グルメな吸血鬼 |
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吾輩は吸血鬼である。 名前はドン・ピニョール・プラボ三世、生まれはルーマニア北西部のトランシルヴァニアだ。 貴族の生まれだった吾輩は、二十六歳の頃、仮面舞踏会の夜に怪しげな美女に森の奥へと誘われ、襲われてしまったのだ。襲うといっても、別にえっちな意味ではない。本当に襲われたのである。つまり、彼女は吸血鬼、ヴァンパイアだったのだ。首筋をちゅうちゅう吸われてしまったのである。こうして吾輩は吸血鬼になってしまったのだ。 あれから早数百年の月日が流れた。人々は吸血鬼の存在を忘れ、あるいは伝承の中の存在としてしか認識せずもはや吸血鬼という存在を知るものはほとんどいない。だが、吾輩はこうして未だに存在し続けているのだ、吸血鬼として。 今や、吸血鬼のことを本当に信じているのは、一部の信心深い人間か、ヴァンパイアハンターだけである。まあもっとも、今やヴァンパイアハンターなんぞやっているのは、ごく少数の教会関係者だけになってしまった。しかしこの数百年の間、吾輩は修羅場という修羅場を乗り越え、生き残ってきたのだ。 改めて自分のことを客観的に見てみると、吾輩ってすごい。 だが、この長い時間の流れの中で吾輩を慕ってくれるものは力尽き、あるいは忌々しいヴァンパイアハンターに狩られ、引っ越しをすることおよそ数百回。気が付けば、この無駄に広くボロい屋敷には吾輩とメイドの二人しかいなくなっていた。 漆黒の空に、爛々と輝く怪しげな満月。深い森の奥にそびえる古びた屋敷の中で、月明かりが照らすもの全てが、まるで時を失ったかのように静止していた。吾輩を除いて。 ここは我が故郷トランシルヴァニアから少し離れた郊外の森の奥。 我輩は背後に月明かりを浴びながら、書斎にておよそ数百年という長い年月が経った大きな木製の豪華な装飾のされた椅子にふんぞり返りながら座り、大きな木製の年季の入った机に肘を立てる。 「おい、メイド」 「はい、ご主人様」 吾輩がそう声をかけると、銀髪の透き通る青い目をした、まるで人形のように白い肌の作り物のように見えるほどに綺麗な女性が、年季の入った木製の複雑な刺繍の施された椅子の下から、ひょっこり現れる。 彼女は吾輩唯一の配下であり、吸血鬼のメイドである。 名前はロザミア。吾輩は普段はメイドと読んでいるが、たまにロザミアと本名で呼ぶ時もある。 元々貴族であった我輩の父上が雇っていた、数あるメイドの中で一番年齢の若かったのがロザミアで、吸血鬼になった我輩が眷属にするために、最初に襲った人間でもあった。 今となっては遠い昔の話であるが。 「何をしている?」 「ご主人様を襲う輩が、いつ来てもいいように見張っていました」 「なるほど。お前は、東洋の言語で「アタマカクシテシリカクサズ」という言葉を知っているか?」 「知りません」 「今のお前のような状況を言うのだ」 吾輩のメイドは少し、人とずれているところがある。いや、吸血鬼だからそもそも人ではないのだけれど、とにかく普通の吸血鬼とちょっと違う。今風の言葉で伝えるなら、「天然」というやつらしい。 「それよりも、メイド。吾輩は腹が減った」 「かしこまりました。ご主人様のメイドとして、腕によりをかけて肉じゃがを作らせていただきます」 「うむ。うん……?」 「それでは食材を買いに行って参ります」 「ちょっと待て」 「何か?」 メイドは悪びれもせず、不思議そうな顔でそう尋ねた。 吾輩は咳払いをすると、困惑した表情で再度メイドに向かって尋ねる。 「今、何をすると言った?」 「え? ですから、お食事の準備を」 「まず、そこからおかしいよね? 我輩、吸血鬼でしょ? お腹すいたと言ったら、まず吸血鬼は何を食べるの?」 「メイド特製の肉じゃがでは?」 「いや、違うでしょう! 吸血鬼と言ったら『血』でしょ!? 真っ赤で新鮮な血液でしょう!」 「そんな……ご主人様のために深夜でもやっている料理教室を見つけて、毎日通っているのに……」 「その気持ちは嬉しいけどね! いや、本当にとても嬉しいと思うけど、そこはほら吸血鬼だから!」 吾輩がそう言うと、メイドは悲しそうな顔をして、まるで訴えかけるように言った。 「私の肉じゃがでは……駄目なのでしょうか?」 「うん、いや駄目ってわけじゃないよ? そもそもね、吸血鬼が血を飲むのはね? 生きるために必要だからなんだよ。肉じゃがじゃ、吸血鬼は生きられないの。威厳を保てないのよ」 吾輩は、メイドに向かって懇切丁寧に力説した。今後、彼女が吸血鬼である吾輩のメイドとして、そして吸血鬼であるメイド自身のためにも、大切なことであるからして、吾輩は彼女にちゃんと吸血鬼が何たるかというものを教えなければならないのだ。 「吸血鬼とはそういうものなのですか?」 「そういうものなのだよ。というかメイドよ、君も吸血鬼なのだから吸血鬼の常識というものを踏まえて行動したまえ」 「かしこまりました……」 メイドは反省した様子でそう言った。心なしか、彼女の頭のてっぺんに生えている『アホ毛』なるものが、項垂れている気がする。 我輩がなぜ『アホ毛』なるものを知っているのかというと、ちょうど今から十年ほど前に、現代調査の為、テレビジョンなるものを手に入れたのだ。屋根にはもちろんアンテナなるものを取り付けたので、衛生放送なるものも視聴可能だ。ここから現代の情報を吸収し、学習しているのだ。 ちなみに、吾輩が起きている深夜はアニメなるものがよく放送されている。最近の吾輩の楽しみの一つが、アニメなるもを視聴することなのだ。『アホ毛』の情報もそこから手に入れた。 「時にメイドよ」 「はい」 「肉じゃがとは何だ?」 「今ブームになっている東洋の食べ物で、スシの次にブームが来るであろう絶品料理です」 そう力説するメイドの目は爛々と輝いていた。