 「あのねえ、『あの人は雪女です』なんて話をされたら、今の世の中じゃ困るのよ! 身分証明も何もない私がこの部屋借りるのに、どんだけ苦労したと思ってんの!?」 「な、生々しい……」 伝承の神秘性も何もあったもんじゃない。思わず漏れた呟きに、透き通った青い瞳がこちらをにらんだ。 「うるさいわね、人間には分からないわよ! アルバイト一つするのにも、ものすごい時間と労力がいるのよ?」 「暑いから人間の冷房が欲しいなどと言って、森を出るからいかんのじゃ。あそこも涼しいじゃろうに」 「あそこ、あんまり涼しくすると他のやつが文句言うじゃない!」 確かにこの部屋は、クーラーがかなり効いている。鎮守の森も肌寒かったが、ここは冬の寒さだ。冷房の温度争いで、この雪女は人間の地に住処を移したということか。本当に、妖怪らしさの欠片もない理由だ。 呆れが表情に出たのか、雪女が目をさらに吊り上げる。天狗がため息を一つついた。 「とにかく、急ぐのじゃ。行くぞ」 天狗はまた俺の腕をつかみ、雪女に背を向けた。雪女はぶつぶつと不満そうにしながらも、天狗の背に乗る。 「雪女、そんなに強くつかむな! 痛いぞ!」 「痛くしてんのよ!」 今から空を飛ぼうというのに、かなり不安だ。墜落しやしないだろうな。かなりの心もとなさと共に、再び天空の旅が始まった。 頭上からしょっちゅう口論が聞こえはしたものの、なんとか落ちることなく俺たちは鎮守の森へと帰ってきた。ヤコが両手をぶんぶんと振り回しながら文句を言う。 「遅いわ馬鹿者! 鬼たちもそろそろ疲れてきておるぞ!」 俺も天狗も差し置いて、雪女がうわんの上に降り立った。 「ヤコ、あんたが私を呼ばせたの? 無理矢理呼びつけておいて随分な口の利き方ね」 「ヤコが呼んだのではない! 来たのならとっととせんか、この老婆!」 「誰が老婆ですって!? このおチビが!」 周りを置き去りに、女二人が喧嘩を始める。その舞台となっているうわんが切ない声をあげたが、飛び交う罵詈雑言は勢いを増すばかり。触らぬ神になんとやら、と言わんばかりに誰も止めない。それじゃあ困る。この鼻血に、俺の命もかかっているんだから。 「あ、あの!」 青と金の瞳が同時にこちらをにらんだ。 「喧嘩はやめましょう、よ……」 情けなく消えていく語尾。しかし二人は一応大人しく退いてくれた。 「で? 何をすればいいわけ?」 「あ、ええと、巨人の鼻血を止めるのを手伝ってほしくて」 「鼻血?」 雪女が首をかしげる。銀の髪がさらりと流れた。妖怪だとは分かっているけれど、外見は美しい女性のものだ。さっきまでとは違う種類の動揺を感じながら、俺は空から滴る血の大玉を指差した。 「ふうん、なるほど。冷やすのはいいっていうものね」 「あ、知ってるんですね」 「テレビで見たから」 妖怪らしさ皆無の理由だった。まあ他の妖怪は誰も知らなかったんだから、当然といえば当然か。雪女はまだ不服そうではあったが、八咫烏を踏んづけるように背に乗ると、その頭をはたいて上へと急かした。振る舞いがヤコとそっくりである。さっきのは同族嫌悪の類なのだろうか。 「わしらも見に行くぞ」 サトリがそう言うと、俺とヤコ、サトリを乗せたうわんと自力で跳んでいた天狗は一斉に上昇した。ぐんぐんと雲が迫ってくる。その中を突き抜けると、細かい水滴が肌を嬲った。その間にも、血の雫とすれ違う。頻度が上がっている気がする。鬼たちが力尽きかけている証拠だ。まずい。 雲の上に出ると、白い飛び地の上にどこまでも青空が広がっていた。そこにあるはずのない大きな影。隆起の激しい体つき、ところどころ毛が生えている以外はつるりとした肌。パーツのバランスが悪い顔。ひときわ大きな鼻からは赤いものが垂れている。その付け根あたりに、小さな何かが動いた。鬼たちだ。体を押し付けるようにして、巨人の鼻を押さえている。 「ちょっと、人間!」 烏に乗った雪女が近づいてくる。 「どのあたりを冷やせばいいの?」 「鼻の付け根を……」 「なんじゃまどろっこしい。鼻を丸ごと凍らせればよいのじゃ!」 またもヤコが無茶ぶりとする。それは無理なんじゃ、と言いかけたが、続く雪女の言葉にそれを飲み込む。 「了解。まるっと氷漬けにするわ」 言うが早いか、雪女は天狗を連れて八咫烏を駆り、巨人に近づいていく。そして天狗に無理矢理鬼たち三人をつかませた。天狗は必死に羽ばたいているが、あきらかに重さに負けてゆっくりと下降していく。雪女はそんなことは意にも介さず、巨人に向かって白くしなやかな腕を大きく振り上げた。 その瞬間、俺の服が輝き始めた。見ると、服についていた雲の水滴が凍り付いている。