最近メイドもテレビをよく見ているなと思いきや、料理なんぞにうつつを抜かしおって。そもそも東洋の食べ物とは何なのだ? 危険ではないのか? いや、吾輩は吸血鬼だし、人の食べ物を食べる必要もないのだ。 「メイドよ」 「はい」 「吸血鬼は肉じゃがなるものでは腹が膨れんのだ」 「では……どうすれば?」 「血を飲むしかあるまいな」 メイドはキリッと真剣な表情になり、首を縦に振った。どうやら吾輩の言っている言葉の意図を理解し、汲みとったようである。 すると、メイドは年季の入った古びた木製の戸棚から、錆びて刃先がボロボロになったのこぎりと、鉈を取り出し、冷徹な表情でそれを眺める。 「血ですか。分かりました、今から人間一人、半殺しにして生け捕りにして来ます」 メイドの暴挙に吾輩は少し同様しながらも、冷静に身を乗り出して制止した。これは由々しき事態である。 「いや、ちょっと待て。半殺しにして生け捕りはちょっと……可哀想ではないかな?」 吾輩がそう諭すと、メイドは不思議そうな顔をして首を傾げた。 「何故ですか?」 「いや、吾輩はいくら吸血鬼とはいえど、争いは望まないのだよ」 「争い?」 「そう。争いは次なる争いを生むものなのだ。吾輩の同業者もそんなことをやっていたから忌々しいヴァンパイアハンターに目をつけられ、退治されていったのだ。いついかなるときも、冷静な判断と適切な行動を忘れたものから、脱落していくものなのだよ」 吾輩は深くため息を吐きながらメイドに向かってそう言った。メイドはふんふんと我輩の話を聞きながら何度も頭を縦にふる。どうやら、理解して貰えたらしい。 「分かりました。死なない程度に痛めつけた後からじっくり血を抜き取ります」 「うん。全然分かっていないな君は!」 吾輩は再度身を乗り出し、今まさに意気揚々と扉に手をかけ出ていこうとするメイドを大声で制止した。 メイドは吾輩のその様子に、また小首を傾げる。一体自分が何をしようとしているのか、理解していないらしい。曲がりなりにも吾輩と、数百年を共に過ごし、あらゆる修羅場を乗り越えてきたのだ。こういうことは、わざわざ口に出さなくとも分かってもらえると思っていたが、どうやら吾輩の見込み違いらしい。 「メイドよ。いいかね? ただ、血を手に入れてくれば良いという訳ではないのだ!」 「そうなのですか?」 「うむ。何故なら、吾輩はグルメであるからな」 「グルメ?」 メイドは何のことか理解できず、呆然としている。 これだけ言っても理解出来ないとは……吾輩少し心が傷ついた。だが、吸血鬼たるものこんなことでは我輩めげない。理解できないのなら、理解するまで懇切丁寧に話せばよいのだ。 「そう、グルメだ。ただの人間の血では物足りんのだよ」 「お言葉ですが、ご主人様。人間の血はどこをとっても同じ味だと思います」 メイドは至極真面目にそう答えた。常人ならそう考えるだろう、もっともメイドの意見は当然の内容である。しかし、吾輩は吸血鬼の中でもさらに修羅場をくぐり抜け、この数百年を生き抜き現代まで存在し続ける大吸血鬼。そんな偉大なる我輩が頂く血が、ただの血であるはずがない。だからこそ、吾輩は吸血鬼の中でも、グルメな吸血鬼なのだ。 「分かっていないな。一見どこをとっても同じように見える人間の血の中でも、他とは別格に違う箇所があるのだ」 「そ、そんな場所が……」 メイドは驚愕の表情を浮かべている。フフフ……無理もなかろう。この大吸血鬼である我輩でしか知り得ない、隠された場所があるのだ。吾輩が唯一知っている、人間の血の中でも特に希少で、美味な部位。それは、誰もが思いつきも、考え付きもしない場所である。この我輩も数百年の時を経て、やっとたどり着いた至高にして究極の血液なのだ。 「ご主人様、その場所とは……」 ゴクリと思わず喉を鳴らし、今にも吸血鬼の犬歯を人間の首筋に立てるがごとく露出させ、白く透き通った生気のない白い肌を僅かに上気させながら、メイドは急かすように吾輩を凝視し、言葉を待つ。 「その場所とは……鼻」 「は……はな?」 「そうだ! それこそ至高にして究極の血、それは鼻血である!」 1 「……」 「メイドよ、なにか言いたそうであるな。意見があるのなら遠慮せずに言い給え」 メイドは神妙な面持ちで吾輩の顔を見つめる。そして、キュッと唇を噛み締めたかと思うと、目を逸らした。何かどうしても言いにくそうな表情である。 「ご主人様……」 「何だ? メイドよ」 「もしかして、ご主人様は変態なのですか?」 「なっ!? へ、変態だとぉ!」 思わず声を荒げてしまった。吾輩の英知の結晶にして、この数百年間あらゆる血を味わい、堪能してきた吾輩の至高の血液を……よもや、変態扱いなど、これほどの屈辱があるだろうか? やはり、常人には天才の趣向は理解し得ないのだろう。ここは吾輩の寛大な心で受け止めよう。だがしかし、ともに数百年を過ごした眷属と言えど、心どころか趣向さえ理解することが出来ないとは、なんと嘆かわしい。吾輩は悲しいぞ! 「ご主人様、落ち着いてください。もう少し良く、ご自身の発言をよく考えなさってください」 「吾輩は冷静だし、よく考えている。あと、我輩を可哀想な奴を見るような目で見るな」 「しかし、ご主人様は鼻血をどうやって飲むおつもりでしょうか?」 「そりゃ、鼻から滴る血液を、舌先に乗せて少しずつ吾輩の口元に運び……」 「やはり、変態ですね」 「吾輩は変態じゃない! 吾輩はグルメなの!」 「はいはい、ご主人様はグルメですね。ですが、一体どのようにして鼻血を流す人間を手に入れるのでしょうか?」 メイドは真顔で我輩にそう尋ねた。当たり前の話だが、普通の人間が鼻血を垂れ流して街の中を歩いているわけがない。我が至高にして究極の趣向を満たすためには、それなりの厳しい条件が必要なのである。だがしかし、その程度の困難で吾輩が怯むべくもなく、次なる一手はもうすでに打ってあるのだ。天才とは、常に常人の一歩先を歩むもの。メイドにもいつか理解が出来る日が来るだろうか。いや、まだまだ想像も出来ないな。 「いいか? メイドよ。鼻血を流した人間が吾輩たちの前にホイホイ現れてはくれないだろう」 「ごもっともです」 「であれば、どうするか? 君には分かるか?」 「手っ取り早い話、人間を攫い、死なない程度に顔面を傷めつけ、鼻血を確保したほうが良いかと」 「君は何も分かっていないな!」 真顔のままで悪びれもせずそう応えるメイド。いかん、このままでは我輩共々ヴァンパイアハンターに狩られてしまう。もっと穏便に、かつ誰にも悟られず安定的に血液を供給する方法を、吾輩が直々にメイドに教えてやらねば。 まるで、使命感にも似たような意思が吾輩の中でふつふつと湧き上がる。吾輩は吾輩の眷属で、吸血鬼の王国を作るまで、ヴァンパイアハンターに滅ぼされるわけにはいかんのだ! 「いいか、メイドよ」 「はい」 「これを見るのだ」 吾輩はメイドの目の前に求人情報誌を差し出す。メイドは何のことか分からず、なにか言いたげな表情であるが、吾輩は構わず話を続けた。 「これは求人情報誌である」 「ご主人様は一体何をなされるおつもりなのですか?」 メイドは吾輩のことを疑問の眼差しで見る。しかし、吾輩は少しも動じずにフンと鼻を鳴らす。そして、声高らかに我がナイスなアイディアをメイドに披露したのだ。 「ここを見てみるのだ」 「これは、メイドの募集?」 「そうだ。吾輩はもう一人メイドを雇うことにしたのだ」 「そんな……まさか」 メイドは驚愕の表情で我輩を見つめる。驚きすぎて口が空いたまま固まり、心なしかわなわな震えているようにも見える。無理もない、吾輩の素晴らしきアイディアを知り、声も出せぬほどに感激しているのだろう。伊達に数百年生きてはいないというわけだ。 「ご主人様は……私一人では不服なのでしょうか?」 「うん?」 メイドは顔を下に向け、両手で拳を作りキュッと握りしめている。微かにギリギリと拳を締め上げる音が聞こえるような気もする。明らかにメイドは何か気分を害しているような素振りだった。 いや、待て。今の会話の流れでどうしてメイドの機嫌が悪くなるのだ? 我輩には分からない。一体メイドは何を考えているというのだろうか。 「私はご主人様にとって、完璧なメイドでは無かったというわけなのですね」 「いやいや、まてまて。落ち着き給え」 「旅に出ます。捜さないでください」 そう言うと、メイドは体をくるりと反転させ、まっすぐ扉から出ていこうとする。それを吾輩は慌てて呼び止めた。 「いきなり何を言っているのだ! いいか、吾輩がメイドを雇うのは鼻血を手に入れるためなのだ」 吾輩がそう言うと、メイドはピタリと動きを止めこちらに向き直る。 「……鼻血を?」 「そうだ」 メイドは納得出来ないといった表情ではあるが、しぶしぶ吾輩の話を聞くために元の位置に戻ってきた。 安定的に鼻血を得る方法。それは、難しいように見えて実はごく簡単に手に入れることができる。その方法とは、我が屋敷に人間をこちらから招くことである。つまり、我が屋敷に人間をメイドとして雇い入れることだったのだ。 「人間のメイドを雇うことと、鼻血を飲むこと……一体何の関係が?」 メイドは低い声で、まるで急かすように我輩にそう尋ねる。 「まぁ、そう慌てるな。物事の過程をホイホイ喋ると失敗フラグが立つのだぞ?」 「失敗フラグ?」 「現代の言葉遊びだ、メイドよ。そして、実はもうすでにメイドを雇う契約をしたのだ!」 「仕事が早すぎます……ご主人様」 メイドは呆れたように我輩にそう言う。しかし、吾輩はそれを意にも返さず、わずかに唇を歪ませ嬉々とした表情で興奮を露わにした。 「フフフ……我が計画はすでに現在進行形で始まっているのだよ」 「しかし、こんな郊外の森にぽつりと建てられた怪しげな屋敷に、しかも夜の間だけメイドとして働くなんてそんな物好きが、本当にいらっしゃるのでしょうか?」 その時、まさにちょうどのタイミングで誰かが、我が屋敷の入口の扉を叩く音が聞こえた。噂をすれば何とやら、さっそくやってきたらしい。メイドはああ言ったが、吾輩の計画は万事順調である。求人広告を地元の新聞社にいる古くからの知り合いにお願いして出してもらったら、すぐに一人、働きたいという人間が見つかったのだ。 これからどう料理してやろうか、楽しみである。 「メイドよ。客人をここまでお迎えするのだ」 「かしこまりました」 しばらくすると、メイドは一人の女性を連れてきた。腰まで届きそうな長い金髪の、青い目をした二十代くらいのグラマラスな人間の女である。やたら大きく黒いバッグを重そうに肩に担ぎながら、黒い体のシルエットをくっきりと見せるセクシーなスーツを着こなしている。吾輩は思わず、ゴクリと喉を鳴らした。その時、一瞬メイドに睨まれたような気がしたが、気にしないことにした。 「ようこそ、我が屋敷へ。吾輩はこの屋敷の主、ドン・ピニョール・プラボ三世である」 「ドン、ピニョ……まあいいや、どうも初めまして。私今日からここでメイドやることになりました、ジータ・メルト・クライストと言います。よろしくね! てか、この屋敷暗くない? ちょっと電気つけてもいい? こんなに暗いと色んな物にぶつかりそうなんだけど」 「あ、ああ……よいぞ。スイッチは扉の横にある」 「ありがとね! ご主人様♪」 「う、うむ」 何だか積極的な女性で、少し吾輩は気圧され気味になってしまった。そういえば、メイドのロザミア以外と会話したのは、一体何百年ぶりだろうか。人に対してのコミュニケーション方法を忘れてしまった気がする。この人間の女とどう接して良いものか……。いや、何を悩む必要があるのだ。