寒気が背筋を駆け抜け、俺は大きなくしゃみを繰り返した。ヤコが顔をしかめる。 だが俺の服などは、あくまで雪女の放った冷気の余波を浴びたに過ぎなかった。鼻をすすりながら見上げると、巨人の鼻のあたりがすっかり雪と氷で覆われていた。巨人が寒さのせいで震えてはいるが、滴っていた血は見事止まっている。 「や、やった……止まった!」 俺の声が聞こえたのか、雲の下から歓声が聞こえた。雪女は悠々とこちらへ戻ってくる。 「どう? これでいいんでしょ?」 「あ、はい! ありがとうございました」 頭を下げると、雪女は得意げに銀髪をかき上げた。 鼻血騒動が一段落し、改めて見ると、雪女は本当に美しかった。まさしく雪のように白い肌が、ほとんど胴体しか隠していない服から惜しげもなくさらされている。精巧に作られた人形のように整った顔。氷のように澄んだ、吸い込まれそうな青の瞳。肌の色ゆえに、仄かな桃色の唇が際立つ。なびく銀髪は、まるで風を具現化したようだ。俺の視線に気が付いたのか、雪女は目を細めて怪しげな笑みを浮かべた。 「ねえ貴方、さっき話していたこと、忘れてないわね?」 「え、ええと」 「私は貴方が、誰かに私のことを話すまでそばにいなきゃいけない。でもあまり吹聴されても困るのよね」 そういえばそんなことを言っていた。頷くと、雪女は笑みを一層濃くした。嫌な予感。 「だから私、貴方の家にしばらくいるわ」 「ええっ!?」 「なっ!?」 俺はもちろん、ヤコも驚愕の声を上げた。雪女はそんなことなど知らぬ顔で話し続ける。 「うちに来られて噂になりたくもないし、まだ暑くて森には帰れないし。電気代も浮くし」 最後のが最大の理由じゃないだろうな。 反論したくとも怖くてできない俺に代わって、ヤコがつかみかかった。 「駄目じゃ駄目じゃ! こやつはヤコの獲物じゃぞ!」 「あら、鼻血を止めたら解放する約束だって聞いたけど?」 「そ、それは……止めたのはおぬしじゃろう! 人間ではない!」 「ええっ、そんな!」 ヤコが屁理屈をこねだしたので、俺は慌てて会話に割って入った。せっかくここまで協力したのだ。大人しく家へ帰してもらいたい。 雪女は涼しい顔でヤコをあしらった。 「あんたも妖怪なら、約束くらい潔く守りなさい。こいつを殺されちゃ困るの。墓守になるのはごめんよ」 肩を抱かれてどきっとする。肌はひどく冷たいが、やわらかい。左腕に一際やわらかい感触がある。俺は体が、高所の寒さも氷粒の冷たさも雪女の冷ややかさも押しのけて熱くなるのを感じた。 ヤコは耳と尻尾を逆立てて喚いた。 「いやじゃ! 逃がさんぞ!」 「おい、ヤコ。やめるのじゃ!」 サトリの制止を耳に入れず、ヤコは両腕を地について獣のように構えた。するとその姿がみるみる変貌していく。顔には金の毛が生え、黒い髪は短くなり色を変え、着ていた服ははらりとほどけて赤と白の火の玉になった。気が付くころには、目の前にいるのは狐耳の少女ではなく、火の玉を従えた大きな狐になっていた。 「逃げるわよ!」 凛とした声と同時に、腕を強く退かれた。さっきまで俺の体があったところを、狐の右腕が一閃する。空ぶったヤコが咆哮を上げたが、俺を引き寄せた雪女はふんと鼻を鳴らしただけだった。八咫烏は俺たちを乗せて鎮守の森を離れる。ヤコの悔しそうな鳴き声が聞こえた。 「ほら、しっかり捕まって。あんたの家まで案内しなさい」 「本当にうちに来るの? ……ですか?」 女は当然、とでも言いたげに頷いた。俺はその顔を見つめる。 「何よ、その嫌そうな顔は。言っとくけど、私だって好きで行くわけじゃないのよ。伝承に従ってるだけなんだから。天狗があんなことしたのが悪いんだからね」 台詞だけは不満げだが、その顔にはしっかりと「電気代が浮いてラッキー」と書いてある。八咫烏も同じことを思ったのか、呆れた声でカアと鳴いた。 「それを言うなら、俺も被害者なんですけど……」 確かに鎮守の森に首を突っ込んだのは俺だが、妖怪の戦場に引きずり込まれたあげく戦いの賞品にされかけ、挙句雪女を罠にかける道具にされた。愚痴の一つも言いたくなる。 雪女は眉をひそめたが、後方から未だ聞こえる狐の声で納得したのか、眉間の皺を消した。 「……それじゃ、被害者同士よろしくね?」 青空を背に悪戯っぽく笑った彼女に、俺の頬は夏の温度を取り戻した。 END |
沙映 2016年08月27日 23時33分53秒 公開 ■この作品の著作権は 沙映 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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