吾輩は偉大なる大吸血鬼であるぞ、何も緊張することはない、普通にふんぞり返って座りながら威厳を発しし続けていればよいのだ! そう悩むこともあるまい。 「明かりつけても、結構薄暗いわね~ちょっと不気味かも。そういえば、メイドの制服ってここで貸出してくれるの?」 「うむ、君の隣にいるメイドのロザミアが屋敷の案内や、具体的な仕事の内容も教えてくれるぞ。それではロザミア、よろしく頼む」 「ご主人様が名前で読んでくれた……」 ぽつりとメイドは小さな声で呟いた。小さすぎて我輩には聞こえなかったが、もう一度尋ねる前にくるっとこちらへ向き直り、『かしこまりました』と一言言うと、人間の女を屋敷へと案内しに向かった。なぜだか少し機嫌が良いように見えたが、気のせいだろうか? 二人が吾輩の書斎から出て行くと、思わずため息を付いてしまった。何百年ぶりの人間との会話に少し緊張してしまったらしい。だがしかし、これで終わりではない。むしろこれからが始まりなのだ、そう我輩は腹が減ったのだ。食卓の準備は出来ている。人間の女には悪いが、我が生きる糧としてその血を頂こう。 楽しみだ、すぐにでもあの人間の女から流れる真っ赤な赤い鼻血を啜りたい。はやる気持ちを抑え、次なる一手のために吾輩は立ち上がった。 「ん?」 その時、目の前に妙なものが落ちているのに気付いた。あの人間の女が落としていったものか? それは、菱型の透明な小瓶で中に透明な液体が入っている。急に背筋がゾクゾクと痒くなり、寒気を感じた。おかしいな? 我輩、吸血鬼だから寒気を感じることなんて無いのに。風邪をひいてしまったか? いや、まさかな。この大吸血鬼の我輩が風邪をひくなどありえん。気のせいか。 2 「へぇ! 意外と可愛いじゃん」 「気に入ってくれたようで何よりだ」 ジータという人間の女は我が屋敷のメイド服を気に入ったのか、自分の身なりを鏡で確認しながらそう言った。ふりふりのフリルの付いたメイド服に伝統的なトランシルヴァニアの青い小花の刺繍が施された、吾輩特注のメイド服だ。 ジータの隣りにいる吾輩のメイドは、我輩とジータをチラチラと見返しながらソワソワしている。一体何を気にしているのだろうか? おっとそうだった。吸血鬼に鏡はまずい。何故なら、吸血鬼は鏡に映らないのだ。もし、それに気が付いてしまったら我輩たちが吸血鬼とばれてしまう。それだけは絶対に避け無くてはならない。吾輩はジータから見て鏡に映らない位置にソロソロと移動する。 「それではジータさん。さっそくですが、メイドとしてのお仕事をして貰います」 メイドはキリッと真面目な顔をして、まだ少し浮かれ気味のジータにそう言った。ジータはハッとした表情をしてすぐに真剣な表情に戻る。 「おっす! 任せて。それで何をすればいいの?」 「では、さっそくご主人様の夕食の準備を。一緒に肉じゃがを作りましょう」 「にく……じゃが?」 聞き慣れない言葉に、ジータは困惑した表情でメイドに聞き返した。それでもメイドは一切表情を変えずに淡々と答える。 「ご主人様の大好物です」 「おい、メイド。サラッと嘘を教えるな!」 メイドの暴挙に吾輩は思わず抗議の声を上げてしまった。一体何故、それほどメイドは吾輩に肉じゃがなるものを食べさせたいのか分からないが、曲がりなりにも吾輩は吸血鬼。東洋の得体のしれない食べ物など口にできるわけがないのだ。そもそも、何度も言っているように吾輩は吸血鬼であるからして、人間の血液が唯一の主食。しかも、吾輩はその中でもより優れた血を求めるグルメな吸血鬼であるぞ。絶対に、人間の食べ物など口にしないのだ! 「にくじゃが……だっけ? どうしてロザミアはそれをご主人様に食べさせたいの?」 ジータからの予期しない質問に、メイドは急に顔を真赤にして下に向けた。そして何故か言いにくそうに、口をモゴモゴと喋りながら返事を濁らせている。その様子を見て、ジータは『なるほど』と呟いた。我輩には、一体何が『なるほど』分からない。 「つ、つまり……肉じゃがは東洋でお嫁さんが、旦那様に作ってあげる家庭料理なのです」 「は~ん、そう言うこと。ちなみに聞くけどさぁ」 「は、はい」 「あそこでこっちを見てる唐変木は、ロザミアの気持ちに気づいてるわけ?」 「そ、それは……」 ジータは急に我輩をジロリと睨む。一体何だというのだ……。メイドの様子もおかしいし、まるで吾輩だけ蚊帳の外ではないか。まぁいい、最終的に我輩がこの人間の女から鼻血を頂ければいいのだ。それまでの間、吾輩は道化にでも何にでもなろうではないか。 「ちなみに、ご主人様はロザミアのこと好きなの?」 「ちょっ!? ちょっとジータさん!?」 「いいから、いいから私に任せておいてよ」 何だか二人だけで盛り上がっておる。一体何を二人で盛り上がった折るのだろうか。ジータの質問の意図はよくわからないが、その答えはもはや口に出すまでもない。 「もちろんだ」 数百年も一緒にあらゆる修羅場をくぐり抜けてきた眷属だ。嫌いになる理由があるはずがない。だがしかし、こんなことを聞いて、人間の女は一体何を確認したいのだ? 吾輩の答えにジータは黄色い歓声を上げ、それとは対照的にロザミアは顔を下にむけてじっと固まっている。何だかさっきから、この人間の女のペースにハマってばかりではないか! いかんな……このジータとかいう人間の女、人の心に取り入ることに長けているやも知れぬ。もっとも、本人はこの技術に気づいていないかも知れないが……。 しかし、所詮我が食料となる運命。無駄な感情を抱く前に襲ってやろう。 「相思相愛じゃん! 良かったね、ロザミアぁ~」 「ち、違いますよ! そういう意味で行ったのでは、恐らく無いと思います!」 「まぁ……確かに。当の本人はなん事だがさっぱり分からないって感じだし、何だか顔もジゴロっぽい顔してるわ」 「ジゴロ?」 「あぁ~意味はね、ご主人様みたいな奴のことをそう言うのよ」 我輩を他所に何かを納得した二人のメイド。さっそく夕飯の支度をするために厨房へ向かおうとしたメイドを引き止め、吾輩は先にジータだけ行かせた。何故そんなことをしたのかというと、無論鼻血を手に入れるための作戦会議に他ならない。 「ですが……一体どのようにして鼻血を手に入れるというのですか?」 「メイドよ。良い質問だ、そこが問題なのだよ」 「はぁ……」 メイドは困惑した表情で吾輩のことを見る。しかし、ただの凡人ならここで終わりであるが、そこは大吸血鬼の吾輩、バッチリ作戦は考えているのだ。 「メイドよ。君たちが夕食の準備をしている間に、吾輩もそれなりの準備をしておく。出来るだけ時間を稼いでもらいたい」 「分かりました……ですが、あまり無茶な真似はしないでくださいよ?」 「フフフ……何を言っておるのだ? 吾輩の辞書に無茶という文字はないのだ!」 「何だか心配になってきました……」 二人が来る前に、予め用意しておいた物を食卓の方へと準備しておく。しかし、それだけではない。さらに鼻血を手に入れる確率を引き上げるべく、吾輩自身にも、ある仕掛けを施しておく。これで格段に鼻血を手に入れることができるはずだ。 長方形の、およそ二十人ほどが座れるほどに長いテーブルに、吾輩を含めた三人分の夕食が並べられる。大きなテーブルの割に、並べられた食器の数が少ないが、代わりに中央の大きな白い陶磁器にこれでもというほどに並べられた板状のチョコが目立つ。その光景に、我がメイドとジータは少し気まずそうな表情をしていた。 「二人ともご苦労。それでは席に座りたまえ」 吾輩がそう言っても、二人は中々席につこうとはしなかった。一体どうしたというのだろう? まさか、吾輩の計画が人間の女にバレてしまったのか? いや、どうやらそういうわけではないらしい。何故なら、同じく吾輩のメイドも席につこうとしなかったからだ。何やら言いたそうな目でこちらを見るメイド。それに対して、吾輩は自信満々の表情で腕を組んだ。 「何をそう畏まっておるのだ。今宵は我が屋敷で新しくメイドとして働くことになったジータのお祝いでもある、遠慮はせずにくつろぎなさい」 「あの……ご主人様。少しお話したいことがあります」 「どうしたのだ? メイドよ」 吾輩の言葉に返答すること無く、強引に腕を掴み引っ張るメイド。突然の行動に吾輩は驚いて体制も立て直せず、メイドに引きずられるように隣の部屋まで連れて行かれた。そして、メイドは振り返ることもなくジータに向かって、『ジータさんちょっとだけ待っててくださいね』と言いい、それにジータは苦笑いという形で返答するのだった。 「一体どうしたというのだ、メイドよ」 「ご主人様、まずお聞きしたいことが一つあります……」 「何だね?」 「あのテーブルいっぱいに広げられたチョコの山何なのですか!?」 メイドは声を震わせながら吾輩に問いかけた。うむ、確かにメイドには吾輩の作戦の具体的な内容は教えていなかったが、しかし数百年も一緒に生きてきた吾輩のメイドなら、言わずとも察して欲しかったぞ。だが、吾輩は慈悲深い吸血鬼である。その問に答えてあげようではないか。 「吾輩があそこにチョコを置いたのはもちろん、食べてもらうために決まっているではないか」 「食べてもらうにしてもあんなにテーブルにいっぱい、しかも板チョコを山のように積んでいるなんて……少し……いえ、だいぶおかしいです!」 「分かっていないな、メイドよ。あれはすべて吾輩が鼻血を頂くために必要な物なのだ!」 「鼻血を……?」 未だに分かっていないメイドに、吾輩は慈悲の心を持って懇切丁寧に教えてあげることにした。なぜ、吾輩があの場に大量の板チョコを用意したのか。それはもちろん、先ほどもメイドに言ったとおりジータに食べて貰うためである。では、なぜ吾輩はそうまでして人間の女にあれほどのチョコを食べさせたいのか。その理由こそが、鼻血である。 人は、チョコを食べ過ぎると鼻血が出やすくなるという。それならば、確実に鼻血を出してもらうためにありったけの板チョコを通販で注文し、今日の食卓に並べたのである。さらにジータは、今日ここに来たばかり。来たばかりである彼女は、吾輩たちのいつもの夕食を一度も経験したことがない。それならば、吾輩がこれが我が屋敷のいつもの夕食だよといえば、多少の違和感を感じつつも、それを受け入れざるを得まい。これが吾輩の構築した作戦の一つである。このことを、しっかりとメイドに説明してあげるとメイドは困惑した表情で『はぁ……』と一言呟いた。 「吾輩も何も考えず行動しているわけではないのだ」 「その理由は、取り敢えず納得致しました。しかし……」 だが、まだメイドには疑問に感じていることが残っているようで、曇った表情は未だに晴れることはない。一体他にどんな疑問があるというのだろうか? 吾輩が考えをめぐらそうと腕を組むと、メイドは吾輩の姿を上から下までじっくりと見入るように眺め、顔を真赤にしたながら声を荒げた。 「それと……ご主人様が下着一枚になることと、鼻血は一切関係ないと思います!」 メイドはついに耐え切れず、両手で顔を覆う。まったく、吾輩の裸を見たぐらいでそこまで狼狽するなど……それでは吾輩のメイドとしての名折れであるぞ? いや逆に、それ以上に吾輩の肉体美が美しすぎた、ということなのかもしれない。この洗練されたミケランジェロの彫刻のような、美しく儚い吾輩の筋肉美は、直視することが叶わないほどだったということか。 「全くしょうがないなメイドよ」 「い、いいから早く服を来てください!」 「やれやれ……いいか? メイドよ。吾輩が何の考えもなく裸になると思うのかね?」 「で、ですが、ご主人様が裸になる理由が見つかりません!」 「落ち着け我がメイドよ。これも、吾輩が人間の女から鼻血を手に入れるための作戦なのだ!」 そう、一見ただの変質者にしか見えないこの行動も、吾輩の作戦の一つなのである。人は興奮すると鼻血が出やすくなるという。そして、人が良く興奮しやすく、尚且つ鼻血を出しやすい条件は異性の裸を見ることだと、吾輩は現代の情報を知ることで学習することが出来た。つまり、この行動も効率よく鼻血を得るための吾輩の作戦の一つなのだ。 「良いか、メイドよ。吾輩がこの至高の肉体をわざわざ君たちに披露した理由はだな……」 吾輩がメイドに向かって説明しようとした時、コロンと何かが転がり落ちる音が聞こえた。それは、吾輩の足元からメイドの方に向かって、コロコロと転がっていく。 3 「ん? ご主人様これは……」 メイドは足元に転がったそれを拾い上げ、確認するために自分の顔へと近づける。それは先ほど吾輩が拾った、小さな透明の液体の入ったガラスの小瓶である。後でメイドから恐らく落とし主であろうジータへと渡してもらうために、スーツの内ポケットに入れたままだったそれを、下着一枚になった時に手持ち無沙汰になってしまい、左手に持ったままだったのを、無意識のうちに手を離して落としてしまったらしい。 「ああ、それは恐らくジータの落し物であろう。先ほど吾輩の書斎に落ちていたのを拾ったのだ」 吾輩がそう言うとメイドはその小瓶をマジマジと眺め、そして急に険しい表情に変わる。思わず引きつった顔を隠そうと、小瓶を持ったままの右手はそのままに、左手で口を覆い隠した。 「……ご主人様、これは聖水です! なぜ、このようなものがこの屋敷に……?」 メイドは切羽詰まったような表情で小瓶を見つめる。それもそうだ、聖水とはただの水ではない。吾輩たち吸血鬼や悪魔、一般的に不浄とされるものを清めて浄化する事ができる、聖なる水である。吾輩たち吸血鬼の数ある弱点の一つであり、忌々しいヴァンパイアハンター等が吸血鬼の力を弱めるために常備しているものの一つだ。 だから、吾輩があの小瓶を持った時に異様な悪寒を感じたのか。しかし、吾輩ほど吸血鬼になるとその程度の小瓶に入っているような量の聖水では、ほとんど何も感じない。だから、吾輩はメイドに言われるまで気づかなかったのだ。しかし、であるからといって、吾輩の屋敷に聖水の入った小瓶が落ちていたという事実を有耶無耶にすることは出来ないであろう。 「まさか、吾輩の屋敷にヴァンパイアハンターが……」 「ご主人様、何か心当たりでも?」 「いや……。だが、一体誰が我が屋敷に聖水を持ち込めるというのだ――」 吾輩はそう言いかけて、はっと何かに気付いた。人影である。しかし、それが吾輩の心に渦巻いていた疑心を更にかきたてた。……一人しかいないではないか。聖水の入った小瓶などというものを、我が屋敷に持ち込める人物など。 「ジータ……さん?」 ロザミアは不安そうに、人影に向かってそう声をかける。しかし、返事の代わりに返って来たのは野生の動物を捕獲するような、大きなネットだった。それがメイドの頭上を覆いかぶさるようにして落ちてくると、人影の人物は吾輩たちの前にゆっくりと現れる。 「きゃぁ!? な、なんですかこれ!? 身動きが取れませんっ……!」 「ロザミア! 大丈夫かね? 一体誰が……!?」 廊下に一定の間隔で並べられたオレンジ色のランプの明かりに照らされて現れたのは、吾輩が今日メイドとして雇ったばかりのジータであった。手には大きなバズーカーなるものを抱え、その先の方からは白い煙がモクモクと立ち上っている。つまり、間違いなく先ほどのネットは目の前のジータが放ったということだ。 「どういうつもりなのだ!」 「ご、ご主人様落ち着いてください……彼女はきっとヴァンパイアハンターです!」 ロザミアは叫ぶようにそう言った。ジータはそれに返答する代わりに、チャラリとポケットから小さな銀の十字架を取り出す。あれは、この辺りを守護している協会の神父や修道女の証。 教会の十字架を持っているとは……やはり、ジータはヴァンパイアハンターだった。しかしまさか本当にヴァンパイアハンターが、我が屋敷に現れるとは……。この数百年、吾輩が生き延びてこれたのは偶然にも、ヴァンパイアハンターからあまり標的にされなかったおかげだ。一度見つかり襲われた時は、多くの眷属を失ってしまった。 「ヴァンパイアハンターが吾輩たちに一体何のようなのだ? わざわざメイドに変装して、紛れ込む様なことをしなければならない用でもあるのか?」 「それは……あんたたちが妙なことをしようとしてるからでしょう?」 ジータは呆れるようにそう言った。このままでは、吾輩もろともロザミアまで滅ぼされてしまう。どうにかして、このピンチを載り切らなくてはいけない。落ち着いて冷静に対処しなくては。出来るだけ話し合いで解決できるように心がけるのだ。 「落ち着けヴァンパイアハンターよ。まずは話し合いから始めようではないか。お互い、無益な殺生はやめて、平和的解決を目指そう」 「平和的……? あんた何言ってんの?」 ジータはまるで可笑しな人間を見るような目で吾輩のことを見る。それは、未だかつてこんな風に惨めに命乞いをしようとした吸血鬼と出会ったことがないからであろう。しかし、吾輩はそうではない。他の吸血鬼たちは、自らの命のためにプライドを捨てるということが出来なかった。しかし、吾輩なら……それができる。だからこそ、この数百年を生き延びてこられたのだ。 「吾輩は、人間と吸血鬼の平和的共存を望んでいるのだ! であるからして、吾輩は今まで人間を殺めたことなど一度もない」 「ふーん……確かにねぇ」 ジータは腕を組みながら、吾輩の話に耳を傾ける。そう、吾輩たちはこの数百年一度も人間共を殺めたことはない。それは、吾輩が元々暴力が嫌いな性格であるということも理由の一つであるが、多くの人間から憎まれるものは、遠からず必ず滅ぼされてしまうことを知っているからだ。 吾輩の父上がそういう男だった。吾輩が吸血鬼になってから、僅か二十年後の話である。貴族であった我が一族は、多くの農民からその傲慢な態度と圧政により、ついには各地で起きた革命の波に押されて滅ぼされてしまったのだ。実を言うと、自分より弱いものには態度が大きく、目上の人には下手に出るそんな父上が吾輩は大嫌いだった。 「でも、わざわざここまで来たんだから、手ぶらでは帰れないのよ」 そう言い、ジータは左手に持っている銀の十字架のチェーンを指に絡めてくるくると回す。 「あなた達の存在は何十年も前から知ってるんだけど、一応無害ってことで監視するだけに留まっていたわけなの。でも、最近妙な行動をしているという情報が私達の耳に入っててね? 一体あなた達は何をしようとしているのかを教えてもらいたいのよ」 なるほど、言いたいことはわかる。そして、吾輩たちは別に人に危害を加えようとしていたわけでは無い。ここはどうやら話し合いで解決できそうだ。 「一体あなた達は、人間のメイドなんて雇って……何をしようとしていたのかしら?」 「吾輩はただ、血が欲しかったのだ。知っているだろう? 吸血鬼は血が必要なのだ! 血を飲まなければ死んでしまう。だから――」 「人間のメイドを雇って襲い、血を頂こうとした、というわけね」 「いや……当たらずとも遠からずといったところだ。吾輩が欲しかったのは、血は血でも『鼻血』なのだ」 「は?」 ジータは吾輩の言葉の意味理解できず、口を開けたまま固まっている。しかし、それが真実でありそれ以上の理由は無い。だがしかし、少し雲行きが怪しくなってきた気がする。ジータは吾輩のことを訝しむように睨みつける。一体、何が悪かったというのだろうか。 「そもそも……格好からおかしいじゃない。何で下着一枚なの? 何で鼻血なの? やっぱりあんた、血を吸うために、人間の女をメイドに雇って殺そうとしたんじゃないの?」 「いや、誤解だ! 吾輩は何も殺そう思ったのではない! ただ、吾輩が生きるために鼻血を頂こうとしただけなのだ!」 「だから、それが根本的に間違ってるって言ってるんでしょ! ……もういいわ。やっぱり吸血鬼は腐っても吸血鬼なのよ。ここで滅ぼさないといけないわね」 「お、落ち着き給え……ジータ君!」 「あんたに私の名前を着やすく読んで欲しくないわ」 そう言い、ジータはスカートの中に隠し持っていた銃を二丁、両手に持ち替え吾輩たちの方へと向ける。 まずい、一体何が悪かったのかさっぱりわからないのだが、どうやら吾輩はジータを怒らせてしまったらしい。ここ数百年まともに人間としゃべったこともないし、全く人間の感情というものがわからないのだ。とにかく、何とか吾輩がジータを止めなくては。 「ご主人様……! お逃げください!」 ロザミアはネットが体に絡まり、身動きがとれない状況にもかかわらず、吾輩を庇おうと何とか身を捩り、ジータの注意を引こうとしている。 「大丈夫だ、ロザミア。吾輩がなんとかする」 吾輩はそれを静止するように、ロザミアの前に出る。しかし、ジータは表情を変えることもなく銃口を向けたまま睨んでいる。まさに、少しでも妙な真似をすれば、その二丁拳銃に込められた銀の弾丸で撃ち抜き、ボロ雑巾のようにしてやるぞ、という意気込みさえ聞こえてきそうなほどの気迫である。 だが、ここで吾輩が何とかしなければ吾輩もろともロザミアまで殺されてしまう。それだけは何とかしなければならない。大切な眷属の命は、我が生命に変えても何とかしなくては! 「ジータ……その銃を下ろす気は無いのか……?」 「残念ながら無いわ。この銃口を下ろすときは、マガジンの弾が空になったとき以外よ」 話し合う気はまるで無いということか。吾輩が一肌脱ぐしか……それしか方法はあるまい。 意を決し、吾輩を自らの肌を覆う、ただ一枚の下着に手をかけた。 4 ジータが引き金かけた指に力を込める一瞬の隙をつき、吾輩は唯一身につけていた、たった一枚の下着に手をかけ宙に放り投げる。一瞬の間の出来事だった。 ジータは吾輩の下着に目を奪われる。突然の予期せぬ行動に、理解と視界を一気に奪われてしまったのだ。吾輩だって、こんなことをする気はサラサラ無かった。いかに、吾輩が平和主義といえども人間の前で下着を脱ぎ、一糸まとわぬ姿になるなど吸血鬼としてのプライドが許さない……そのはずだった。吾輩は捨てたのである。プライドも、唯一身につけていた純白の下着も。それも全て我が眷属を守るため、それ以外のものは吾輩の命も合わせて全て捨てる覚悟だから、そうしたのだ。 吾輩は走る、この瞬間しか無い。ジータを止めるために吾輩は少しでも前に少しでも先へ、急かすように足を早める。 「な……!?」 ジータの視線がこちらへ戻る。向かってくる吾輩にようやく気付いたジータは、理解の範疇を超えた状況に、引き金にかけた指を引くことが出来ない様子だ。まだ宙に吾輩の下着は舞ったままで、ゆっくりとした時間の流れの中、吾輩は確実に慎重に一歩一歩と歩み出している。非常にスローに感じる時間の流れの中で、吾輩の意識だけはやけに鮮明だった。 「いやぁぁぁぁぁぁ!」 「うおぉぉぉぉぉぉ!」 ジータはあらん限りの声で絶叫した。吾輩もあらん限りの声で叫んだ。それはジータに脅しをかけるためであると同時に、自分を奮い立たせるためにである。人間の女よ、我がプラボ家に伝わりし秘術その身にとくと味わうがよい! 「プラボ流奥義! 絶対安全爪(ウンディアブソリュートシーグレ)」 両手の平を大きく開き、爪を立てる。そして、思い切り床を蹴った。吾輩の速さにジータは反応することが出来ず、ただ時がすぎるのを待つしか無い。刹那、吾輩がジータの背後に到達した時には、すでに行動は終わっていた。 ビリビリに破れるメイド服と砕け散る銃、風圧で服の破片は散り散りに辺りに吹き飛び、そこには一糸まとわぬ人間の女一人と吸血鬼が立っているだけだ。だが、ジータの肌にはかすり傷一つ付いておらず、五体満足綺麗なままである。それが我がプラボ家に伝わる秘術にして奥義、絶対安全爪(ウンディアブソリュートシーグレ)である。プラボ家が長年の研究にて編み出した、体術と技術による妙技。それに吾輩は少し吸血鬼流のアレンジを加え、奥義とした。その名の通り、身体には『絶対安全』である。しかし、それ以外のものは散り散りに砕ける。まさに夢の様な技だ。 「え? 何これ――」 ジータは何が起きたのか分からず辺りを見回す。そして、今の自分がどういう状況かを理解した。吾輩はジータの方に振り返り言う。 「さて、どうする? 続けたいのなら吾輩は一向に構わんぞ?」 「こ、このぉぉぉぉぉぉ! 覚えてなさいよぉ!」 ジータは顔を真赤にしながら大事な部分が見えないように器用に隠しつつ逃げ帰る。そしてその背中を最後まで見送り、力尽きた。どうやら、血が不足している状態で無理をしすぎたらしい。もう体が動かないのだ。そのまま吾輩は直立不動のまま、うつ伏せに倒れこむ。 「ご……ご主人様? ご主人様しっかりしてください! 今助けますから、今すぐこの邪魔なネットを切って……!」 「う……ロザミア……吾輩の最後の頼みを聞いて欲しい」 「ご主人様……! なんでも、おっしゃってください……だから、そんな弱気な顔をしないで……」 「冷蔵庫……」 「冷蔵庫がどうかされたのですか……?」 「冷蔵庫に地元の町医者から貰った輸血パックがある……。取ってきてはくれまいか?」 「……」 「どうした? ロザミア?」 「私……知らなかったんですけど」 「実は、地元に務める町医者のひいひいお爺さんと吾輩が幼なじみで――」 「というか、何で冷蔵庫に輸血パックがあるのにこんな真似をしたんですか?」 「だから、吾輩は新鮮な人間の鼻血をだな……っておい? どこへ行く? ロザミア! ちょっ……ロザミアさん? ちょっと待って! 本当に立てないのだ! お願い! お願いします助けてください! ロザミアさぁぁぁん!」 「あぁ……鼻血が飲みたいな」 「まだ言ってるんですか? いい加減、輸血パックで我慢してくださいよ」 「だから言っただろう? メイドよ、吾輩はグルメな吸血鬼であると。ただの鼻血では吾輩の腹は満たされないのだよ」 吾輩は書斎の椅子にふんぞり返りながら、輸血パックの先を口に加えつつ腕を組む。そんな吾輩の様子を、ロザミアは呆れたように眺めている。 あの出来事から大体一ヶ月ほど時間が流れた。吾輩の屋敷はいつもの二人に戻り、いつもの日々を送っている。ジータが去ってから、教会からの刺客やヴァンパイアハンターが来ることもなく、いたって吾輩たちは平和なままで、一ヶ月前のあの出来事など初めから起こってなどいないかのような、そんな気さえしてしまう。 「ご主人様! それよりも私の肉じゃがを食べてください!」 「またか……」 ロザミアは、また懲りずに肉じゃがなるものを作って吾輩の目の前に置く。吾輩は吸血鬼だから、血以外口には絶対に入れないと言っているのに、一ヶ月前のあの事件以来、ほぼ毎日のように吾輩に肉じゃがなるものを食べさせようとしてくるのだ。 「なぁ、メイドよ」 「どうしました?」 「どうして君はそんなに吾輩に肉じゃがなるものを食べさせようとするのだ? 何か意味でもあるのか?」 「そ、それは……」 急にロザミアは顔を真赤にしてうつむきながら黙り込んでしまった。別に特別、変なことを聞いたつもりはないのだが。 「と、東洋では肉じゃがは……妻が夫に初めて食べてもらう伝統的な手料理なので……その――」 ロザミアは何やらブツブツと独り言を呟いている。だが、声が小さくてよく聞き取れない。 「しかし、吾輩は吸血鬼であるからな。吾輩の口は人間の血液しか受け付けんのだよ」 吾輩がそう言うと、ロザミアはしょんぼりしたような顔をして項垂れた。さすがに可哀想に思えたが、吾輩にはどうすることも出来ない。慰めの言葉でもかけようかと、言葉を探して腕を組みながら目をつぶって考えていると、ロザミアは吾輩に恐る恐る聞いてきた。 「では……どうしたら食べていただけますか? 私、ご主人様に肉じゃがを食べて貰えるなら何でもします!」 ロザミアは必死に、今にも泣きそうな情で吾輩に言った。ふむ、どうしてもロザミアは吾輩に肉じゃがなるものを食べて貰いたいらしい。しかし、吾輩が人間の食べ物を食べるのは数百年ぶりだし……お腹壊しそう。だが、我が眷属の願いを無碍に断るわけにもいかない……。 「何でも……してくれるのだな?」 「はい……! 私に出来る範囲のことなら……何でもします」 ロザミアは顔を真赤にしながらも、懇願するように吾輩にそう言った。そこまで言うのなら、しょうがない。吾輩がロザミアに向かって『分かった』と言うと、ロザミアは顔を輝かせて嬉しそうに飛び跳ねた。こんな顔をするロザミアを見るのは初めてかも知れない。いつもほとんど無表情で、たまに怒るか呆れられることばっかりだったので、何だか吾輩も嬉しい気持ちになった。 「ただし、条件がある」 「条件、ですか……?」 「あぁ」 吾輩がロザミアの願いを叶える条件は、一つだ。そう、もちろん『あれ』である。こんなことを、吾輩が眷属にお願いするものおかしな話だが、こうまで言ってくれているのだ。その好意に甘えさせてもらおうじゃないか。 「君の鼻血を舐めさせてくれ」 |
キーゼルバッハ 2016年08月27日 22時22分32秒 公開 ■この作品の著作権は キーゼルバッハ さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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